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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.25

【連載コラム】鉄道ファン必読。内田百閒と宮脇俊三の著作から、酒井順子が鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#18

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※本記事は連載コラムです。



前回までのあらすじ

鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負う。鉄道旅を心から楽しみ多くの紀行文を残した二人だが、書くことについて、それぞれに悩みは尽きなかった。女子鉄・酒井順子が二人を比較しながら、時代とともに発展する鉄道と鉄道紀行を読み解いてゆく。

 中央公論社での編集者時代は数々のベストセラーを刊行し、若くして「中央公論」「婦人公論」の編集長を歴任。常務取締役だった五十一歳で会社を辞め、その翌月に『時刻表2万キロ』を刊行するとベストセラーに。以降、売れっ子の鉄道紀行作家として執筆を続ける。
 ……というみやわきしゆんぞうの仕事人生は、当時の多くの人々、特に同年代の男性を羨ましがらせた。会社員として成功しつつも会社に身をささげることなく、潔く見切りをつけて自分の好きな道へと進めば、そちらでも成功を収めたのだから。
 しかし自筆年表を見ると、会社員時代の宮脇は、様々な苦難に見舞われている。特に管理職となって以降、組合問題には苦慮したようだ。辞める前にも二度ほど辞表を出したことがあり、実際に受理されたのは三度目の辞表だった。
 会社を辞めた後の解放感はさぞや、と思うのだが、宮脇の二冊目の著書『最長片道切符の旅』の冒頭には、
「自由は、あり過ぎると扱いに困る」
 とある。もちろんそこには、会社員生活からの解放を無邪気に喜ぶことへの恥じらいもあろう。が、急にもたらされた膨大な「自由」に戸惑う気持ちがあったことも、事実ではないか。
 会社員時代の宮脇は、金曜日の夜から月曜日の朝までの時間を使って鉄道に乗ることが常であった。デビュー作『時刻表2万キロ』に記された旅は全て、そのような条件下で行われていた。
 会社を辞めると一転、いつ旅に出てもよいという状況となる。会社員としての制約の中で、いかに効率よく列車に乗るかと考えるところに妙味があったのが、自由の身になったら「時刻表をひもどく楽しみが減殺され」たと『最長片道切符の旅』には続く。あくたがわりゆうすけいもがゆ』の主人公のような心境とも言えよう。
 そこで宮脇は、
「自由を享受しながら制約をつくりだし、時刻表の楽しみを回復するにはどうしたらよいのか」
 と思案する。導き出したのが、北海道から九州まで、最長片道切符で旅をするという計画だった。
 同じ駅を二度通らず、一筆書きの要領で可能な限り長距離を走るというこの〝遊び〟は、既に鉄道ファンの一部で行われており、決定版と言われるルートも存在していた。宮脇は、その〝正解〟を見ないで、自身でルートを作成。最後に〝正解〟と照らし合わせると、そちらの方がやや長いルートを通っていたので決定版を採用し、北海道のひろから鹿児島のまくらざきまで、三四日間の旅を六回に分けて敢行した。
 会社という制約を失うと同時に、自身で別の制約をつくりだす。この行動は、鉄道好きとしては当たり前のことだったのだろう。鉄道は「線路という、輸送効率は高いが不自由なものに縛られている点に最大の特色がある」。だからこそ「鉄道施設は他の輸送機関とは比較にならぬほど複雑であり、せいをきわめたダイヤグラム(時刻表)を必要とする。そこが面白い」(『旅は自由席』)のだから。
