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連載

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」 vol.3

鉄女・酒井順子が敬愛する内田百閒と宮脇俊三。二人を比較しながら鉄道と文学について綴る。「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」#6-1

酒井順子「鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む」


前回までのあらすじ

「阿房列車」で鉄道紀行というジャンルを示した内田百閒が「なんにも用事がない」のに汽車で大阪に行っていた時代、普通の人にとっての鉄道は、何かの用事を果たすために乗るものにすぎなかった。その四半世紀後、宮脇俊三は異なるアプローチでそのジャンルを背負う。鉄道や紀行文学の歴史とともに二人の「鉄人」の足跡をたどる――。昭和に入って鉄道は急速に発展するも、戦争により自由な旅ができなくなってしまった。そのとき二人は?

 第二次世界大戦に突入した、日本。開戦当初は押せ押せムードだったものの、ほどなく状況は悪化していく。東京への空襲が本格化したのは、昭和十九年(一九四四)の秋だった。当初、狙われていたのは主に軍需工場等であったことから、人々は次第に警戒を解くようになってくる。
 がやきたざわに住む十八歳の高校生であったみやわきしゆんぞうも、その一人だった。空襲警報が鳴ってもぼうくうごうに入らず、空を飛ぶB29を眺めていたのである。
 うちひやつけんは戦中・戦後にわたって詳細な日記をつけているが、宮脇もまた、空襲日録を記していた。いつも悠々と帰っていくB29の編隊の一機が、日本軍の攻撃によって墜落したのを見て「やったやった」と宮脇が手をたたいていた同年十二月二十七日、五十五歳の百閒は、かかりつけの医師のところにいた。空襲警報が鳴って医師とともに防空壕に入ったのだが、「余りこはいので幾度も防空壕からひ出して庭の隅に小便をした」と、戦争中の日記をまとめた『東京しようじん』にはある。
 翌年の二月になると、アメリカ軍の航空母艦が、本州沿岸に接近。艦載機で攻撃を仕掛けるようになり、事態は切迫してくる。B29の数も機動力もアップし、神出鬼没に。二月十六日には、東京に初めて艦載機がやってきた。この日のことを、
「艦載機が一日じゅう断続的に来襲し、朝出た空襲警報が夕方まで解除されなかったから、二月一六日は疲れた」(『時刻表昭和史』)
 と宮脇は書く。
 百閒も『東京焼盡』において、同日のことを「艦載機の初襲来」として、記している。午前七時過ぎに警戒警報が出ると、すぐに空襲警報に。「敵艦隊のちようりようを許してここに至るとは本当に思ひもよらぬ事であつた」。空襲警報は午後五時過ぎまでまず、百閒は嘱託を務めていた日本郵船には出社せずに、一日を過ごした。
 同じ頃、宮脇は友人を誘って、わらまでミカンの買い出しに出かけている。家族中が身体からだのだるさを訴えているのはビタミンC不足ということで、ミカン入手のために出かけたのだ。
 きゆう線でわらまで行き、東海道本線で湯河原まで。なぜ東京駅から東海道本線に乗らないかというと、当時百キロ以上の切符を買うには、警察で旅行目的を説明し、旅行証明書をもらわないとならなかったからだった。
 宮脇と友人が小田原から乗った列車の車掌は、女性だった。若い男性が兵隊や徴用にとられていたため、鉄道においても女性が働く姿は珍しくなかった。
 途中、空襲警報が発令され、列車は湯河原到着前に停車する。列車内で空襲警報が出た時は定められた退避姿勢を取らなければならなかったが、素直に従わないでいると、
「ちゃんとやりなさい! 艦載機かもしれません」
 と女子車掌に叱られたことが、宮脇の記憶には残っている。
 東京には疎開命令が出ていたが、北沢の宮脇家も、こうじまちの内田家も、疎開はしていない。そんな中、三月十日の未明に、東京はとうとう激しい空襲に見舞われた。後に「東京大空襲」と言われるようになったこの晩、下町方面は壊滅的被害に遭い、百閒も宮脇も、空が赤く燃える様子を目撃している。
 百閒は、東京大空襲の翌日に、日本郵船へ出社している。省線電車は動いていたのであり、通勤途中で見た焼け跡の景色は「大地震の時の大火以上」。百閒は、自分の家も近いうちに焼けるものと、覚悟を決めた。
 宮脇もまた、東京大空襲の夜が明けた日から列車が動いていたことに、驚いている。「被災地の中心部を通っていた総武本線の運転が再開されるには六日を要した」ものの、「かちまちしんばし間は一一日の朝までには開通」し、「その他の国電区間は電車が止まらなかった」のだ。「鉄道は空襲、とくにしようだんに対して案外強い」と宮脇は思うのだが、のみならずそこには「家を焼かれながら復旧作業に当った人たち」の姿もあった。
