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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.12

秀吉は人たらしでなく邪悪だった!? 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第三節 戦前・戦後の豊臣秀吉像

矢田挿雲の『太閤記』

 欧州諸国に甚大な被害をもたらした第一次世界大戦後、世界的に反戦感情が広がっていく。大正十年(一九二一)七月三十日の朝日新聞夕刊に掲載された「今日の問題」は、シベリア出兵を批判する中で朝鮮出兵に言及している。すなわち「国論の後援を待たずして日本が出兵し、しかして失敗したのは、豊太閤の三韓出兵と今後のシベリア出兵とである」と説く。世界的な軍縮の流れの中、豊臣秀吉の朝鮮出兵を礼賛する風潮は衰えていく。
 豊臣秀吉は人気者であったので、明治以来、講談や芝居はもとより、秀吉を主人公とした小説も少なからず発表された。だが、『太閤記』を大衆文学として完成させたのは、矢田やだ挿雲そううんの『太閤記』であると言われている。
 矢田挿雲の『太閤記』は、「報知新聞」の夕刊に大正十四年(一九二五)から昭和九年(一九三四)までの長期にわたって連載された豊臣秀吉の一代記である。この大長編の人気に火がついたのは昭和十~十一年に単行本が発売されてからで、続篇を求める声に応えてせきはらの戦いと大坂の陣も書き継がれた。
 矢田挿雲の『太閤記』の一大特色は、朝鮮出兵を耄碌もうろくした豊臣秀吉の愚行と酷評している点である。挿雲は徳富蘇峰の『近世日本国民史』を参照しているが、蘇峰よりも批判のトーンを一段上げている。挿雲は次のように朝鮮出兵の動機を描く。

 鶴松の死は秀吉を狂乱させたと当時うわさされたほどであった。秀吉は天を仰ぎ地に伏してこくした。子をうしなった者でなければ到底味わい知ることのできない悲痛を胸に宿しつつ、秀吉は八月以来、外征の準備に拍車をかけた。秀吉は大明を征して、大明王となる――というとりとめのない空想に身をゆだねている間だけは、さしもの悲痛がいくらか、ほんの少しだが、堪えやすく思われるのであった。

 矢田挿雲の『太閤記』は、朝鮮征服の妄執に囚われる豊臣秀吉が小西行長ゆきなが・明使しんけい欺瞞ぎまん外交に踊らされる様を、諧謔かいぎやくを込めて描き出す。病に倒れた秀吉の夢枕に織田信長が現れ、「あまりなが過ぎるぞ、すぐにこい」とあの世に呼ぶ。秀吉は「え? すぐに?」と返すが、信長は「外征の士卒を犬死にさせるつもりか、どうだ」と秀吉を責める。秀頼が大きくなるまでは待ってほしいと秀吉は訴えるが、信長は「もう一年も我慢することは相成らん、こい」と催促する。この悪夢が引き金になり、秀吉は重態に陥る。
 こうした描写は、従来の太閤記作品に見られない新しいものである。ただし、朝鮮での戦闘の経過を事細かく描写する点は、江戸時代以来の伝統を引き継いでいるとも言える。周知のように豊臣秀吉は渡海していないので、朝鮮出兵における秀吉の存在感は薄い。このため『絵本太閤記』の六編・七編に至っては、秀吉よりも加藤清正の方が目立っており、どちらが主人公か分からないほどである。矢田挿雲の『太閤記』は日本国民文学全集版では全七巻だが、第七巻はまるまる朝鮮出兵に費やしている。『絵本太閤記』に比べれば、全体に対する朝鮮出兵の比率は低いが、それでも長大であり、あまり記述が整理されていない印象を受ける。