 鉄道は、自動車のように好きな時間に出発して、好きな道を進むわけにはいかない。線路とダイヤグラムによって二重に拘束される運命にあるが、鉄道好き達はその拘束の中でどのように自分の意思を貫くかを考えるところに、よろこびを感じるのだ。
 鉄道好き達は、時にダイヤグラムに文句をつけたりもする。つまり「縛り方がなっていない」と、鉄道会社へ不満を抱くのだ。そればかりではない。なぜこのような味気ない車両を使うのか。あの路線を廃線にするとは何たること。……などと様々な不満を抱くのだが、それらの背景に存在するのは、
「もっと上手に縛ってくれ。そしてもっと気持ちよくさせてくれ」
 という心の声。
 宮脇は、鉄道紀行の中では、いわゆるオタク的知識を開陳することはあまりない。だからこそ一般的な読者からの人気をも得たのだが、『時刻表ひとり旅』は珍しくオタク精神を解放させた書である。時刻表とはどのようなものかから始まり、自分でもダイヤグラムのスジを引いて楽しむことがあることを告白しているが、そこにあるのは「つくりたい駅、走らせたい列車」という一章。時刻表を読んでいると、「これじゃあダメだ」「こうすればいいのになあ」と思う部分があちこちに出てくるのだそうで、「自分ならこうする」というプランがその章には記されている。
 また『線路のない時刻表』は、完成しないままに工事が中止となった新線をたどる紀行集だが、その時に宮脇は「もしも開通したらこうなるのでは」と架空の時刻表を自作してから、旅に出ている。その後、第三セクターなどの姿となって本当に開通すると、自身の時刻表と、本当の時刻表との〝答え合わせ〟をも行うという徹底ぶり。
 現在では、自身が考えた架空の鉄道をウェブ上などで披露する人も多い。宮脇が四十年前から、既に「自分ならこう縛る」という手さばきを見せていたことを思うと、昔も今も鉄道好き達は、理想とする縛られ方を自分で考えずにはいられないことがわかるのだった。
 宮脇が会社から解放された直後に、最長片道切符という新たな制約を自分に課したのは、鉄道好きの性癖を考えると当然だったのだろう。昭和五十三年(一九七八)六月に会社を辞め、夏いっぱいかけて最長片道切符の旅のルートを作成し、十月から二ヶ月ほどかけてその旅を決行。そこから執筆にとりかかり、翌年十月に刊行された『最長片道切符の旅』もベストセラーとなり、鉄道紀行作家としての軌道も定まっていったのだ。
 その後も宮脇は、自ら決めたルールに従って旅をすることがあった。たとえば「日本通史の旅」シリーズでは、史跡を年代順に巡るというルールを、自らに課している。『平安鎌倉史紀行』で院政の舞台となったきゆうあとを訪れた時は、保元の乱の発端にかかわるあんらく寿じゆいんという寺がすぐそこにあるにもかかわらず、
「しかし、いまこの寺を見物しては『時代順厳守』のわが旅の原則に反する」
 ということで「目をつぶって過ぎる」。そして三ヶ月後の旅で「いよいよ保元、平治の乱だ」となって、以前の取材で前を素通りした安楽寿院を、再び訪れるのだ。
 自らに課したルールを愚直なまでにじゆんしゆする宮脇は、ここでも縛られることを楽しんでいる。きっちり年代順に史跡を巡るために、史実があった「年」だけでなく「月」「日」まで調査。旅先でもルート選定作業を続けるためにかばんは資料で重くなり、調べているうちに睡眠時間は削られるけれど、
「その作業は楽しい。こんなことばかりして暮らしていけたらと思うほど楽しい」
 と、時の経過を忘れて没頭するのだ。
 宮脇は、他人が決めたルールでも、楽しむことができた。編集者から「国鉄を使わずに東京から大阪に行く」というプランを提示され、その旅に意義やら意味やらがあるのだろうか、と疑問に思いつつも、
「東京を朝ってその日のうちに大阪へ着いてみたい」
 などという欲求も湧いてきて、ついプランを立ててしまう(『旅の終りは個室寝台車』)。
 また、「東京の地下鉄に一日で全て乗る」というプランを持ちかけられた時は、地下鉄は乗っていてそれほど面白いものでもないのだが、と思いつつも、
