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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.20

【連載コラム】鉄道ファン必読。内田百閒と宮脇俊三の著作から、酒井順子が鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#15-2

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

※本記事は連載コラムです。

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 鉄道の世界が華やかだった阿房列車の時代に対して、宮脇が会社を辞して自由に鉄道に乗ることができるようになったのは、モータリゼーションが進んでいった鉄道斜陽の時代である。しかし鉄道の人気は、その時代にむしろ高まっていた。
『旅は自由席』のまえがきでは、「鉄道人気の謎」として、その理由が考察されている。せいかんトンネル開通、大橋線の開業、国鉄の分割民営化によるサービスの向上等の理由が挙げられているが、しかしそれだけではない、とそこにはある。
「われわれ鉄道ファンとしては、北海道や四国へ線路がつながるのは人一倍嬉しいけれど、それがなかったなら鉄道への関心が薄らぐ、といった浅い次元ではないのである」
 ということで、ローカル線が廃止となったならば、「やむをえない。しからば廃線跡を歩いてみるか」となるのだ、と。
 ここで注目すべきは、宮脇が葬式鉄的行為には興味を示していないところである。廃線に反対するとか、最後に乗りに行っていたむといったことではなく、「しかたない」と捉えている。その上で、廃線跡を歩くという、「墓参鉄」的な新たな楽しみを発見しているのだ。
 沸網線の廃止前に乗りに行った宮脇は、その原稿の最後に、
「ローカル線は地元の人のもの。鉄道マニアのものではないのだ」
 と書いている。遠くに住んでいる者がローカル線の廃止に反対したり、最後だからといってわざわざ乗りに行くという行為に、宮脇は美しさを感じていなかったのではないかと、私は思う。消えてゆく鉄道の生々しい「死」の現場に駆け寄って嘆くのではなく、死という事実が乾ききってから廃線跡をたどって在りし日の面影をしのぶところに、無常を受け入れる度量を感じるのだ。
 葬式鉄には食指を動かさない宮脇であるが、誕生鉄的な行為については、生き生きと描写している。なにしろ昭和八年(一九三三)の八月一日に帝都電鉄(現在のけいおうかしら線)が開通した時、しぶに住む小学校一年だった宮脇は「さっそく乗りに行った」(『終着駅は始発駅』)のであり、誕生鉄としては筋金入り。
 大人になっても、その楽しさを忘れることはない。たとえば『旅は自由席』に収められる「さん新線の開通日」は、昭和六十一年(一九八六)に予讃線に新しく通ったバイパス線に乗りに行った時の話。
 予讃線は、香川県の高松と、愛媛のじまを結ぶ路線である。当時は、高松から四国の北側の海沿いを西に進み、愛媛の松山を通ってなだ沿いを進んで、宇和島まで行っていた。しかし伊予灘沿いの区間には崖崩れの危険があるということで、内陸部を通ってショートカットすることができる新線を作ったのだ。結果、特急や急行は新線を走り、鈍行のみが旧線を走ることに。
 宮脇は、
「新線に乗るのは楽しい。私のように国鉄の全線を乗り終えてしまった者にとっては、なおさらである」
 と、誕生鉄行為の喜びを隠さない。四国へと渡る手段としては、岡山から宇野線に乗り、宇野から宇高連絡船に乗るルートを選んだ。四国に上陸した後は、さかいで駅からタクシーでばんという地へ向かう。坂出沖の埋立地の工業地帯である番の州は瀬戸大橋のたもとであり、「本四架橋、つまりさん瀬戸大橋の工事の進捗ぶりを見るため」であった。
 当時、瀬戸大橋は完成まであと二年、という時。「その二年が待ち遠しいので、こうして眺めに来た」のだ。瀬戸大橋がかかれば、本州と四国が初めて鉄道で結ばれる。宮脇はこの前年にも番の州を訪れており、「あのときはピア(主塔)とアンカレッジ(橋台)だけだった」が、この時は「巨大なピアの間にケーブルが張られて、橋らしくなっている」と、その進捗ぶりを確認。こうなると、誕生鉄よりさらに前段階の、妊婦鉄と言ってもいいのではないか。
 妊娠した娘の大きなおなかを見て「この子が生まれれば俺もおじいちゃんか」などと人が思うように、宮脇は橋らしくなってきた現場を見て、「この橋を渡る日は私も還暦を過ぎるのだな」などと思いつつ、からディーゼル特急「しおかぜ三号」に乗車した。
