
儒教的忠臣論と帝国主義的野心家論 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」
呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第二節 明治・大正の石田三成像
「徳川史観」からの脱却
石田三成への評価は、明治維新によって一変する。江戸幕府が滅びたことで、徳川家康に刃向かった三成を公然と賞賛することができるようになったのである。
明治二十三年(一八九〇)、『史学会雑誌』第二号に
小倉秀貫は、これまでの石田三成論は三成の欠点ばかりを言挙げし、美点を無視しているので公平でない、と批判する。小倉は「名望権威の
にもかかわらず、諸書が石田三成の悪いところばかりを取りあげたのは、それらの書が「徳川時代に
明治二十六年に参謀本部によって刊行された『日本戦史 関原役』も重要である。石田三成と加藤清正・福島正則・浅野幸長らとの衝突は、行政事務に長じ
明治三十三年には、関ヶ原合戦三百周年を記念して関ヶ原で戦没者を供養する法要が営まれた。この時に石田三成の肖像画が祭壇に掲げられた。現在、
明治三十五年には
さて、本連載ではおなじみであるが、明治四十年に言論雑誌「日本及日本人」四七一号が「余の好める及び好まざる史的人物」という特集を組み、アンケート調査をしている。石田三成は「好める」で七票、「好まざる」で二票を獲得しており、江戸時代と比べると評価が逆転している。
好む理由としては、「天下の諸侯を連衡して、鹿を中原に争う。事の破れたるは戦の罪にあらず」(
第二章で引いた、明治四十四年刊行の近藤羗村・物集梧水編『東西修養逸話』に、石田三成も登場する。「関ヶ原の戦は日本
渡辺世祐と山路愛山の石田三成論
少し時を戻して、明治四十年(一九〇七)に刊行された『稿本 石田三成』を見てみよう。
本書の特徴として、同時代史料によって江戸時代の俗書の記述を否定する実証的態度が挙げられる。渡辺世祐は、豊臣秀次事件が石田三成の讒言に端を発するという記述は『伊達
加えて同書は、三成が秀吉存命中から天下取りの野望を持っていたという江戸時代の俗説に対し、三成ほどの智謀の士がそのような現実的でない野心を持つはずがないと一蹴している。三成は「家康を除かざれば、豊臣氏安穏なること
渡辺世祐は石田三成の忠義を賞賛する。「三成は佐和山にありと
渡辺世祐の主張は、現在の歴史学から見てもおおむね首肯し得るものである。しかし、「三杯の茶」や干し柿を「痰の毒」として断った話など、石田三成に好意的な逸話はそのまま採用している。三成に否定的な逸話は後世の創作として排除しているのに、好意的な逸話は創作の可能性があっても採用している点は、バランスを欠くと言わざるを得ない。三成の名誉回復を目的とした本なので、実証的な態度を貫けなかったのだろう。
ただし、同書は石田三成賛美一辺倒ではない。己の才能を
続いて、本連載でたびたび紹介した
山路愛山は、石田三成に対する残忍、陰険との評言に対し、「清廉潔白だった」と反論するのではなく、「残忍、陰険はその頃の人情なり」と擁護する。明智光秀に対してもそうだったが、愛山は謀略渦巻く戦国乱世を生きた人物を儒教的倫理観で断罪することに否定的である。蒲生氏郷の毒殺は虚伝だろうが、氏郷死後に蒲生家を転封し、会津に上杉景勝を移したのは三成の仕業である、と愛山は見る。しかし、それは「徳川家の羽翼を
また、秀次事件の黒幕も石田三成であると説く。だが「関白秀次を殺したるは、秀頼が生まれたる以上は、豊臣家二流に分かれては天下の統一を保ち難しとしたるがためなり」と擁護する。三成は確かに陰謀家であったが、そうした策謀を用いた目的は「事権を太閤に集中して天下の泰平を期せんとするに
とはいえ山路愛山は、石田三成挙兵の動機が豊臣家への忠義だけとは考えていない。徳川家を滅ぼして天下を差配したいという野心もあったと推測する。この点で愛山は、渡辺世祐よりも客観的に三成を評価していると言えよう。
三上参次と福本日南の石田三成論