「はたして一日で全部乗れますかな」
 などと答えてルートを考え出すのだ(『汽車との散歩』)。
 旅の計画を練る楽しさは「しばしば実際の旅行を凌駕する」(『旅の終りは個室寝台車』)とあるように、旅程を考える宮脇は、いつも生き生きとしている。もちろん実際に鉄道に乗るのも楽しいのであり、旅に出ると体調が好転して食欲が増すのが常であったことは、以前も書いた通り。しかし、既に終わった旅について書くことはどうだったのかというと、旅の計画・実行の時とは一転して、トーンダウンするのだった。
 宮脇は著書の中でしばしば、原稿を書くことのつらさについて触れている。旅から戻って机に向かえば、一日の旅のことを書くのに何日もかかる。頭をかきむしりつつ書くうちに、旅で増えた体重も次第に減ってしまう……。
 自分の中にまっているものを出すという意味で、随筆を書くことははいせつに近い部分があり、宮脇も『時刻表2万キロ』については「排泄作用のような本だったから楽に書けた」としている。が、会社を辞めて以降、「仕事として書くとなるととんでもない苦労であることがわかってきた」(『駅は見ている』)のだ。
 作家となった当初、「書くために旅行する」ことを重く捉えた宮脇は、旅の間に詳細なメモをとっていた。すると旅の楽しさが失われ、
「旅行記を書かねばならぬという意識が重くよどんでいた。私にとって唯一の憩いの場、聖域が侵されてしまったのである」(『駅は見ている』)
 という状態になる。
 逐一メモをとることはその後やめたが、しかし書くことが楽になったわけではない。原稿執筆時のしんぎんぶりは、宮脇が各所に書いている通り。
「旅」誌の宮脇俊三特集号において、「紀行文を書く上で留意しているのは?」との読者の質問に対して、
「読む人よりも自分の方が面白がっちゃいけない。楽しそうに書いてる旅行記って面白くないんですよ。なるべく押さえて、やさしい文章でできるだけ正確で、なおかつ価値があり面白ければいいんで、そういうことだけ書こうと心がけています」
 と宮脇は答えている。二〇〇〇年に出たこの「旅」誌を私は折に触れて読んでいるのだが、旅行記をそのように書くことの難しさは、年をとるごとに身にしみる。
 宮脇は、読者が読んで価値のある「旅行記」を書くため、「旅行」を一度解体し、ゼロから積み上げ直している。日本庭園はいかにも自然な風景に見えながら人工美の極致にあるものだが、宮脇の文章も、旅そのままのような読み心地であるけれど、それは体験と教養とを細心の注意をもって組み上げ直した、巧緻な作品なのだ。
 中でも宮脇が気を配ったのは、読者に何らかの「得」をしてもらうことだった。鉄道に関する知識だけでなく、車窓の風景から歴史を説き、旅先の山河から日本の地理を見るという視線の持ち方を、読者にもたらしたのだ。
『線路の果てに旅がある』の文庫解説では、わたなつひこ氏が、
「カネとって読んでもらうのにたえるもん書こうと思って、ちょっと努力してますから。命縮める思いで、だらしない文章書いているわけです。つるりと喉越しのいいソーメンを作るのも大変なんですよ」
 という宮脇のインタビュー中の言葉を紹介している。誰にとっても面白く読みやすい紀行を「つるりとした喉越しのいいソーメン」とたとえたのだが、宮脇は喉越しだけでなく、読者に滋養がつくような栄養分をも、ソーメンに含ませた。
 抑制の効いた文章、読者のためになる知識、そしてわかりやすさと面白さ。宮脇が自らの原稿に課したハードルは、高い。名編集者の視線で自らを見ていたからこその厳しさだったのだろうし、読者から「カネ」をとっているという意識も、長い編集者生活の中で培われたものではないか。
 旅が規制で縛られると、かえってやる気が出た宮脇であったが、しかし書くという行為にかけた規制は、自身を苦しめた。「命縮める思い」との言葉は、冗談で言ったわけではあるまい。
 しかし読む側は、ソーメンの喉越しがよければよいほど、書き手も楽しく書いているに違いないと誤解する。