読売新聞による秀吉顕彰

 日本が軍国主義、国粋主義へと向かっていく中で、豊臣秀吉を勤王の偉人、海外進出の英雄として理想視する潮流が復活する。昭和十二年(一九三七)の『国体の本義』刊行、そして日中戦争の勃発が一つの画期となっていると思われる。
 こうした豊臣秀吉顕彰の時流に最も積極的に乗ったのは、正力しようりき松太郎まつたろう率いる読売新聞であった。次項で詳述するように、昭和十四年元日より「読売新聞」夕刊で吉川よしかわ英治えいじ『太閤記』の連載が開始された。同年一月二十五日には座談会「太閤を語る」が開催され、その内容は翌月に複数回に分けて「読売新聞」夕刊へ掲載された。二月二十五日からは東京日本橋の白木屋で読売新聞社主催の「大陸進出の英雄 豊太閤展覧会」が開催された。
 座談会は、『近世日本国民史』の徳富蘇峰、歴史学者の渡辺わたなべ世祐よすけ、『太閤記』連載中の吉川英治ら七人の著名人によって行われた。読売新聞社の柴田しばた編輯へんしゆう局長が最初に「英雄待望時代の現下のわが国民が挙がって崇敬すいけいしてかない我国不出世の大英傑『太閤』に関し平素の御研究並びに御所懐の一端を披瀝ひれきして頂けるということは、実に願ってもない仕合わせな事であります」と挨拶しており(「読売新聞」昭和十四年二月十二日夕刊)、時局を強く意識した企画であることがうかがわれる。
 この座談会で、在野の歴史家である白柳しらやなぎ秀湖しゆうこは、朝鮮出兵の動機をめぐる論争について、「子供を亡くした鬱憤を散ずるためであるとか、あるいは諸大名の過剰勢力を外国に転ずるためであるとかいうことをいう人もありますけれども、そんなことは問題にならぬ」と一蹴する。そういう批判は、日中戦争が軍部の「専濫驕欲」によって生じたかのように邪推する「批評家の陰口」と同じだという。何やら『絵本太閤記』が貝原益軒を糾弾した論調を想起させる。
 白柳は「あの頃の太閤の気持ちというものは、皇室を中心とする近代民族国家――日本を建設しようということで一ぱいであったと見てよろしい」と説く。「支那の付庸国であるか、独立国であるか分からんような国民生活をしておった日本人を、支那を主盟とするアジアの封建的経済ブロックから解放さして、皇室の御稜威みいつの下に立派な独立民族としての自覚を与え、それを基礎として日本国を統一していこう」と秀吉は考えていたのであり、征夷せいい大将軍を捨てて関白・太政だじよう大臣を取ったのも、このためであると白柳は主張している(「読売新聞」昭和十四年二月十八日夕刊)。当時は、秀吉の朝鮮出兵に対する絶賛と、日中戦争の正当化が分かちがたく結びついていたことが知られる。
 陸軍少将で予備役に編入し、以後は戦史家として名を馳せた伊藤いとう政之助まさのすけも負けてはいない。伊藤によれば、豊臣秀吉は織田信長より偉い、徳川家康より偉いといった次元で論評すべき人物ではなく、「世界の大英雄」だという。伊藤は同座談会で秀吉とナポレオンの軍略を比較しているが、秀吉は桶狭間おけはざまの戦いに参謀として参加しているはずだと述べるなど、史料的根拠を掲げないまま秀吉を強引に持ち上げている(「読売新聞」昭和十四年二月二十二日夕刊)。
 現代から見ると、「もし世界に武将としての太閤に匹敵するものあらば、ナポレオンよりなし」という伊藤政之助の主張は夜郎自大の極みである。しかし当の伊藤にとっては、武人秀吉の顕彰は切実な課題であった。日本が世界に誇れるものは、万葉集や源氏物語など文化面に偏っている、と軍人の伊藤は考えていた。日本が東洋の覇者にならんとして諸外国の注目を集めている現状を鑑みると、「文化ばかりでなく日本にもこういう偉い者があったということを出してみたい」のである。したがって、是が非でも豊臣秀吉を世界的英雄にする必要があったのだ。
 言うまでもないが、読売新聞社主催の「大陸進出の英雄 豊太閤展覧会」も、豊臣秀吉の朝鮮出兵を顕彰する性格を強く持っていた。「読売新聞」昭和十四年二月二十六日朝刊で、展覧会の趣旨・概要が説明されているが、本展覧会の目玉である「パノラマ山崎合戦」の紹介を除けば、ほとんどが「朝鮮征伐」の解説である。
 上の解説では、文禄の役で制海権を確保できなかったことこそ軽く触れられてはいるが、日本軍の連戦連勝が強調されている。そして、文禄の役後の明との講和交渉において、明の国書に「日本国王に任じる」という一節が見えたので、豊臣秀吉は激怒したと説く。「秀吉は『日本には万世一系の天皇陛下がいらせられる。何をもって臣である秀吉を国王とするというのか』と大いに怒り、第二回の朝鮮征伐軍を進めました。こんどは海陸とも相当の成績を収めましたが、惜しや総大将の秀吉は戦い中ばになくなりました。もし生きていたらきっと支那はそのとき既に日本のものとなっていたでしょう。その死はいまにして実に惜しまれます」と記す。
 上の朝鮮出兵観は吉田松陰のそれとほとんど異なるところがなく、歴史的事実と懸け離れているが、秀吉顕彰者たちは史実か否かに拘泥しなかったのだろう。彼らにとって重要なのは、国威発揚、戦意高揚、時局への迎合だったのである。

