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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.1

【酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」】鉄女・酒井順子が敬愛する内田百閒と宮脇俊三。二人を比較しながら鉄道と文学について綴る。#5-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

概略

日本において鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒。「なんにも用事がない」のに百閒が汽車で大阪に行っていた頃、普通の人にとって鉄道は、何かの用事を果たすために乗るものだった。それから四半世紀後、異なるアプローチでそのジャンルを背負った宮脇俊三。彼は、時刻表を小説のように愛読していたことを『時刻表2万キロ』で告白している。鉄道や紀行文学の歴史とともに二人の足跡をたどる。



 昭和初期、それは鉄道華やかなりし時代だった。「富士」「桜」「つばめ」といった、愛称つきの特急が登場。特に昭和五年(一九三〇)に登場した「燕」は、東京-大阪間を八時間二十分で走破し、それまでの所要時間より二時間以上も短縮する〝超特急〟だった。またみずトンネル、たんトンネルが開通したり、各地で電化や複線化が進んだりと、鉄道に勢いがあった時代だったのだ。
 しかし日中戦争、そして太平洋戦争が始まると、軍需輸送のために、人を運ぶ列車の削減やスピードダウンが続き、貨物列車が増えていく。国民は、不要不急の旅はしないように呼びかけられていた。
 そんな中で昭和十七年(一九四二)のかんもんトンネル開通は、鉄道好きの人々にとって、久しぶりの大きな出来事だった。本州と九州をトンネルで結ぶ計画は、明治時代から始まっていたが、着工したのは、昭和十一年(一九三六)。みやわきしゆんぞうは、「関門トンネルは、日中事変から太平洋戦争へと進むにつれて、その目的を平時型から戦時型へと変えつつ掘り進まれ、最後は突貫工事となって昭和十七年に開通したのである」と『時刻表昭和史』で書いている。それは「旅客よりは貨物、とくに石炭輸送のために掘られた」のだ、と。
 戦争のための突貫工事ではあったが、関門トンネルの開通によって、「東京から九州へ直通する列車が八本も出現」したことは、当時十五歳であった宮脇の胸を弾ませた。関門トンネルへの旅行をしたいと両親に訴えるも、関門トンネルは東京からあまりに遠かった。当時の鉄道の混雑は尋常でなく、食料事情も悪い。それまで、宮脇にできるだけ自由に旅行をさせていた両親も、首を縦には振らなかった。
 一方のうちひやつけんは、前号でも書いたように、関門トンネル開通に伴うダイヤ改正の直後、恩師が亡くなったとのしらせを受けて、岡山へ行っている。恩師に手を合わせた百閒は、しかし関門トンネル方面へと向かうことはなく、とんぼ返り。関門トンネルを百閒が初めて通るのはその九年後、ほう列車の旅においてとなる。
 昭和十五年(一九四〇)のたいせいよくさんかい結成以降、あらゆる活動が国策化されていったが、昭和十七年(一九四二)には文学の世界にも「日本文学報国会」ができた。日本文芸家協会の流れをくむ組織ということで、ほとんどの執筆家が参加する組織となったが、百閒は参加を拒否。
 その二十五年後、百閒が芸術院会員への推薦を受けた時、「イヤダカラ、イヤダ」と断ったことは有名だが、文学報国会への参加拒否もまた、自分の感覚に逆らうことをしない百閒ならではの話である。
 陸軍や海軍の学校で教えていたということは、百閒は「お国」のために働いたこともあるではないか、という話もあろう。エッセイ「ちやしき」には、陸軍士官学校の教授になったことについて、
「もともと陸軍とうものは大きらいだったのだが、そんな事は云っていられない事情であった。時世時節ならばむを得ない。止むを得なければすなわち仕方がないとあきらめて、神妙に勤務した」
 とある。
 百閒が陸軍士官学校の教授となったのは、二十七歳の時。妻子のみならず、岡山から上京してきた祖母や母も養う状況の中で、百閒は生活費を得なくてはならなかった。そんな
「止むを得ない」場合には柔軟に対応するのも、百閒なのである。
 陸軍士官学校の他、海軍機関学校、ほうせい大学等できようべんを執った百閒は、その後も様々な組織に所属している。五十代、すなわち戦争直前から戦中にかけては、日本郵船、とう交通公社、日本放送協会の嘱託に。ひねくれ者として見られがちな百閒ではあるが、組織における順応性は意外に高い。各組織において学生や後輩から慕われ、世話をされる百閒は、変わった人ではあるが、孤高の人ではないのだ。
 日本郵船では、社内文書のすいこう業務を担っていた「内田嘱託」。出社は午後から、水曜は休み、個室付き、という待遇を与えられている。『東京しようじん』を読むと、戦争中も、日本郵船の社員が、食べ物や酒を運ぶなど百閒の世話をしきりに焼いているのであって、百閒はどうも、他人に面倒を見させるのがいというか、他人が面倒を見ずにいられなくなるタイプの人だったのではないか。

