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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.6

鉄道女子の酒井順子が敬愛する内田百閒と宮脇俊三を比較しながら鉄道紀行の歴史を振り返る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#7-2

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」

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 令和元年の今泉駅前もまた、時が止まったようだった。が、それは人の姿がどこにも見当たらず、物音一つしないせいである。昭和二十年は、駅前に置かれたラジオを数十人が囲み、こうべを垂れて放送を聴いたわけだが、昭和天皇の孫が天皇となった今、駅はすでに「人の集まる場所」ではなくなっている。
 昭和二十年の宮脇父子は、正午に駅前で玉音放送を聴いた後に米坂線に乗車したが、昼食をどうしたのかは記されていない。天童で入手したものを、どこかで食べたのか。
 対して私は、今泉駅から少し離れた場所に、ラーメンを供する店がいくつかあるという情報を、スマホによって摑んでいる。宮脇は、昭和の末期に刊行された『途中下車の味』でも米坂線に乗っているが、事前に山形の味覚について調べても、「ソバ以外にさしたるものはない」と書いている。果物の宝庫ではあるが、「料理のほうは貧しいようだ」との結論に達しているのだ。
 当時はまだ、山形ラーメンは今ほど隆盛ではなかったのかもしれないが、今の山形はラーメンを強く推している。駅からしばし歩いたところにあった、老婦人が一人で切り盛りする食堂のような喫茶店のような店のメニューにも、ラーメンがあった。
 店に入った時はガラガラだったが、ほとんどの席は予約済みである。私がラーメンをすすっていると(美味)、次々と車でおじいさん達がやってきては無言で昼食を食べていくその店は、農家のおじいさん達にとっての社食のような役を果たしているように思われた。
 駅に戻って、今泉駅を十三時に出る米坂線を待つ。ホームに他の客はおらず、時が止まったような感覚は続く。が、やはり列車は、時間通りにやってきた。静かな駅にやってくる列車は、敗戦という非日常的な時でなくとも、人の心をほっとさせる存在だった。
 二両編成の米坂線は、山の中を進んでいく。手ノ子駅を過ぎた辺りから登りの勾配がきつくなり、うつそうと茂る緑の中を、蛇行するあらかわにつかず離れず、列車は走るのだった。
 昭和二十年八月十五日の宮脇も、「はじめて乗る米坂線の車窓風景に見入っていた」。石炭の質は悪く、トンネルの中で止まってしまい、窒息しそうなほどに煙にむせたりもした。しかし峠のぶんすいれいを越えれば、日本海に向けて、快調に汽車は走っていく。
 山々と樹々の美しさに目を見張る、宮脇。
「日本の国土があり、山があり、が茂り、川は流れ、そして父と私が乗った汽車は、まちがいなく走っていた」
 のだ。それは、戦争という峠をやっと越えた宮脇の、これからの人生と重なる走りぶりだったのではないか。