吉川英治の『太閤記』

 先述の通り、昭和十四年(一九三九)元日、「読売新聞」夕刊にて吉川英治の歴史小説『太閤記』の連載が始まった(昭和十六年の単行本化の際に『新書太閤記』と名付けられた)。前年十一月五日の「読売新聞」朝刊に、『太閤記』連載の予告が出ている。そこには「今事変を契機として、日本が大陸経営の聖業に就かんとする折柄、〝英雄〟秀吉をしのぶや切なるものがあります。ここにわが大衆文芸陣の第一人者吉川英治氏は憤然って地下の英雄を起こし、今の世にその全貌を伝えんとするのであります」と趣旨が記されている。「今事変」とは支那事変、今でいう日中戦争のことである。『太閤記』の連載が、時局を強く意識して企画されたことがうかがわれる。
 この社告では、「下賤より身を起こして天下に号令し、さらに大明をも皇威の下に置かんとした豊臣秀吉は日本の生んだ最大の偉傑であります」とも述べられている。朝鮮出兵を「勤王家」秀吉の偉業としてたたえる意図は明白である。
 同社告では吉川英治の「作者の言葉」も掲載されている。吉川は「今ほど国民の気持ちが大陸的に強固な意思を持ち出した時代はないと思う。かつての史上に共通した時代を求めると、それは豊臣秀吉を生んだ永禄えいろく元亀げんき天正てんしようの頃しかないと思う」と述べ、連載依頼を受けて最初に考えたことは、「今日の作家として太閤記をどう扱うかという問題であった」と告白する。
 吉川英治は、今さら「絵本太閤記式の再現」をしても仕方ないと思い、「新時代の太閤記」を書けるかどうか大いに悩んだという。はたして吉川の言う「新時代の太閤記」とは、どのようなものか。吉川は従軍作家として大陸に渡り、戦場生活を経験したことで創作の自信が湧いたというから、「新時代の太閤記」は、豊臣秀吉の勤王・外征を強調する作品を意味するのだろう。吉川は、冒頭から日吉ひよし(のちの秀吉)の幼なじみとして、中国人の母を持つ於福おふくを登場させ(吉川の創作)、日吉の大陸への強い関心を描いている。
 吉川英治の「絵本太閤記式の再現」うんぬんは、暗に矢田挿雲の『太閤記』を批判しているように思われる。近年の国文学研究では、『絵本太閤記』に勤王の要素が含まれていることが指摘されているものの、同書の基調はやはり痛快な立身出世たんである。矢田の『太閤記』は、『絵本太閤記』を土台として、豊臣秀吉の立身出世をユーモラスに描いている。それに比べると、吉川の『太閤記』は決して堅苦しい話にはなっていないが、織田信長・豊臣秀吉らの勤王を前面に押し出している。
 吉川英治の『太閤記』は、当初の予定では、青年期の「藤吉郎とうきちろう時代」、壮年期の「秀吉時代」、大成期の「太閤時代」の三部作を三ヶ年にわたって連載することになっていた。けれども構想が膨らみ、壮年期の「秀吉編」が完結したのは昭和十七年七月、休載を挟んで大成期の「豊臣編」の連載開始が昭和十八年一月、昭和二十年八月十四日の時点で、織田信雄のぶかつ(信長の次男)が親秀吉派の三家老を処刑し、いよいよ小牧こまき長久手ながくての戦いが始まる、というところまでしか話が進んでいない。『太閤記』は八月二十三日連載分をもって中断された。
 戦時下の吉川英治は、朝鮮出兵をどのように叙述するつもりだったのだろうか。吉川は、織田信長がまだ存命の天正てんしよう九年(一五八一)に、豊臣秀吉が九鬼くき水軍の武士と語り合った話を創作している。彼らは九鬼嘉隆よしたかに服属する前は倭寇わこうであったことに引け目を感じていたが、秀吉は意に介さず、「秀吉なども、もし、十六、七歳の頃に、その方どもと巡り会うていたら、かならずなんじらの手下に属して、南海西蛮大明高麗、ひとわたりはぜひ見物しておいたろうに、残念に思う」と語る。そして秀吉は、逆賊足利あしかが氏に従うことを潔しとしなかった南朝方の武士が海に活路を求めて倭寇になったのだと説き、「国を愛するがために血をながした一族のわかれが、一帆万里をこえて、国外に武を振うとき、どうしてその生命の光焰に、護国のたましいが発しられないわけがあろう。国を愛する念の出ない理由があろう」と、いにしえの倭寇に敬意を示す(「読売新聞」昭和十七年三月十二日夕刊)。
 現代人から見ると突飛な歴史観に映るが、南朝の忠臣が倭寇になったという見解は吉川英治の独創ではなく、当時はしばしば唱えられていた。いずれにせよ、南朝の忠臣=倭寇の遺志を継いで勤王精神に基づき朝鮮出兵を敢行する、というのが吉川の構想だったと思われる。しかし、朝鮮出兵に筆を進める前に、日本は太平洋戦争に敗れてしまった。秀吉の外征を勇ましく描き、国民を鼓舞する意味は、もはや失われてしまったのである。
 その後、吉川英治は地方紙に『続太閤記』を発表するが、結局、小牧・長久手の戦いが終わった辺りまでで擱筆かくひつし、実質的に未完に終わった。敗戦によって当初の構想が破綻した以上、途中で終わらせるしかなかったのだろう。