 戦争時、五十代であった百閒に対し、宮脇はまだ十代。自分も戦争へ行く可能性の高い年齢だった。関門トンネルへの夢を紛らわせるように近場への旅を続けていたが、そうこうしているうち、昭和十八年(一九四三)には、「決戦ダイヤ」として急行列車の削減やスピードダウンが行われ、看板列車「燕」も、姿を消す。
 この時、宮脇は、旧制せいけい高校に通う学生。しばしば勤労奉仕に駆り出されていた。学徒動員で出陣していく少し年上の大学生達の姿を見れば、自分に残された時間はそう多くないと感じずにはいられなくなってくる。
 昭和十九年(一九四四)の三月、宮脇は埼玉県の小学校に泊まり込んでの勤労奉仕を行っている。その時、彼が宿舎で読んでいたのは、時刻表。勤労奉仕が終われば一週間の休みが与えられるはずであり、
「これを逸しては関門トンネルを通る機会は無いだろう。絶対に行くぞと心に決めていた」
 のだ。
 身近にも、出征する人、戦死する人がいた。空襲の恐怖も感じており、「いずれにせよ、戦争の結末を見ずに死ぬような気がしていた」。「四月からは旅行が全面的に中止される」と報じられてもいて、
「どうしても三月中に関門トンネルへ行かねばならなかった」
 と、宮脇は心に決める。
 それは宮脇達にとって、「最後の春休み」だったのだ。自分の自由に使うことができる最後の時間を、同級生達はそれぞれに過ごす。山へ行く者。野球をする者。映画をる者。女学生と遊ぶ者。……そんな中で宮脇俊三は、三月二十四日十三時三十分東京発の、第1種急行1列車はか行に乗車する。
 二年前の翼賛選挙で既に議員の職を失っていた父・ちようきちは、俊三をたいそうわいがっており、鉄道省に勤めていた娘婿に頼んで、乗車券と指定券を入手していた。指定席の乗客は、男ばかり。その三分の一は軍人という中、一人で座る若い宮脇を「この学生、どんな重要な公務があって乗っておるのか、と向いの客がいぶかっているように思われ」、いたたまれない思いの中で、列車は出発した。
 長吉について宮脇は、
「父は軍人出身であるにもかかわらず、自由主義者たちと気脈を通じ、反軍閥の立場にあった」(「オヤジ」)
 と書いている。だからこそ「黙れ事件」が発生したわけだが、長吉は選挙に落ちた後も、軍人におもねることはしない。
 昭和十七年に長吉と俊三とで北海道に行った折も、長吉は反軍部の姿勢を崩さない。せいかん連絡船がはこだてに到着した後、当時六十二歳だった長吉は速く走ることができなかったので、やっと乗り込んだ接続の列車には、既に空席が無かった。夜は寝台となる部分は、昼のうちは座席として使用していいことになっていたが、その中の「特別室」には、二人の将校がゆったりと座っている。それは軍人や政府高官のための部屋であったが、長吉は、
「すこし詰めてください」
 と、入っていった。
「ここは特別室ですぞ」
 と将校に言われても、
「夜になるまでは誰のものでもない」
 と返し、将校と言い合いに。最後には、
「ちかごろの軍人は増長しとる」
 と怒鳴った、というのだ。
 狭い特別室に、二人の将校と、父と自分。宮脇はいたたまれない気持ちでいっぱいになったが、しかしそんな長吉の姿勢は、息子に何らかの影響を与えたのではなかったか。その辺りは、文学報国会に入ることを拒否し、また芸術院会員への推薦をも断った百閒とも通じる部分がある気がしてならない。
 鉄道は、敷かれたレールの上を走る乗り物である。決められたダイヤの通りに走らなくてはならず、車のように好きなところでハンドルを切ったり、好きな時間に走らせることはできない。
 そのような乗り物である鉄道を好む人は、「決められたことに従うのが好きな人」と思われるかもしれないが、コアな鉄道好き達と接していると、かれは決してそのようなパーソナリティーではないことが理解できる。
 宮脇は、今はなき雑誌「旅」の特集「宮脇俊三の世界」(二〇〇〇年九月号)において、時刻表の魅力について、
「〝線路に縛られていると言う窮屈さ〟と〝それによる輸送効率の良さ〟」
 と答えている。百閒もまた、晩酌しながらたんどくするような時刻表好き。二人とも、線路と時刻表とに縛られることを、楽しんでいるのだ。
 しかし彼等は、いやいや縛られているのではなく、緊縛状態の中でもがくことに、快楽を見出している。時刻表を駆使して旅のプランを練り、車窓風景の中から、自分独自の視点で何かを発見する。彼らは、もがきたいからこそ、積極的に縛られているのだ。
 SとMの関係においても、縛られる側つまりMの方が、実はSの側を意のままに操っているという話があるが、鉄道においてもそれは同様。鉄道好きの人々は、せっせともがいて縛りを我が身に食い込ませ、瞳を輝かせている。彼等は緊縛の中で個性を発揮することによって、鉄道を心の中で所有しているのではないか。
 緊縛は、彼等の快楽の源。前述の通り、百閒は様々な組織に所属した経験を持ち、また宮脇も五十一歳まで中央公論社に勤務していたが、組織に縛られる傍らで好きなことをするという人生も、鉄道好きらしいスタイルだったのではないか。
 鉄道好きとは、すなわち縛られることに対して敏感な人々なのだった。だからこそ、好みではない縛り方を強要してくる相手に対しては、牙をく気概を持っている。どんな縛りにも唯々諾々と従うのではなく、縛る側への厳しい視線を持っているからこそ、彼等は権力に対しても、反発を見せるのだ。
 戦争中の、ダイヤ削減やスピードダウンは、国の権力によって鉄道自体が縛られるという事態だった。国策に縛られてしまった鉄道は、もはや鉄道好き達を気持ちよくさせることができなくなってしまう。
 しかしそれでも宮脇は、関門トンネルへと向かった。もうすぐ自分の人生は、終わるかもしれない。だとしたら最後に、好きなようにしておきたい、と。

>>#5-2へつづく ※8/29(木)公開
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「カドブンノベル」2019年9月号収録「鉄道無常」第 5 回より
○第 1 回~第 4 回~は「本の旅人」でお楽しみいただけます。


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最新号 2019年10月号

9月9日 配信

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