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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.7

鉄道女子の酒井順子が敬愛する内田百閒と宮脇俊三を比較しながら鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#8-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。



前回までのあらすじ

女子鉄・酒井順子が二人の「鉄人」の足跡をたどる。鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負う――。昭和に入り鉄道が急速に発展するも、戦争により自由な旅は制限される。そして昭和二十年八月十五日、二人の鉄人はそれぞれの場所で終戦を迎えた。

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 多くの日本人にとってそうだったように、昭和二十年(一九四五)の敗戦は、うちひやつけんみやわきしゆんぞうの人生にも、大きな影響を及ぼした。
 敗戦時、宮脇は十八歳。その年の四月には、東京帝国大学の理学部地質学科に入学している。戦時下、大学や高等学校の修業年限は短縮されていたため、宮脇は二年で高等学校を卒業し、大学へ進学したのだ。地質学科は、地理好き故の選択である。
 山形県のいまいずみ駅前で終戦の詔のラジオ放送を聴いた後、しばらくは疎開先の新潟県むらかみと東京の間を行き来する生活を送っていた宮脇。一家が村上から引き上げたのは、その年の末のことだった。
 しかし東京の家は、既に無い。空襲による被害は免れたものの、父・ちようきちきたざわの家を売り、その金で和歌山県の炭鉱を買ったのである。
 宮脇家はあたに転居するが、熱海から東大への通学は難しく、宮脇は二年間、留年することになる。しかしこの間に、宮脇の中では変化が生じたようだ。たまに東京に出ると東大へ行ったのだが、熱心に聴いたのは地質学科の講義ではなく、文学部の講義。つじてつろうかねたけぞうたつゆたからの講義を傍聴し、それまでは理科少年であったのが、文学の世界に心かれるようになっていった。
 熱海在住の学生達との交流も生まれ、楽しい日々を送っていた宮脇は、旅行も忘れなかった。父が買った和歌山の炭鉱を訪ねたり、また熱海からかたへと引っ越した後は、義兄の赴任先であるまつを基点に、山陰旅行にも出かけている。
 山陰への旅は、昭和二十二年(一九四七)は八月のことだった。宮脇は一人、復活したばかりの急行博多行き、列車番号「1」に乗車する。朝の7時40分に東京駅をった列車は、23時16分に岡山着。改札口を出てみると、「岡山は空襲を受けて焦土になっていた」(『時刻表昭和史』)。それは、百閒が「些とも顧みない郷里ではあるが敵に焼き払はれたとふ事になれば人並以上の感慨もある」と、そして「記憶の中の岡山はもB29も焼く事は出来ないのだから、自分の岡山は焼かれた後も前も同じ事であるかも知れない」と『東京しようじん』に書いた、岡山である。宮脇が岡山駅に降り立つと、駅前の一部では、闇市でにぎわっていた。
 岡山からよなへ。そして米子から松江へ。松江は、空襲で焼けていなかった。松江でごそうを食べ、名所を見物しつつ、「別の日本」のようだと、宮脇は思うのだった。
 帰途のルートは、行きとは違って山陰本線経由である。村上から山形のおおいしに行った時もそうだったが、一度の旅行でなるべく様々な路線に乗ろうとするのは、鉄道好きの常。
 山陰本線で特に宮脇にとって印象的だったのは、あまる鉄橋である。鉄道ファンにはつとに名高いこの鉄橋は、兵庫県の日本海側、町に位置する。山が海まで迫るこの辺りは、陸路の難所。山陰本線の中でも、最後まで開通していない区間であったのが、山にトンネルを穿うがち、トレッスル式の鉄橋を架けることによって、明治四十五年(一九一二)に開通したのだ。
 宮脇にとって初めての余部鉄橋通過となったこの時、まだあまる駅はできていない。鳥取方面からたに駅を出て二キロ近く続くとうかんトンネルを通過し、さらにもう一つの短いトンネルを抜けて、余部鉄橋に入ったと思われる。
 余部鉄橋は、高さ約四一メートル、全長約三一〇メートル。平成二十二年(二〇一〇)に使用が終了し、現在はコンクリート橋に架け替えられているが、鉄橋があった当時は、赤い橋脚の美しさと高さが印象的だった。列車がいきなり天空に放り出されるような感覚は遊園地のアトラクションもかくやというもので、眼下には余部の集落のいからの波、さらに目をやれば日本海の波。
 自筆年表にも、この旅について「余部鉄橋が印象に残る」と記すほどの感慨を覚えた、若き日の宮脇。しかし宮脇は、その感動を決して大げさに記すことはない。『時刻表昭和史』においても、この時のことについて、
「はじめて乗る山陰本線には見所がたくさんあり、私は目を見張っていた。とくに余部の鉄橋は忘れられない」
 と、書くのみであった。旅の感動をことさらに描写しようとしないのは、宮脇の文章の特色の一つである。
 名所を、どう書くか。これは、旅について書く人の個性が表れる部分かと思う。余部鉄橋のような、山陰本線の、というより日本の鉄道の中でも屈指の名所について書くならば、その感動を目一杯表現するのが凡百の人間であろうが、宮脇はそのような場所について書く時ほど、冷静な筆致となる。
 では百閒は、余部鉄橋をどう書いたのか。百閒は『第三ほう列車』の「かんでんあんきつね 松江阿房列車」において余部鉄橋を通過しているが、それが初めての通過ではなかった。はっきりしないものの、「多分三十年ぐらい前に通ったことがある」ということなのだ。
 この旅がなされたのが昭和三十年であるから、百閒が初めて余部鉄橋を通ったのは、大正末期か昭和初期ということになる。その時の百閒は、
「どこかのトンネルを出た途端に、偶然車窓から見た余部の鉄橋の恐ろしさが後後まで悪夢の様に忘れられない」
 という状態だった。前にも記したが、百閒は無類の怖がりである。
「なぜこんな恐ろしい所を汽車が走るのかと思った」
 という文章から、余部鉄橋の存在感が伝わってこよう。
 余部鉄橋初体験の書き方は、宮脇と百閒とでこのように異なるのだった。しかし二人とも、自分が将来この鉄橋について書くようになろうとは、初体験の時点ではまだ思っていない。
 山陰の旅を終えた翌年、宮脇は東大の地質学科から文学部西洋史学科へと転部。昭和二十六年(一九五一)に、二十四歳で大学を卒業する。時刻表や列車のダイヤをつくりたいという気持ちは持っていたものの、「立身出世主義」の父・長吉からは「そういう現場の仕事に行っちゃいかん」と、反対された。
 就職難の時期であったが、宮脇は日本交通公社と中央公論社から内定を得る。が、交通公社は時刻表編集部には配属されないらしいということがわかり、中央公論社へ入社するのだった。
 入社早々、最初の結婚、結核による休職や父の死を体験し、二十九歳の時に中央公論社へ復職。以降五十一歳で退社するまで、宮脇は同社で働くことになる。

#8-2へつづく
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