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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.15

忠臣/奸臣論が見落としてきたもの 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第三節 戦前・戦後の石田三成像

戦前の歴史小説における石田三成

 徳富蘇峰の『近世日本国民史』における石田三成論を受けて、昭和期には石田三成を主人公とする多くの歴史小説が生まれた。代表的なものとしては、直木なおき三十五さんじゆうご『関ケ原』(一九三一年)、鷲尾わしお雨工うこう『関ケ原 序篇』(一九三八年)、同『関ケ原 本篇』(一九三九年)、尾崎おざき士郎しろう『石田三成』(一九三八年)、同『篝火かがりび』(一九三九~四一年連載)、同『雲悠々』(一九四四~四五年連載)などが挙げられる。いずれの作家も、豊臣秀吉の晩年から書き始めている。
 さて、直木三十五と鷲尾雨工は、七将の襲撃を受けた石田三成が徳川家康に保護を求めるという奇策を用いた様を描いている。尾崎士郎も、襲撃事件を直接は描いていないが、『雲悠々』で敗軍の将として捕らえられた三成に対し、家康が「その方、過ぐる年、亡き太閤の恩に感ずる七人の将に追われて、予が屋敷へ逃げ込み命を乞うたことを覚えているか?」と尋ねる場面を作っている。
 先に触れた通り、江戸時代の諸書にはこの話は見えない。徳富蘇峰が『近世日本国民史』で佐竹さたけ義宣よしのぶが三成を護衛して伏見ふしみに行き、家康に託したと叙述したのが最初である。蘇峰は「彼(三成)は実に死中に活を求めたのだ。彼は家康が容易に彼を殺さぬことを知っていたゆえに、家康に投じたのだった」と解説している。直木・鷲尾・尾崎はこの説を踏襲しており、『近世日本国民史』の影響力の大きさを感じさせる。
 しかし、彼らは徳富蘇峰の石田三成野心家説は採用していない。彼らが描いたのは、江戸時代以来の「忠臣」三成である。
 直木三十五は作中で石田三成にこう語らせている。「太閤の恩に報いる事も、――あまりに、大名共は恩を知らなすぎる。もし知っているとしたなら、この上無しの意気地なしだ。武をもつて立つ、彼奴きやつらが、男らしいか、算筆の人間の、自分が、武士らしいか、これを世の中へ示す事だけでも愉快だ」と。大谷吉継から挙兵の無謀を諫められると、三成は「事の成否を、わしは今考えていぬ。ただ一死、故殿下に報おうと、それだけじゃ」と語り、決意の固さを示す。
 直木三十五は「石田三成」という随筆も執筆している。三成を好きな歴史上の人物として挙げ、その理由として、破格の高禄をもって島左近を抱えたこと、大谷吉継・真田さなだ昌幸まさゆき・直江兼続ら傑物と行動を共にしていることを述べる。この二事から三成の器量の大きさが分かる、というのだ。加えて、小大名でありながら毛利・宇喜多・島津らの大名を糾合して徳川家康に対抗したのだから、三成は「家康を除くと、天下第一の人物だった」と論じる。「凡庸の人物の下にこれだけの人がつく理由はない」という〝好敵手〟論である。
 さらに、佐和山城が荒壁のままであったことを指摘し、「一銭をも己のために費やさず」豊臣家にひたすら尽くした石田三成の忠義をたたえる。佐和山城が質素だったという逸話は、平戸ひらど藩主松浦まつら静山せいざんの随筆集『かつ』(一八二一~四一年)の正編巻四十四に見える。ただし江戸時代なので、静山は「三成は天下を狙っており、佐和山城を仮の住まいと考えていたからだろう」と解釈している。これに対し直木は、三成が私利私欲に走らず清廉潔白だった証拠とみなしたのである。
 直木三十五は、徳川家康になびいた加藤清正を批判し、「こんな人物が、忠臣だなんぞと、一般化されているから、世の中の甘さは度が知れない」と憤慨する。清正と対照する形で石田三成の忠義を賞賛しているのである。この点、「加藤清正と、石田三成とが、豊臣氏の忠臣としての優劣論のごときは、おそらくは一種の水掛け論にすぎまい」と述べる徳富蘇峰とは意見を異にする。
 鷲尾雨工の『関ケ原』も同様である。武士も民衆も徳川の天下を望んでいると大谷吉継が諫めると、石田三成は「この三成だけは、お身が何と説こうと、そしてたとい天下のすべての人間が、徳川の天下を喜ぼうともじゃ、秀頼公の滅亡を見てはおれんぞ」と語る。勝算を度外視して豊臣家のために命を投げだそうというのである。吉継は「この豊臣の純臣を、自分は見殺しにしてよかろうか?」と思い、挙兵に同意する。三成が「豊臣氏に対して、純忠の臣であったか、否かは、すこぶる疑わしくある」と述べた徳富蘇峰とは対照的だ。やはり小説である以上、三成を「豊臣の忠臣」として人物造形し、読者の共感を集める必要があるということだろう。
 尾崎士郎の『石田三成』は家康私婚問題で幕を閉じており、唐突な印象を受ける。これは、尾崎が従軍作家として召集されたことが影響しているようだ。同『篝火』はいわば続篇で、慶長五年(一六〇〇)九月十五日に勃発した関ヶ原合戦の直前から筆を起こし、関ヶ原での西軍壊滅までを描いている。『雲悠々』は三成の敗走、捕縛、処刑を描く。三作とも三成の忠義を殊更に強調してはいないが、三成を「豊臣の忠臣」として位置づけていることは明白である。

