
忠臣/奸臣論が見落としてきたもの 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」
呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第三節 戦前・戦後の石田三成像
戦前の歴史小説における石田三成
徳富蘇峰の『近世日本国民史』における石田三成論を受けて、昭和期には石田三成を主人公とする多くの歴史小説が生まれた。代表的なものとしては、
さて、直木三十五と鷲尾雨工は、七将の襲撃を受けた石田三成が徳川家康に保護を求めるという奇策を用いた様を描いている。尾崎士郎も、襲撃事件を直接は描いていないが、『雲悠々』で敗軍の将として捕らえられた三成に対し、家康が「その方、過ぐる年、亡き太閤の恩に感ずる七人の将に追われて、予が屋敷へ逃げ込み命を乞うたことを覚えているか?」と尋ねる場面を作っている。
先に触れた通り、江戸時代の諸書にはこの話は見えない。徳富蘇峰が『近世日本国民史』で
しかし、彼らは徳富蘇峰の石田三成野心家説は採用していない。彼らが描いたのは、江戸時代以来の「忠臣」三成である。
直木三十五は作中で石田三成にこう語らせている。「太閤の恩に報いる事も、――あまりに、大名共は恩を知らなすぎる。もし知っているとしたなら、この上無しの意気地なしだ。武を
直木三十五は「石田三成」という随筆も執筆している。三成を好きな歴史上の人物として挙げ、その理由として、破格の高禄をもって島左近を抱えたこと、大谷吉継・
さらに、佐和山城が荒壁のままであったことを指摘し、「一銭をも己のために費やさず」豊臣家にひたすら尽くした石田三成の忠義を
直木三十五は、徳川家康になびいた加藤清正を批判し、「こんな人物が、忠臣だなんぞと、一般化されているから、世の中の甘さは度が知れない」と憤慨する。清正と対照する形で石田三成の忠義を賞賛しているのである。この点、「加藤清正と、石田三成とが、豊臣氏の忠臣としての優劣論のごときは、おそらくは一種の水掛け論にすぎまい」と述べる徳富蘇峰とは意見を異にする。
鷲尾雨工の『関ケ原』も同様である。武士も民衆も徳川の天下を望んでいると大谷吉継が諫めると、石田三成は「この三成だけは、お身が何と説こうと、そしてたとい天下のすべての人間が、徳川の天下を喜ぼうともじゃ、秀頼公の滅亡を見てはおれんぞ」と語る。勝算を度外視して豊臣家のために命を投げだそうというのである。吉継は「この豊臣の純臣を、自分は見殺しにしてよかろうか?」と思い、挙兵に同意する。三成が「豊臣氏に対して、純忠の臣であったか、否かは、すこぶる疑わしくある」と述べた徳富蘇峰とは対照的だ。やはり小説である以上、三成を「豊臣の忠臣」として人物造形し、読者の共感を集める必要があるということだろう。
尾崎士郎の『石田三成』は家康私婚問題で幕を閉じており、唐突な印象を受ける。これは、尾崎が従軍作家として召集されたことが影響しているようだ。同『篝火』はいわば続篇で、慶長五年(一六〇〇)九月十五日に勃発した関ヶ原合戦の直前から筆を起こし、関ヶ原での西軍壊滅までを描いている。『雲悠々』は三成の敗走、捕縛、処刑を描く。三作とも三成の忠義を殊更に強調してはいないが、三成を「豊臣の忠臣」として位置づけていることは明白である。
戦時下の石田三成顕彰
昭和十六年(一九四一)十月、石田三成の郷里である滋賀県
除幕式の列席者の一人である文部参与官の
池崎忠孝は言う。「我が国の武人は名と大節に生きる。――それが今いう武士道であります。もし一人の石田三成がおらず、したがって関原の役が起こっていなかったならば……(中略)……日本国中一人の義士なきかといって