戦後の秀吉小説

 敗戦によって豊臣秀吉のイメージは覆った。中でも、朝鮮出兵への評価は百八十度転換した。
 文豪の志賀しが直哉なおやは終戦直後、「銅像」というエッセイを発表している(昭和二十年十一月二十七日脱稿、「改造」昭和二十一年一月号に掲載)。志賀は、幕末に欧米列国との外交を担当した幕臣の川路かわじ聖謨としあきらが「太閤様程の人でも、あれだけの犠牲を払いながら、てのひら程の土地も得ていないではないか」と言って、外国との衝突を避けたという逸話を引いている。続けて「われわれの子供らしい英雄崇拝は、秀吉が明まで攻略しようとした、その雄志を賛美し、多くの犠牲を払いながら遂に掌程の土地も得られなかった愚挙をこれまで愚挙として考えなかったのは何という変な事だろう。われわれは学校の授業でそう教えられなかったのだ」と憤る。
 さらに、志賀直哉は「われわれは秀吉の愚挙を漫然壮図と考えたのだから、西はインド、南はオーストラリアまで攻め寄せた戦争を、その結果を忘れて、自慢の種にする時が来ないとは言えない気がする。自慢の種にするだけなら差し支えないが、第二の東條とうじよう英機ひできに出られるような事は絶対に防がねばならぬ」と説く。その防止策として「今、われわれが彼に感じている卑小なる東條英機を如実に表現した銅像」を建て、後世に東條が英雄視されないようにすべきであると主張している。戦前日本の大陸進出の過程で豊臣秀吉は美化されていったので、その野望がついえたならば、秀吉が落ちた偶像となるのは必然である。
 かくして戦後の秀吉小説は、朝鮮出兵を否定的に描くようになる。川口かわぐち松太郎まつたろうが昭和二十九年(一九五四)から三十五年にかけて「週刊サンケイ」で連載した『俺は藤吉郎』は、「朝鮮に関するかぎりは秀吉の目算がことごとく違って、あれほど読みの深い彼が、第一回出征以後の五年間は浪費と無駄と痴夢に終始して晩年の大汚点を作り上げてしまった」と評す。川口は「後世の史家は秀吉を勤王大名に作り上げているが、それは明治以後の皇室御用学者の捏造ねつぞうで秀吉の本心とは関係ない。明の冊封さくほうが日本国王にするとある文句に激怒して朝鮮再征を企てたというのも作り事で秀吉は天皇にも国王にもなりたかったらしい」とも語っており、日本社会の価値観の急変を感じさせる。
 山岡やまおか荘八そうはちが昭和三十五年から四十四年にかけて「小説俱楽部くらぶ」で連載した『異本太閤記』は、はち須賀すかろくを南朝の忠臣の末裔まつえいに造形するなど、戦前の勤王史観を引きずっている。けれども、朝鮮出兵の失敗をはっきり認めている点は『俺は藤吉郎』と同じである。山岡は「大明国相手の戦のつもりが、朝鮮相手の戦になった。そしてその朝鮮にも負けだした。大東亜戦争の、攻めるつもりが、いつの間にか攻防ところを変えていって、必死で防がねばならぬ戦に変わっていたのとよく似ている」と評している。
 海音寺かいおんじ潮五郎ちようごろうが昭和三十八年から四十一年にかけて「オール讀物よみもの」に連載した『新太閤記』も、やはり朝鮮出兵と太平洋戦争を重ね、豊臣秀吉の愚かさを痛烈に批判している。そして、豊臣秀頼の誕生を記したところで「ここから以後のことを叙述するのは、忍びないものがある。秀吉が古今をむなしくする大英雄であるだけに、一層そうだ。略述することを、ゆるしていただきたい」と述べる。
 戦後の秀吉小説の難しさがここにある。今となっては朝鮮出兵を「壮図」と賛美することはできない。かといって、主人公である豊臣秀吉がただただ老醜をさらすだけでは、読者が共感できない。川口松太郎・山岡荘八は、衰えたりとはいえ、なお魅力を残した人物として秀吉を描くことに苦心している。海音寺潮五郎は上記の通り、晩年の秀吉を略述するにとどめた。
 これに対し、割り切って豊臣秀吉の天下取りの途中で筆をいたのが、司馬しば遼󠄁太郎りようたろうである。「小説新潮」で昭和四十一年から四十三年にかけて連載された『新史太閤記』は、秀吉が徳川家康を臣従させたところで終わっている。吉川英治の『新書太閤記』は、秀吉が家康を臣従させようと交渉をしている最中に、唐突に幕を閉じる。司馬は、おそらくは『新書太閤記』を参考に、実質的に秀吉の天下が確定した家康上洛を良い区切りとみなし、意識的にそこを大団円とした。
 物語の終着点は似ているものの、司馬遼󠄁太郎の描く豊臣秀吉は、吉川英治のそれとは大きく異なる。『新史太閤記』では、のちに秀吉となる「小僧」は百姓になるのを嫌い、己の才覚でいくらでも銭を増やせる商人になろうとするが、やがて商人よりも武士の方がはるかに才覚の渡世であると知り、武士を目指す。秀吉は織田信長の家臣になってからも、その商人的気質をかして立身出世していく。司馬は、徳川家康の本質は「三河みかわの百姓」であり、秀吉の本質は「尾張おわりの商人」であると評している。司馬によれば、秀吉の天下統一は、「太古以来の各国各郷各村による自給自足経済」を解体し、「日本中の経済を一つに」することを目的としていたという。
 高度経済成長期の豊臣秀吉像は、ナポレオンに比肩する武人という戦前のそれとは対照的に、経済人の相貌を色濃く帯びていった。そのイメージは、今も健在と言えよう。