戦時下の石田三成顕彰

 昭和十六年(一九四一)十月、石田三成の郷里である滋賀県坂田さかた北郷里きたごうり村大字石田(現在の滋賀県長浜市石田町)において、「石田三成公事蹟顕彰会」が結成された。翌十一月六日(三成の命日)、「石田治部少輔出生地」と刻まれた巨大な顕彰碑の除幕式が行われている。除幕式には、文部大臣代理や滋賀県知事、作家の吉川よしかわ英治えいじらが参列した。石碑裏面の碑文には「三成が旧恩をおもうこと深く、主家に報ゆるに勇なりしのみならず、為政者としてもまた高邁こうまいなる識見を有し、治績大いに見るべきものあり」との一節が見える(文章は渡辺世祐によるもの)。
 除幕式の列席者の一人である文部参与官の池崎いけざき忠孝ただたかは、その前日に、石田三成公事蹟顕彰会の依頼を受けて大津おおつ市で石田三成に関する講演を行っている。池崎がこの講演記録を基に加筆訂正して翌年に発表した本が、『概説 石田三成』である。池崎は序文で、渡辺世祐の『稿本 石田三成』が三成の名誉回復を行った功績を多としつつ、問題点も指摘する。『稿本 石田三成』は三成が「奸臣」でないことを明らかにするという「消極的な方面」に力を注いだため、「武人の大節に生死し、以て日本精神史の上に一個の光彩を点じた人物」であるという積極的な評価が不十分であると説くのだ。
 池崎忠孝は言う。「我が国の武人は名と大節に生きる。――それが今いう武士道であります。もし一人の石田三成がおらず、したがって関原の役が起こっていなかったならば……(中略)……日本国中一人の義士なきかといって嗟嘆さたんしなければならないわけであった。幸いに一人の三成があったため、それでやっと気のついた武士もあり、西国の大小名三十余人が、ともかくも日本武士道のために、大いに気を吐くことができたのであります」と。三成の挙兵は、日本精神史の上でまことに喜ぶべきことだという。この大仰な表現は、時局を強く意識したものと言えるだろう。
 さらに彼は、石田三成が「文官風の軟弱漢」で非常時には役に立たないという見方を、誤解であると退けている。「彼といえども弓矢の家に生まれ、しかも元亀・天正の空気を吸って大きくなった人間」であり、「攻城野戦の方面における三成の功績」も決して少なくなかったと主張する。関ヶ原合戦でも黒田長政隊に対し奮戦したと述べる。『武家事紀』から『近世日本国民史』に至るまで一貫して提示されてきた三成文官像の否定も、軍国主義の風潮に呼応したものであろう。
 池崎忠孝は、石田三成は傲慢であるとの批判に対し「何人にも欠点というものはある。三成ほどの抜群な長所をもっている人間であれば、もちろん短所もそれ相応にあったに相違ない。殊に、天才肌の人間になればなるほど、およそ謙遜という美徳からは離れがちなものです。遠い昔の人々を並び立てるまでもなく、近い例がヒトラーやムッソリーニなどはどうでありますか。誰も彼らを指して謙遜な人物だとは言わないでしょう」と擁護している。当時の日本ではヒトラーやムッソリーニが英雄視されていたことがうかがわれる。もっとも池崎は、現在の人物にたとえるなら、三成はイギリスのウィストン・チャーチルだろうとも語っている。この時期はまだ、反英感情はさほど強くなかったのだろう。

