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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.23

【連載コラム】鉄道ファン必読。内田百閒と宮脇俊三の著作から、酒井順子が鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#17-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※本記事は連載コラムです。



前回までのあらすじ

鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでジャンルを背負う。二人は特急から口ーカル線までを偏愛し、それぞれのスタンスで、不要不急の旅を謳歌していた。女子鉄・酒井順子が二人を比較し、時代とともに発展する鉄道と鉄道紀行を読み解く。旅は人生の縮図なのだ!

 紀行文を読むのは楽しいが、紀行文を書くことが楽しいのかというと、必ずしもそうではない。紀行文を書く時は、楽しかった遠足についての作文を書くのがつらかった子供の頃と同じような感覚を、今も覚えるのだ。
 ページをめくる手が止まらなくなるうちひやつけんほう列車」シリーズは、きっと執筆時もスピード感をもって仕上げたのではないかと思えてくる。しかし、旅の随行役であるヒマラヤ山系ことひらやまさぶろうの著書『阿房列車物語 百鬼園回想』によると、「阿房列車」の筆の進みは、かなり遅かったようだ。
 鉄道省(当時)の機関誌の編集をしていた平山が、敬愛していた百閒に原稿を依頼したのが、二人のそもそもの出会い。
「国有鉄道にヒマラヤ山系と呼ぶ職員がいて年来のじゆつこんである」
 ということで、「年は若いし邪魔にもならぬから」と、百閒は平山を旅の供とした。
 平山は「特別阿房列車」当時三十三歳。当然ながら国鉄には通じているし、酒の付き合いもできる。百閒の気難しさも、うまくスルーできるタイプの人であったようだ。
 平山の存在は、「阿房列車」に独特のしみをもたらしている。平山は、「ドブねずみ」だの「死んだ猫」だのと百閒から散々な書かれようだが、意に介する風もなく随行している。自分を主張することなく、時に十日近くも続く旅を淡々と進めていく平山は、百閒にとって最高の女房役(という言い方は今となっては差別的なのかもしれないが、この場合最も適した表現かと思われる)。一つのものに固執する百閒にとって、旅の相棒は、平山の他に考えられなかったのだろう。
 百閒から「くん」と呼ばれるヒマラヤ山系は、百閒が何を言っても、
「はあ」
 と答えることでおみだが、この「貴君」と「はあ」が、阿房列車の旅には独特のリズムをもたらしている。ヒマラヤ山系なしに「阿房列車」はスタートしないし、ゴールもしないのだ。
 平山は、百閒の原稿の校正など秘書的な役割も果たしていた。その手元には最初の「特別阿房列車」から「雷九州阿房列車」までの生原稿がのこされており、そこにはかくへんについて何日に何枚書いたかが、百閒によって記録されていた。
「特別阿房列車」は、四百字詰原稿用紙で五十六枚であり、これを書くのに二十日かかっている。二本目の「区間阿房列車」は、百二枚の原稿を、約五十日かけて執筆。日によって異なるが、一日に二枚から四枚程度のスピードであり、同時に進行させていた原稿が無いことを考えると、なかなかの遅筆と言えよう。
 二泊三日の旅のことが百枚以上にわたって書かれている「区間阿房列車」だが、このうちの約二十枚は、実は旅に出る前にできていた、と平山は明かしている。旅に出ずして旅について書くことは可能なのか、と「区間阿房列車」を読み返すと、この阿房列車をどこへ走らせるかについての思案や、かつての旅の話などが続き、実際の旅はいっこうにスタートしない。百枚の原稿のうちの冒頭からの約四分の一ほどが旅の〝前日談〟なので、確かに事前に書いておくことが可能なのだ。
 旅立つ前から紀行を書くという尋常ではない手法が示すように、「阿房列車」は尋常の紀行ではない。鉄道紀行のこうとされている「阿房列車」だが、それは鉄道紀行としてはベーシックなスタイルではなく、今に至るまで誰にもすることができない、鉄道紀行界、というよりは紀行界の独立峰としてそびえる作品となっている。
 ゼロから創造するのではなく、すでにしてきた旅の経験がある分、紀行はラクに書くことができるのではないかと思う人もいよう。が、紀行は、経験してきたことをそのまま書くものではない。時には、自身が経験した事実が、筆を縛ることもある。