秀吉は人たらしだったのか?

 勤王家豊臣秀吉。大陸進出の英雄、豊臣秀吉。これらの豊臣秀吉像は、敗戦と共に雲散霧消した。残ったのは、江戸時代以来の「人たらし」の秀吉である。山路愛山は、秀吉は「一たび触接したる人に何とやらん離れがたき感情を起こさしめ生涯これを味方にする」ことができたと評し、秀吉の「英雄を引着する魔術」を賞賛する。この点では、織田信長は秀吉に遠く及ばないと論じる。
 徳富蘇峰も「信長は、敵を退治するの道に通じた。秀吉は、敵を味方とするの道を解した。信長は人を畏服せしめた。秀吉は人を悦服せしめた」と説き、秀吉の人心掌握術を「催眠術」と評する。秀吉が裸一貫から天下を取れたのは、彼が「人間学の大博士」であったことに負うところが大きいと、蘇峰は示唆する。
 こうした「人たらし」としての豊臣秀吉像は、戦後の秀吉作品(小説・映像作品など)にも引き継がれ、世間に広く定着した。だが実のところ、秀吉の「人たらし」エピソードのほとんどは後世の創作であり、本当に秀吉が人間的魅力にあふれた人物だったかは分からない。
 まず、蜂須賀小六が野盗の親分という話は『甫庵太閤記』の創作である。そして矢矧やはぎ川の出逢であいは『絵本太閤記』の創作である。当時の矢矧川には橋が架かっていなかったので、小六が少年時代の秀吉に橋のたもとで遭遇することはできない、と戦前に渡辺世祐が指摘している。したがって、幼少の日吉丸が、その才気によって一癖も二癖もある野盗の親玉を感服させたという事実もない。そもそも秀吉の勧誘で織田家に仕えたかも定かではない。
 加えて、隠棲いんせいしていた名軍師・竹中たけなか半兵衛はんべえの屋敷を木下藤吉郎が訪れて出廬しゆつろを乞うたという話も『絵本太閤記』の創作である。おそらく、『三国志』の三顧の礼を意識したものだろう。ちなみに『絵本太閤記』によれば、この時、半兵衛は藤吉郎に「信長へ降り計策を献ずるにあらず。汝を教導せん」と語ったというが、半兵衛が秀吉の家臣になったかどうかも疑わしい。現在の歴史学界では、半兵衛は織田信長の直臣になり、信長の命を受けて秀吉の与力になったと考えられている。
 美濃みの斎藤さいとう氏の重臣である稲葉いなば良通よしみち一鉄いつてつ)・安藤あんどう守就もりなり氏家うじいえ直元なおもとの三人(美濃三人衆)を木下藤吉郎が調略したという話も、『絵本太閤記』の創作である。太田おおた牛一ぎゆういちの『信長公記しんちようこうき』は、三人衆の側から信長に臣従を申し入れたと記している。