さらに彼は、石田三成が「文官風の軟弱漢」で非常時には役に立たないという見方を、誤解であると退けている。「彼といえども弓矢の家に生まれ、しかも元亀・天正の空気を吸って大きくなった人間」であり、「攻城野戦の方面における三成の功績」も決して少なくなかったと主張する。関ヶ原合戦でも黒田長政隊に対し奮戦したと述べる。『武家事紀』から『近世日本国民史』に至るまで一貫して提示されてきた三成文官像の否定も、軍国主義の風潮に呼応したものであろう。
池崎忠孝は、石田三成は傲慢であるとの批判に対し「何人にも欠点というものはある。三成ほどの抜群な長所をもっている人間であれば、もちろん短所もそれ相応にあったに相違ない。殊に、天才肌の人間になればなるほど、およそ謙遜という美徳からは離れがちなものです。遠い昔の人々を並び立てるまでもなく、近い例がヒトラーやムッソリーニなどはどうでありますか。誰も彼らを指して謙遜な人物だとは言わないでしょう」と擁護している。当時の日本ではヒトラーやムッソリーニが英雄視されていたことがうかがわれる。もっとも池崎は、現在の人物に
司馬遼󠄁太郎の『関ケ原』
戦後も石田三成の評価は大きく変わらなかった。戦時中のように、三成を武人として無理矢理持ち上げることはなくなったという程度である。
昭和三十六年(一九六一)、歴史学者の
これはあながち謙遜ではなく、実際、今井林太郎の『石田三成』は、『稿本 石田三成』で示された三成像をなぞっているように思える。渡辺世祐と同様に、三成に否定的な逸話は排除しているものの好意的な逸話は採用しているからである。
昭和三十九年から四十一年にかけて「週刊サンケイ」で連載されたのが、司馬遼󠄁太郎の『関ケ原』である。既に見てきたように、戦前から多くの作家が「豊臣の忠臣」石田三成を主人公とした歴史小説を執筆している。忠臣三成像は決して司馬の独創ではない。
むしろ司馬遼󠄁太郎の『関ケ原』の特徴は、石田三成の性格的欠陥を強調している点にある。むろん多くの史家が三成の
ところが、司馬遼󠄁太郎はあえて石田三成の性格の難を赤裸々に暴くことで、かえって三成の人間味を出すことに成功している。作中、三成の問題点は主に島左近によって指摘される。左近は「殿のように豊家の恩だけで天下がうごくとおもわれるのはあまい」と諫め、「(殿は)人間に期待しすぎるようですな。武家はこうあるべし、大名はこうあるべし、恩を受けた者はこうあるべし、などと期待するところが手きびしい」とたしなめる。司馬は左近を通して、三成の過剰な正義感と理想主義を再三指摘し、清濁併せ
実のところ、石田三成が徹頭徹尾、豊臣家への忠義の念で動いていたかどうかは疑わしい。山路愛山や徳富蘇峰が説くように、三成にも野心があったと見るのが自然であろう。けれども、三成を主人公にした歴史小説を書くという観点に立てば、理想主義と現実主義との争いという司馬遼󠄁太郎が示した構図が〝正解〟なのだろう。
石田三成の意外な側面
ところで、石田三成の実像は「奸臣」だったのだろうか、それとも「忠臣」だったのだろうか。既述の通り、三成が讒言によって人を陥れたという事実は同時代史料からは確認できず、後世の創作と考えられる。しかし逆に、秀吉存命中の三成が「忠臣」だったかどうかも判然としない。晩年の秀吉には秀次事件など悪政が目立つ。もし、三成が秀吉に忠言せず、主君に迎合していただけだとしたら、本当の意味での忠臣とは言えないだろう。けれども、秀吉の暴政を三成がどう受け止めていたかを示す史料はほとんどない。
唯一の例外は、慶長元年(一五九六)十二月の二十六聖人殉教事件であろう。豊臣秀吉は、スペイン系のカトリック布教団体であるフランシスコ会がバテレン追放令を軽視して活発に布教を行っていることを問題視し、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリシタン(キリスト教徒)全員を捕縛して死刑にするよう命じた。
キリシタンの名簿を作成する任に当たったのは
歴史学者の
石田三成は豊臣秀吉の命令に唯々諾々と従うのではなく、時に
(第六章へつづく)