 この特急がこの日から予讃新線を走るのだが、松山を過ぎても、車内の人々が楽しみにする様子はない。宮脇は「ワクワクしているのは私だけ」という孤独をみしめている。
 むかばら駅で線路は分岐し、鈍行しか走らなくなった旧線は右へ、特急は左へ。鈍行はわずかな本数しか走らないのであり、「なんだか旧線が可哀かわいそうだ」との同情も、募ってくる。
 ちなみに宮脇から同情された旧線は現在、「愛ある伊予灘線」との愛称がつけられ、観光列車も走っている(現在は新型ウィルスの影響で運休中)。この愛称の意味は非常に難解であるが、JR四国によると「地元の方により親しみを持っていただき、地域一体となってお客様をお迎えする気持ちを込めて」とのことらしい。
 新線に入ると、列車に手を振る子供がいたりして、開通らしさを味わう宮脇。しかし他の乗客達は特に興奮しているわけでもないのであり、宮脇も「内心はとにかく、普通の客のように静かにしている」のだった。
『旅の終りは個室寝台車』に収められる「雪を見るならいいやまただ線」には、タイトル通り冬の飯山線と只見線で雪景色を眺める旅が記されているが、只見線のおおしらかわ駅で宮脇が思い起こしたのは、昭和四十六年(一九七一)の八月二十九日のことだった。
 現在の只見線は新潟県のいでと福島県のあいわかまつを結んでいるが、只見線は昭和十七年(一九四二)の開通以来、小出と大白川を結んでおり、只見線という名でありつつ只見までは開通していなかった。大白川の先にあるろくじゆうごえという峠は、日本有数の豪雪地帯であり、工事の難所。線路の行く手を阻んでいたのである。
 只見線の開通から約三十年後、昭和四十六年に六十里越トンネルは完成した。只見線は只見まで延伸し、会津若松と只見間を走っていた会津線とつながり、会津若松~小出間が只見線となったのである。
 宮脇は、只見線が初めて六十里越トンネルを通る現場に、立ち会っている。「雪を見るなら飯山・只見線」にさりげなく、
「当日の一番列車に私は乗ったことがある」
 と、書いているのだ。
 一番列車は、地元の人達で超満員だったのだそう。新潟と福島の県境を貫く長いトンネルを抜け、くらのダム湖が見えた時は、
「みんな手をとり合い、肩をたたき合って涙を流した。泣いていないのは私だけで、バツがわるかった」
 というのだ。出産を寿ことほぐ瞬間に一人だけ、家族以外の人が交じっていたような感覚だったのか。
 新生只見線の一番列車に乗車した時、宮脇は四十四歳。すでに中央公論社の取締役になっていた。国鉄乗車率を計算して「五十パーセントとは意外と少ない」と思ってから、四年。鉄道旅行にも月に一回ほど出かけている中での、只見線〝誕生鉄〟行為だった。
 地元の人達が歓喜の涙を流す中で、一人困ったようにたたずむ宮脇の姿が目に浮かぶようだが、宮脇は旅先で常に、このような含羞を抱いていた気がしてならない。旅人は本来よそ者であることを、宮脇が忘れたことはなかったのではないか。だからこそ、常日頃から付き合いがあったわけでもないのに命の終わりとなった時にやってきて見物するかのような葬式鉄行為については、書こうとしなかったのではないかと、私は思う。
 考えてみれば、宮脇が十七歳の時にかんもんトンネルを通りたくて九州へ行ったのも、誕生鉄行為だった。関門トンネルはその一年半ほど前に完成しており、平時であれば、宮脇はそのトンネルを通る一番列車に乗っていたところだろう。しかし戦争で「不急不用」の旅は禁止され、家族にも止められてなかなか旅立つことができなかったのだ。
 いよいよ戦況が悪化し、自分も兵隊にとられたり空襲にやられたりする可能性が見えてきて、旅立つ決心をした宮脇。それは自らの死の可能性が迫ってきたからこその、誕生鉄行為だった。

「区間阿房列車」には、百閒が殿てん線に初めて乗った時の感慨が記される。しかしその時の百閒の気持ちは、初めて乗る路線の新鮮さを堪能するというよりも、廃線跡の探訪に近かった。御殿場線区間が東海道本線だった頃によく乗っていた百閒としては、たんトンネルの開通によってローカル線となり、あまつさえ戦争中に単線になってしまった御殿場線は、列車が走っているとはいえ、廃線跡に近い存在だったのではないか。
 しかし百閒もまた、その寂しさを大仰に嘆くことはしない。鉄道は、自分の思い通りにならないからこそ、いとおしい。自分の思いと鉄道の現実がかいしたとしても、その寂しさ、悲しさを大仰にアピールしないのが二人の文章であり、クラシックな感覚であるのかもしれないけれど、一種の男らしさを、私はそこから感じるのだった。

#16-1へつづく
◎第 15 回の全文は「カドブンノベル」2020年7月号でお楽しみいただけます!


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