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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.11

鉄道ファン必読。内田百閒と宮脇俊三の著作から、酒井順子が鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#10-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」


前回までのあらすじ

女子鉄・酒井順子が二人の「鉄人」の足跡をたどる。鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負う――。戦後、線路や鉄道の復旧にともない二人は自由な旅に出る。百閒は「阿房列車」シリーズを開始し、ただ鉄道に乗る楽しみを満喫する。

詳しくは 「この連載の一覧
または 電子書籍「カドブンノベル」へ

「特別ほう列車」で大阪へ行ったうちひやつけんは、次に近場へと出向く「区間阿房列車」の旅を計画する。その行き先は、静岡。おきに宿泊する、二泊三日の旅となった。
 につこうしまはこといった有名な観光地には意地でも行きたくないという観光嫌いの性癖については、前回も記したところ。ではなぜ静岡だったのかといえば、この旅の主眼が「殿てん線に乗る」ことにあったから、ということになる。
 御殿場線とは、神奈川県わら市の駅と、静岡県ぬま市の沼津駅を結ぶ線。御殿場を経由することから御殿場線との名がついているが、この路線は最初から御殿場線だったわけではなく、そもそもは東海道本線の一部だった。
 東京~大阪という日本の二大都市を結ぶ路線が開通したのは、明治二十二年(一八八九)という、日本の鉄道のれいめい期のこと。その路線に正式に東海道本線との名がついたのは、明治四十二年(一九〇九)だった。
 東海道本線は当初、今とは異なるルートで箱根の山を越えていた。現在の東海道本線は、熱海からたんトンネルを通り、半島の根元を横切ってしま方面へと抜けているが、明治の頃はまだトンネルの掘削技術が未熟であったため、箱根外輪山の北側を御殿場経由で回って沼津へと出るルートが採用されたのだ。
 しかし海抜四五七メートルの御殿場駅を通るこのルートは、勾配がきつい上に、遠回りとなる。重い車体の鉄道にとって、勾配は大敵。雨にも弱く、問題山積であった御殿場近辺は東海道本線のアキレス腱だったのであり、丹那盆地の下を走るトンネルの掘削が検討されていた。
 丹那トンネルの工事に着工したのは、大正七年(一九一八)のこと。当初は七年で完成する計画であったが、大量の湧水や断層等、数々の難敵にぶつかり、工事は遅々として進まない。事故による犠牲者は、六十七人にも及んだ。ようやく完成したのは昭和九年(一九三四)であり、当初予定の倍以上の時間がかかったことになる。
 丹那トンネルの開通によって、東海道本線の同区間における所要時間は、約一時間も短縮された。その結果、御殿場経由のルートは、御殿場線というローカル線になったのだ。
 百閒が大学入学のために二等列車に乗って初めて上京したのは、明治四十三年(一九一〇)のこと。この時はまだ丹那トンネルの着工前だったのであり、御殿場経由のルートでしんばし駅に到着している。
 新橋駅に関しても、昔はからすもり駅であった現・新橋駅のことを「偽物の新橋駅」とし、あくまで旧新橋駅を「本物」と思いたかった、百閒。また戦争で焼けてしまった岡山よりも、「記憶に残る古里の方が大事」であるとして、岡山に帰ろうとしなかった、百閒。このように百閒は、若い頃の思い出と結びつく事物に関しては、変化をよしとしない。東海道本線に関しても、若い頃は何度も岡山と東京を行き来していただけに、御殿場経由のルートに愛着があった。「区間阿房列車」の行き先として御殿場線を選んだのも、その思い入れがあった故だろう。