 行っていない場所に「行った」と書くと、それは紀行というより小説になってくるが、立ち寄った場所や食べたものを全て書くわけではないのが、紀行。思ったことを全て書くものでもないのも、言わずもがなである。
 自分がしてきた旅の、どの部分を書くか。その選択が紀行の出来栄えを左右するが、反対に言うとそれは、「何を書かないか」ということでもある。
「阿房列車」において百閒は、普通の人であればおおいに熱を入れて書くであろう部分に全く触れなかったり、さらっと通り過ぎることがしばしばある。「汽車を目の中に入れて走らせても痛くない程汽車が好き」なのに、鉄道への愛を綿々と書くことはしない。車両やダイヤに対する知識も深かったようだが、その手の知識を開陳することもないのだ。
 さらには「汽車は好きだけれども旅行という観念はキライ」なので、名所旧跡にたまに行っても、反応は薄い。それよりも、ヒマラヤ山系との会話、それも旅とは関係のない雑談が、分厚く書かれていたりするのだ。
 阿房列車の旅では、戦争の爪痕に接することもあった。しかし戦跡の扱いも、名所旧跡の扱いと特に変わるものではない。
「鹿児島阿房列車」では、九州に入る前にくれ線に乗り、その後広島で一泊している。翌日は、ヒマラヤ山系の知人である国鉄職員の「あまくん」(阿房列車には「甘木くん」が何度も出てくるが、同一人物ではない。「なにがし」を分解しての「甘木」)の案内で広島を回り、あいおいばしで車からおりて「産業物産館の骸骨」を見ている。
 戦争時の名称は「広島県産業奨励館」であったこの建物は、今で言う原爆ドーム(言葉を正しく使用することにこだわる百閒は、原子爆弾を「原爆」と言うことは嫌ったであろうが)。百閒はそれについて、
てつぺんの円塔の鉄骨が空にささり、たいふうの余波の千切れ雲がその向うを流れている。物産館のうしろの方で、馬鹿に声の長いにわとりの鳴くのが聞こえる。又自動車へ乗ってそこいらをまわり、それから駅へ出た」
 とだけ書いている。
「鹿児島阿房列車」の旅は、昭和二十六年(一九五一)に行われている。それは原爆投下の六年後であり、戦争の記憶も傷跡も、まだ生々しかったはず。不戦への誓いやたんや同情ではなく、そこに響く雞の声についてのみ記されることによって、読者の脳裏には原爆ドームの姿が、かえってくっきりと結ばれる。
 その後、博多で一泊した後に鹿児島に着いた百閒は、ヒマラヤ山系の知人である国鉄のだれそれ君となにがし君の案内で、名所を巡っている。
 西さいごうたかもりが、さつの士族の子弟のために開いた「私学校」の跡地を通ると、
「まわりを取り巻いた石垣の石の肌に、点点と小さな穴が散らばって、穴の緑をあおごけが覆っている」
 という様が見られた。それは、西南戦争の時に官軍が撃った銃弾の跡であり、
「遠い気持がするけれど、歳月がその痕を苔で塗り潰すのをほっておけばいい。つい一昨日広島で見た相生橋畔のはいきよやまの見晴らしには、犬が吠えても雞が鳴いても、人に恨みがあるものか無いものか、とっているのではないかと思った」
 と続く。
 百閒は広島で原爆ドームを見る前に、市街地を見下ろすことができる比治山にも上り、どこかで鳴く犬の声を聞いていた。原爆投下から六年後の、
「向こうに山があって、川が流れていて、海が見える」
 との景色に犬の声が響くという切り取り方は、俳句のような感慨をもたらし、この地にこれから時が降り積んで行くことを感じさせる。そういえば百閒は、高等学校時代から俳句を詠む人であった。
 二年後の昭和二十八年(一九五三)には、「長崎阿房列車」の旅が行われている。長崎市内に二泊している百閒だが、原爆のことについては、原稿で全く触れていない。阿房列車シリーズ終了後に書かれた随筆「九州のゆかり」において「長崎阿房列車」の旅を回想する中で、
「今度の戦争で受けた惨禍の跡など気の毒で見る気になれない」
 と書いているのみ。
「阿房列車」の旅がスタートした時は、すでに三畳間が三つ並んだ「三畳御殿」に引っ越していたが、百閒も空襲で家を焼かれ、三年間の小屋暮らしを余儀なくされた身である。自身の故郷である岡山も、空襲で焼かれた。変わってしまった故郷を見るのが嫌で岡山に行かなかった百閒にとって、日本のあちこちに残っていたであろう戦争の影を「書かない」ことが鎮魂の手法だったのではないかと、私は思う。

#17-2へつづく
◎第 17 回の全文は「カドブンノベル」2020年9月号でお楽しみいただけます!


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