 東京への空襲は、続く。東京の東部が焼けた三月十日の空襲の後、四月に入ると北部、南部も焼けた。「残るは西部、つまり、しん宿じゆくあおやましぶ、それから私の家のある世田谷方面である」と『時刻表昭和史』にはあるが、まだ大規模な空襲を受けていない「東京西部」には、麴町の百閒の家もあった。
 宮脇は、空襲を待ち望んでいる自分に気づく。「東京の大半が焼けたのに、自分の家が焼けずに温存されているのが、どうにもうしろめたいのである」という感覚だった。
 五月二十五日の夜、とうとうその時はやってくる。百閒の日記によれば、空襲警報がでたのは夜の十時二十三分。「西南の方角が薄赤くなつた」とのことで、それは宮脇一家が住む世田谷の方向である。世田谷の方が、先に空襲を受けていたのかもしれない。
 百閒は防空壕へ避難するが、焼夷弾の着弾に身の危険を感じて、防空壕を出て逃げることに。飲み残していた一合の酒を、一升瓶のまま持っていく。「これだけはいくら手がふさがつても捨てて行くわけに行かない」と、逃げる途中も、苦しくなるとコップに酒をいで(コップも持ってきていた)、飲んだ。食料事情が厳しくなった後も、酒を手に入れるためであれば、百閒はあらゆる努力を惜しまなかった。
 酒を飲みながら逃げているうちに、夜が明ける。百閒の家は、全焼していた。師であるなつそうせきの筆跡も、英和と独和の字引も、東京の地図も、全て焼けたのだ。
 一方の宮脇家は、どうだったのか。おそらくは麴町よりも一足早く世田谷を襲った空襲は、宮脇の家のあたりにも、焼夷弾の雨を降らせた。てつかぶとかぶり、防空壕から出たり入ったりしていた、宮脇。近くに住んでいた姉夫婦の家は焼け、避難してくるという事態だったが、「空襲警報が解除されてみると、私の家は焼けずに残っていた」(『時刻表昭和史』)。庭のあちこちに焼夷弾が落ちてはいたが、そのほとんどが不発弾だった。
 宮脇はその翌日、かつて住んでいた青山の家を見に行く。宮脇にとって懐かしい街である渋谷は、焼け野原に。中央本線は空襲の翌日である五月二十六日の夜九時に開通し、山手線は被害が大きかったにもかかわらず、三十日の始発から運転を再開したことを、宮脇は記録している。
 東京西部への空襲後、内田家も宮脇家も、新しい生活が始まった。内田家では、近所の男爵の邸内にある三畳敷の掘っ立て小屋を、借りることになった。くろさわあきら監督の最後の作品『まあだだよ』は、百閒とその学生(百閒は「教え子」という言葉が嫌い)達との交流を描いているが、そこでも掘っ立て小屋に住む百閒が描かれている。一時しのぎかと思われたこの狭小の小屋に、百閒夫婦は結局三年にわたって住むことになった。
 宮脇家では、父のちようきちと俊三を東京に残し、母や姉達が新潟県のむらかみに疎開した。俊三は、東京と村上を往復して食料を運ぶなどし、二つに分れた家族の連絡役を担うこととなる。
 村上では野菜などもあり、食料に困窮することはなく、温泉に入ることもできた。「空襲に明け暮れていた東京から来てみると、そこは別天地」だった。
 日本軍の敗色が濃くなって来た八月、宮脇は「東京に戻ってきても食料は無い」ということで、村上に足止めを食っていた。空襲日録をつけながら宮脇は、地方都市が軒並み空襲を受けている中、「なぜ京都、広島、長崎が攻撃を免れているのか」との疑問を深めている。そんな中で八月六日には広島に、九日には長崎に原爆が投下された。九日にはソ連の参戦も発表され、「これは日本海側の方が危険ではないか」との緊張が高まってくる。
 その翌日、長吉が、村上にやって来た。山形の内陸部・おおいしにある炭鉱に行く用があり、その途中に立ち寄ったのだという。
 村上から大石田までは、宮脇にとって「未知の区間」だったのであり、「たちまち行きたくなった」。父親は危険だからと止めるが、結局は同行を許すことになる。
 昭和二十年(一九四五)の八月十二日に村上をった、六十五歳の父と、十八歳の息子。この二人旅は、宮脇俊三の人生において、大きなピリオドとして刻まれることになった。旅の様子は、『時刻表昭和史』の白眉「よねさか線109列車 昭和20年」の章に記されている。宮脇父子の旅をなぞって、私も同じように列車に乗ってみようと思う。

>>#6-2へつづく ※9/26(木)公開
◎第6回全文は、「カドブンノベル」2019年10月号に掲載されております。


「カドブンノベル」2019年10月号

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