司馬遼󠄁太郎の『関ケ原』

 戦後も石田三成の評価は大きく変わらなかった。戦時中のように、三成を武人として無理矢理持ち上げることはなくなったという程度である。
 昭和三十六年(一九六一)、歴史学者の今井いまい林太郎りんたろうが伝記『石田三成』を執筆している。今井は「はしがき」で、江戸時代に三成が不当に貶められたことを指摘する。そして「三成のゆがめられた評価に対して、正確な史料をあさり、正しい三成の人物像を描くことに努められたものに、渡辺世祐博士の『稿本石田三成』がある……(中略)……今日まで三成のまとまった伝記としては、唯一のものである。この小著も渡辺博士の著書に負うところが多く、ここに記して謝意を表したい」と述べている。
 これはあながち謙遜ではなく、実際、今井林太郎の『石田三成』は、『稿本 石田三成』で示された三成像をなぞっているように思える。渡辺世祐と同様に、三成に否定的な逸話は排除しているものの好意的な逸話は採用しているからである。
 昭和三十九年から四十一年にかけて「週刊サンケイ」で連載されたのが、司馬遼󠄁太郎の『関ケ原』である。既に見てきたように、戦前から多くの作家が「豊臣の忠臣」石田三成を主人公とした歴史小説を執筆している。忠臣三成像は決して司馬の独創ではない。
 むしろ司馬遼󠄁太郎の『関ケ原』の特徴は、石田三成の性格的欠陥を強調している点にある。むろん多くの史家が三成の狷介けんかいを指摘してきた。しかし、三成を主人公とした歴史小説には、そうした描写は従来あまり見られなかった。三成を正義と位置づける以上、彼の欠点に触れることをなるべく避けた方が良いと判断したのだろう。
 ところが、司馬遼󠄁太郎はあえて石田三成の性格の難を赤裸々に暴くことで、かえって三成の人間味を出すことに成功している。作中、三成の問題点は主に島左近によって指摘される。左近は「殿のように豊家の恩だけで天下がうごくとおもわれるのはあまい」と諫め、「(殿は)人間に期待しすぎるようですな。武家はこうあるべし、大名はこうあるべし、恩を受けた者はこうあるべし、などと期待するところが手きびしい」とたしなめる。司馬は左近を通して、三成の過剰な正義感と理想主義を再三指摘し、清濁併せみ容易に本心を明かさぬ老獪ろうかいな徳川家康との対比を際立たせている。それと同時に、家臣の左近に直言を許す三成の度量の大きさも描いている。
 実のところ、石田三成が徹頭徹尾、豊臣家への忠義の念で動いていたかどうかは疑わしい。山路愛山や徳富蘇峰が説くように、三成にも野心があったと見るのが自然であろう。けれども、三成を主人公にした歴史小説を書くという観点に立てば、理想主義と現実主義との争いという司馬遼󠄁太郎が示した構図が〝正解〟なのだろう。

石田三成の意外な側面

 ところで、石田三成の実像は「奸臣」だったのだろうか、それとも「忠臣」だったのだろうか。既述の通り、三成が讒言によって人を陥れたという事実は同時代史料からは確認できず、後世の創作と考えられる。しかし逆に、秀吉存命中の三成が「忠臣」だったかどうかも判然としない。晩年の秀吉には秀次事件など悪政が目立つ。もし、三成が秀吉に忠言せず、主君に迎合していただけだとしたら、本当の意味での忠臣とは言えないだろう。けれども、秀吉の暴政を三成がどう受け止めていたかを示す史料はほとんどない。
 唯一の例外は、慶長元年(一五九六)十二月の二十六聖人殉教事件であろう。豊臣秀吉は、スペイン系のカトリック布教団体であるフランシスコ会がバテレン追放令を軽視して活発に布教を行っていることを問題視し、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリシタン(キリスト教徒)全員を捕縛して死刑にするよう命じた。
 キリシタンの名簿を作成する任に当たったのは長谷川はせがわ守知もりともだが、長谷川は馬鹿正直にキリシタンを網羅した名簿を作ろうとした。三成は長谷川を𠮟責し、名簿に載る人間の数を最小限にとどめた。ポルトガル系の布教団体であるイエズス会になるべく累が及ばないよう努力もしている。また、死刑から追放刑への減刑を秀吉に働きかけている。結果的に、フランシスコ会の宣教師・信徒計二十一人、日本人イエズス会士三人、道中で加わった信徒二人の計二十六人が、各地を引き回された後、長崎の浦上うらかみで殺された。
 歴史学者のたに徹也てつや氏は、「三成には秀吉の怒りを和らげようと弁明を引き受けつつ、現場において穏便な解決の道を探る一面もあった」が、関ヶ原合戦後は往時の権勢の大きさもあって、そうした姿は忘れ去られ、秀吉の命令に従って厳罰を行う酷吏の印象が増幅され、様々な陰謀の主体であったという憶測を呼ぶことになった、と指摘している。
 石田三成は豊臣秀吉の命令に唯々諾々と従うのではなく、時に諫言かんげんすることもあった。こうした側面は、奸臣論においても、忠臣論においても見落とされてきたように思われる。今後、三成のイメージが更新されていくことに期待したい。

(第六章へつづく)


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