「趣味が実益、結構なことですな」
 といったことも、嫉妬まじりにしばしば言われたようだ。
 会社を辞めて作家となってから十年がった昭和六十三年(一九八八)に、宮脇は「自分と出会う」というエッセイを書いている。本来であれば定年を迎えている年齢となったが、作家に定年はない。「高度成長時代の働き蜂として全力を会社にささげ、定年後は時間を持て余している人たちにとって、私のような生き方は羨望と嫉妬の的であるらしい」との自覚も、持っている。
 しかし宮脇はそこで、今の状況は「たまたまの巡り合わせ」の結果であって、
「天職という気がしないのだ」
 と書くのだった。さらには、
「やっぱり趣味は仕事にすべきじゃないな、とも思っている」
 とも。
 それは外野からの嫉妬を封じるための言葉でなく、心からの告白だったのだろう。鉄道を愛する純粋な気持ちに仕事というきようざつぶつが入り込んだ時、宮脇は闇を見たのではないか。
 同じ頃に書かれたエッセイ「拾いもの人生」には、好きな「汽車ポッポ」の道を仕事にしたはいいが、「一〇年もやれば飽きてくる」との言葉が。さらには「心機一転して新しい仕事をやってみたいとの気持ちが鬱勃としている」ともあった。
 うちひやつけんの場合は、鉄道のことを専門に書く作家ではなかった。戦争が終わって旅ができる状況となり、六十代にして初めて本格的に鉄道紀行を書いたのである。「ほう列車」は百閒にとって、書く時に排泄的感覚を得られる作品だったように思う。
 対して宮脇は、基本的には鉄道紀行を専門に書く作家だった。どんな好きなものでも、仕事として日々向き合っていれば飽きがくるが、しかし鉄道が好きという気持ちが強いからこそ、その感覚はボディブローのように宮脇を苦しめたのだと思う。
『時刻表昭和史』に書かれている、戦争中でも危険をかいくぐって鉄道に乗らずにいられなかった、青年時代。金曜日の朝にどこかに出かけそうな予感を覚え、時刻表と洗面道具を鞄に入れていそいそと出社した、『時刻表2万キロ』での会社員時代。……そんな時代と比べると、作家になってからの宮脇は、鉄道に接する時間はぐっと増えながらも、鉄道愛の持ち方が変わっていたのだ。
 紀行作家を「天職ではない」と思うようになり、新しい仕事への興味すら抱いた、宮脇。それは今風に言うなら、紀行作家としての自分が「本当の自分ではない」という感覚であったのだろう。
 では宮脇はその時、何をしたかったのだろうか。自筆年表からは、若い頃、意外に進路の決定に迷走している様子が見られる。東大では地質学科に入るも、西洋史学科に転部。卒業後に中央公論社に入社してすぐ結核のため休職し、その間に小説を執筆。やがて小説より建築の方が向いているように思って建築家に弟子入りしたものの一年で断念し、その後で会社に復職しているのだ。
 前出「自分と出会う」には、子供の頃から「自分の持って生れた性格・資質のぜいじやくさが無念でたまらなかった」とある。若い頃に書いていた小説は、そんな中で「弱き者こそ幸いなれ」といった内容であったのだそう。
 曲折を経てやがて紀行作家となった宮脇は、小説家を目指していた頃を思い、
「あのころ、これ以外にはないと必死になって原稿用紙に向っていた自分こそ、生涯で出会った最初にして最後の『自分』ではなかったかと思う」
 とエッセイに書いた。それは若き頃への郷愁だったのか、それとも天職ではない道で成功した自分に対する違和感の吐露だったのか。宮脇は紀行作家となった後も、自ら心の片隅にある弱さの存在を意識し続けていたのだと私は思う。

 宮脇は紀行作家となってから、短編小説集『殺意の風景』を刊行している。旅、鉄道、地理といった宮脇の得意なジャンルにミステリーをかけ合わせたこの本は、いずみきよう文学賞を受賞。直木賞の候補作ともなったが、宮脇がその後、再び小説を刊行することはなかった。



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