 丹那トンネル開通当時、八歳だったみやわきしゆんぞうは、それが大きなニュースになっていたことを記憶している。
むろ台風、東北地方の冷害など暗いニュースの多かった昭和九年にあって、丹那トンネルの開通は明るい話題であった。街のショー・ウィンドウにはトンネルから姿を現わした試運転列車の写真が飾られ、小学校の先生は丹那トンネルのことを生徒に話した」
 と『時刻表昭和史』に記している。
 丹那トンネルの開通は、宮脇が時刻表の世界へと本格デビューするきっかけともなった。丹那トンネル開通によってダイヤは大改正となり、その改正ダイヤが載った時刻表を、宮脇少年は母にねだって、買ってもらったのだ。それは「父の愛用していたポケット判ではなく、絵本のように大きな時刻表」であり、「こんな立派な『汽車の時間表』があったのかと私は思った」(同)。
 少年は、喜び勇んで時刻表をめくる。そんな中で彼の目をいたのは、東京と大阪を結ぶ超特急「つばめ」。東京駅を朝の9時00分につのはトンネル開通前と同様であったが、少年は、国府津駅のところに発着の時刻が記されておらず、通過を示す「→」が表示されていることに気づく。
 丹那トンネルの開通以前、東海道本線を走る列車は全て、国府津に停車した。電化区間が国府津までであったため、そこで電気機関車から蒸気機関車への付け替えを行ったのだ。
「燕」の場合は、機関車付け替えの手間を省くべく、東京から蒸気機関車で走っていた。しかし「燕」も、勾配を登るための後押しをする機関車と連結しなくてはならず、停車を余儀なくされたのである。
 このように国府津は、東海道本線における重要な駅であったのだが、しかし丹那トンネルが開通すると、事情が変わる。電化区間が沼津まで延びたため、「燕」はもちろん、他の特急も急行、準急も国府津に停車しなくなったのだ。宮脇少年は、
「私はなんだか国府津がわいそうになった」
 との感慨を抱く。
 丹那トンネル開通以降、「燕」は、電気機関車から蒸気機関車へと付け替えるため、沼津駅に停車するようになる。
「沼津は偉くなったなあ」
 と、少年は思うのだった。
 丹那トンネル開通の年の暮れ、宮脇少年は母に連れられて、熱海へ行った。兄と共にせんえつトンネルの出口に陣取って通過列車を眺め、「やっぱり乗らなくちゃ駄目だ」と思ったことは、以前も記した通り。
 熱海滞在中、宮脇少年と兄は、母と共に熱海から準急に乗って、丹那トンネルの初通過をも果たしている。丹那トンネル開通が十二月一日であり、それから一ヶ月もたないうちに東海道本線の新ルートに初乗車して、話題のトンネルを通過しているのである。『時刻表昭和史』には、単に冬休みに「熱海へ連れていってもらうことになった」と書いてあるが、実際は「東海道本線に乗りたい。話題の丹那トンネルを通りたい」と、宮脇少年がねだった末に決定された行き先であったのではないかという気もする。
 初めて通る丹那トンネルの印象を、宮脇少年は記憶している。「御影石を城門のように入口に積み上げた」という「こうぐちのつくりからして、ただのトンネルではなかった」と。
 しかし列車がトンネルに入ると、「憧れの丹那トンネルではあったが、入ってみると早く通り抜けてしまいたい気持ち」になってくる。トンネルの長さは、七八〇四メートル。八歳の少年にとっては、長い長い闇であったことだろう。
 沼津駅で下車した後にも、宮脇少年には見なくてはならないものがあった。9時00分に東京を発って10時56分に沼津に到着した「燕」の、電気機関車から蒸気機関車への付け替え作業である。「燕」到着前の駅の緊張感を、そしてスムーズに付け替えが終わって「燕」が走り去った後の「重責を無事果たした沼津駅にあん感と宴のあとのようなさびしさとが漂った」ことを、少年は感じ取っていた。
 宮脇少年が東海道本線に乗るのは、この時が初めてだった。御殿場経由時代の東海道本線には乗ったことがないわけだが、しかしルート変更直後の姿を知っているということは、彼にとって大きな意味を持っていた。
 長じて後の宮脇は、『御殿場線ものがたり』という絵本を著している。絵は、鉄道イラスト界の巨匠・くろいわやすよし。黒岩は、運輸省鉄道総局において、戦後の特急のヘッドマークの多くをデザインした人物である。宮脇・黒岩という鉄道黄金コンビは、『御殿場線ものがたり』の他にも『シベリア鉄道ものがたり』『せいかん連絡船ものがたり』『スイス鉄道ものがたり』と四冊の絵本を刊行している。
 子供向けの絵本のテーマとして御殿場線を取り上げたのは、宮脇が御殿場線の変遷を、子供達に伝えておきたいと思ったからであろう。国府津駅は山が海に迫った場所なのに駅構内が広いのは、なぜか。谷合にある静かなやまきた駅もまた広大な敷地を持っているのは、なぜか。レールの脇に、もう一本レールが敷けそうな空間があるのは、なぜか……。
 この絵本の初出は、世界の様々な「ふしぎ」について子供達へ専門的な知識を授ける福音館書店の雑誌「たくさんのふしぎ」であり、御殿場線にまつわるふしぎが、ここでは解き明かされていく。かつて御殿場線は東海道本線だったこと。元は複線であったのが、太平洋戦争中に他の路線に転用するためにレールが外され、単線となってしまったこと。そんな御殿場線の運命を知ることは、日本の近代史を知ることにつながる、と宮脇は考えたのではないか。
 少年時代、国府津駅のことを「可哀想」と思った宮脇は、大人になってから書いたこの絵本でも、御殿場線のかなしさをつづる。丹那トンネル開通後、御殿場線はローカル線に「かくさげ」になってしまい、全ての列車がまった国府津駅には、「つばめ号」はおろか普通特急すら、
「もうキミに用はないんだよ」
 と通過していく。
 絵本のそのページには、国府津駅に寂しくたたずむ駅弁売りの姿が描かれている。ルートの変更により、東海道本線の乗客は駅弁を沼津で購入するようになり、「ぬまづ食わずで沼津まで」というじやったのだそう。ちなみにこの駄洒落は、阿房列車シリーズの十四作目「興津阿房列車」において、ヒマラヤ山系も口にしているのであった。
 このように、ルートの変更によって沼津の地位は高まったのだが、しかしさらに時が経てば、東海道新幹線が開通することになる。
「御殿場線の地位をうばった東海道本線も、新幹線にはかないません。『つばめ号』も姿を消しました」
 と鉄道の無常を示すことによって、この絵本は終わるのだった。

#10-2へつづく
◎第 10 回全文は「カドブンノベル」2020年2月号でお楽しみいただけます!


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