 一方のひやつけんは、敗戦の日にどうしていたのか。こうじまちにあった家が空襲で焼けたのは、昭和二十年五月二十五日の夜から、二十六日にかけてのやまのて大空襲の時。行き場が無くなった百閒夫妻は、嘱託を務めていた日本郵船に身を置くべく、二十六日の朝に歩いてまるうちに向かう。
 おおまちに出てから日本郵船のビルの方を目指していると、火事の臭いがする煙が流れてきた。そこで百閒が見たのは、
「辺りは昨夜焼けたと思はれる所もないのに不思議だと思つてゐたら、くら門のがいせん道路に出て見ると東京駅が広い間口の全面にわたつて燃えてゐる。れんの外部はそのままあるけれど、窓からはみな煙を吐き、中にはいまだ赤いほのおの見えるのもある」
 という光景。
 東京駅もまた、百閒の家が焼けた山手大空襲で、丸の内降車口(現在の丸の内北口。当時は乗車口と降車口が分かれていた)に被弾、炎上し、ドーム型屋根や駅舎三階部分等を焼失した。この時に失ったドームが復元されるのは、平成二十四年(二〇一二)まで時をまつことになるが、百閒は、まだ燃え続けている東京駅を目撃したのだ。
 その後にたどり着いた日本郵船のビルは、停電のみならず水も出なくなっていたため、百閒夫婦は身を置くことを諦め、再び歩いて麴町へと戻る。仕方なく、近所のまつ男爵家の庭番が使っていた三畳の小屋を借りて起居するようになったのは、前号でも記した通り。電気も水も使うことができないという意味では、この小屋も同様であった。
 五月三十日からは最寄りのよつ駅にも列車が通るようになり、三十一日に百閒は空襲後はじめて、日本郵船に出社する。この日、東京駅に立った時のことについて、
「焼けた後の東京駅の惨状は筆舌の尽くす所にあらず。はいきよは静まり落ちついてゐるはずだが、東京駅は未だ廃墟でもない。ほろびつつある途中である」
 と、『東京しようじん』に記されている。その時の東京駅は、天井から何かが落ちてきそうで、改札を通ることも危なっかしかったのだそう。今であれば、そのような状態の駅は使用しないであろうが、当時は列車を走らせることを優先させたのであろう。
『東京焼盡』では、焼け出された後、七月の日記にも、東京駅のことが記されている。
 雨の日に日本郵船から帰る時、
「東京駅は屋根がない。乗車口のホールに上から雨が降りそそいでゐるからみんな傘をさして改札を通る」
 と。東京駅の乗降車口にもホームにも屋根が無いという状態は、敗戦後もしばらく続くことになる。
 雨で難儀をするのは、家に戻ってからも同様だった。小屋の中は何とか雨露をしのぐことはできても、トイレは屋外、煮炊きも外でまきを燃やしてという状況下では、雨は大敵だったが、昭和二十年はが長く続いた。のみならず空襲もまず、極度の食料不足が改善されることもなかった。日本と日本人とに、限界が近づいてきていた。
 八月六日には、広島に原子爆弾が投下される。八月九日の警戒警報の時は、
「B29一機なれども去る六日の朝七時五十分B29二機が広島に侵入して原子爆弾を投じたる為瞬時にして広島市の大半が潰滅した惨事あり。その後だから一機の侵入にても甚だ警戒す」
 と記している。この日の日記では、〝西〟の参戦については触れられているが、長崎への原爆投下については記されていない。
 また八月十一日には、百閒の息子が、アメリカが明日すなわち十二日に、東京に原子爆弾を落とすという情報があることを知らせに来たことが記されている。「この頃は敵の予告がその通り実現するのだから用心しなければならない」と。
 十二日、東京に原子爆弾が落ちることはなかった。しかしそれから十五日までの数日を、百閒は原爆投下におびえつつ過ごすことになる。
 そして、八月十五日。正午に重大放送があるとのことは、やはり前夜から知らされていたが、この日も早朝からの警戒警報によって、百閒は起こされる。朝のラジオで「天皇陛下が詔書を放送せられると予告した」ことについて、「誠に破天荒の事なり」と思っている。
 正午が近くなると、三十度を超える気温であったが、百閒は上着を着て、主屋にラジオを聴きに行った。
「天皇陛下の御声は録音であつたが戦争終結の詔書なり。熱涙ぼうとして止まらず。どうふ涙かと云ふ事を自分で考える事が出来ない」
 という百閒だった。
 しきりにあふれる、涙。しかしそれが流れているのか、百閒は考えることができない。天皇によるラジオ放送は、百閒の中の時間をも、止めたのかもしれない。

 宮脇の中で止まった時間は、走ってきた米坂線によって再び動き出したが、百閒はどうだったのか。当日の日記に、敗戦となったことに対する心の動きは、記されていない。百閒が「本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ツタ」とする昭和十九年十一月一日に書き始めた戦争日記は、昭和二十年の八月二十一日で終わる。
 この日、麦酒ビールが飲みたいという心境を書いている百閒。しかし、「無い物は仕様がない」との心境にもなっている。
「『出なほしりなほし新規まきなほし』非常な苦難に遭つて新らしい日本の芽が新しく出て来るに違ひない。れて行く旅人の後からるる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだらう」
 として、この日記は終わるのだった。
「野路のむらさめ」うんぬんは、
「急がずば濡れざらましを旅人のあとより晴るる野路の村雨」
 という、おおどうかんが詠んだ歌を引いたものと思われる。急いで先に進もうとしたせいで、村雨に降られずぶ濡れになってしまった旅人を、日本という国に重ねた百閒。しかしこれからは晴れるであろう、と。

 敗戦時、うち百閒は五十六歳。すでに初老と言ってよい年齢であったが、彼の〝鉄道人生〟は、その後にピークを迎えることになる。子供の頃から鉄道好きではあったが、借金苦そして戦争によって、彼の鉄道好きの性分は思うままに発揮させられずにいた。しかし人生の後半となって、好機が到来したのである。
 一方の宮脇俊三は、政治家の息子という立場を存分に利用し、また若さの勢いもあって、戦前、戦中を通して鉄道に乗り続けてきた。だからこそ敗戦を告げる放送をも旅先で聴くことになったのであり、それは彼のこの先の人生を暗示する出来事でもあった。
 内田百閒と宮脇俊三、いよいよ戦争が終わって日本の鉄道環境が激変していく中で、二人の人生のレールは、さらに続いていく。

>>#8-1へつづく
◎第8回全文は「カドブンノベル」2019年12月号に掲載予定!
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