 徳富蘇峰は、「秀吉はただちに我が赤心をもつて、他の赤心に触れたのだ。かくのごとくして海千、山千、天下無双の食えぬ代物たる家康さえも、遂に随喜せざるを得なかった」と語る。徳川家康を籠絡したというのは、臣従のために上洛した家康との秘密会談を指すのだろう。家康の大坂城登城の前夜、家康が宿泊する豊臣秀長ひでなが邸に、前触れもなく豊臣秀吉が訪れ、両者は私的に会見した。この時、秀吉は「明日の会見では、なるべく慇懃いんぎんに礼儀をなしてほしい。あなたが私を敬ってくれれば、諸大名も私に心服するだろう」と頼み、家康は了承したという。蘇峰は「かくまで思い切って、打ち明け話を持ちかけられては、流石さすがの家康も、首を横にふるわけには参るまい」と、その「人たらし」の見事さを讃えている。司馬遼󠄁太郎の『新史太閤記』も、前夜の密会と当日の謁見で掉尾ちようびを飾っている。
 正式な会見の前夜に豊臣秀吉が徳川家康を訪問したことは事実だが(『家忠いえただ日記』)、両者の密談の内容など、第三者に分かるはずもない。翌日の謁見の打ち合せを行ったという挿話は、江戸初期に成立した『三河後風土記』(徳川家康とその家臣団の事跡を記した歴史書)に見える。この話はもともと、秀吉が家康に一目置いていた、特別扱いしていた、と喧伝けんでんするために創作されたものと思われる。しかし近代になると、「奥もなく底もなく赤裸々の心事を打ち明け、いやの成らぬ様にする」(山路愛山)といった、秀吉の人心収攬しゆうらん術を示す逸話として読み替えられていった。
 現実の豊臣秀吉が人情の機微に通じていたことを示す、確たる史料はない。たたき上げの人間が弱者に冷淡であることは珍しくない。江戸時代、秀吉が「庶民のヒーロー」として美化される過程で、様々な伝説が作られたにすぎないのだ。秀吉は織田家臣時代の中国攻めで別所べつしよ長治ながはる小寺こでら政職まさもとらの離反を招いており、むしろ人望が薄かった可能性すらある。
 豊臣秀吉が真心をぶつけることによって敵を味方にしたという事例は、信頼できる史料によって裏付けられない。頼山陽が『日本外史』で喝破したように、秀吉の調略は基本的に利益で釣るものであった。日本統一によって武士たちに新たに与える土地がなくなり、新領土獲得のために外征したという江戸時代以来の古典的見解は、あながち外れていないのではないか。
 山田やまだ風太郎ふうたろうの怪作『妖説太閤記』(一九六七年)は、「人たらし」の明るい豊臣秀吉像を反転させ、サイコパス的な秀吉像を提示している。秀吉の人当たりの良さは全て計算された演技であるという解釈をとり、己の欲望のために権謀術数を駆使する様が描かれる。山田風太郎は、晩年に耄碌して醜悪になったという通俗的なイメージを拒否し、元から邪悪だったという『徳川実紀』的な設定を用いたのである。さすがに筆者は、明智あけち光秀みつひでの謀反を秀吉が仕組んだとは思わないが、案外、秀吉の実像を捉えているかもしれない。

(第五章へつづく)


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