先述の通り、『稿本 石田三成』には歴史学者の三上参次が序文を寄せている。三上は、石田三成への高評価が徳川家康への低評価につながってはならないと警鐘を鳴らす。「三成を賞揚すると同時に、これに対して優勝者の地位にある家康は、その声価依然として高きを見るべし」と説く。
加えて、三上参次は石田三成の忠義を「武士道の精髄」と賞賛しつつも、三成は徳川家康の挑発に乗って「未曽有の大戦」を起こし、結果として家康の天下取りに貢献してしまったと指摘している。三上によれば、石田三成と
この評価に猛然と反論したのが、「九州日報」の主筆兼社長として活躍していたジャーナリスト・史論家の
福本日南は言う。豊臣秀吉の遺言に背き、秀吉との約束を破って天下を奪った「姦賊」の徳川家康と、豊臣家への忠義を貫いた「烈士」の石田三成を比較して、両者に高低なしと唱える歴史家は正義の観念を有していない、と。「もし世に正義の観念を欠如するの史家あらば、これ日本国人の風上にも置くべからざるところの者なり」と日南は論じる。
石田三成が徳川家康の挑発に乗って挙兵したせいで、かえって豊臣氏の立場を一層悪くしたという三上参次の指摘に対しては、福本日南は「無知・無識・無眼・無覚」と罵倒する。日南は言う。豊臣秀吉が死ぬや否や、早くも諸大名は徳川家康になびきつつあった。この状況を座視していれば、十年を待たずして家康が天下を掌握しただろう。これを阻止するには、多少なりとも諸大名に秀吉への義理の気持ちが残っている間に挙兵するしかなかった。実際、三成は西軍を組織し、家康と互角に渡り合える態勢を整えたではないか。小早川秀秋の裏切りさえなければ、勝敗は逆転していたはずだ、と。三上の見解は「時務を知らざる儒生・俗士の見」にすぎない、と日南は切り捨てている。世間知らずの学者の空論、といったところか。筆者も作家などから同じような批判を受けているので、妙な親近感がわく。
後者の反論はともかく、前者、石田三成は忠臣だから徳川家康よりもずっと立派な人物であるという福本日南の反論は、明らかに儒教的倫理観に基づくもので、いささか古くさく感じられる。前述の山路愛山、後述の
大森金五郎の挙兵正当論
石田三成の挙兵を正しい判断と評価した人物は福本日南だけではなく、アカデミズムの世界にもいた。学習院大学教授などを務めた歴史学者の
なぜ大森金五郎がペンネームを用いたのか不明だが、徳川家康が江戸幕府を開いた結果、「二百六十余年の太平を来たし、文物典章から百工技芸の発達を促進したことは、実に国家の幸福であったというべきである」と書いたくだりが、世論を刺激すると思ったのかもしれない。
関ヶ原合戦が「大坂にとって非常なる不利益を及ぼした」と唱え、石田三成を責める意見に対して、大森金五郎は反論している。大森によれば、豊臣秀吉死後、豊臣家の家臣たちの考えは三つに分かれたという。第一は、早く徳川家康を亡き者にするのが得策であるという早決策派で、石田三成・
また大森は、第二・第三の人々は、仮に徳川の天下になっても止むを得ない、豊臣家が残れば良いと考えていた、と説く。これは穏当な考えに見え、彼らの方が石田三成たちより「思慮ある分別者」に思われたが、「大坂の役後の処置によって裏切られた」という。徳川家康には豊臣家の存続を許す気がなかった。徳川家に天下を譲り豊臣家を存続させるという策は最初から成り立たなかったのであり、であるならば「石田三成らがとった早決策は、むしろ先見の明があった」ということになる。
大森金五郎の所論は、福本日南のそれと基本的に同じである。座して滅亡を待つくらいなら、戦うべきだ、という主張だ。これは、徳川家康が悪辣な陰謀家であるという理解を前提にしている。この家康像の妥当性については、本連載の後の章で論じるので今は
リアリスト徳富蘇峰の「野望説」
徳富蘇峰も石田三成論を展開している。大正十二年(一九二三)正月に『近世日本国民史 家康時代上巻 関原役』が刊行された。
本人が自ら語っているように、この書の戦闘経過については参謀本部『日本戦史 関原役』に多くを負っている。実のところ、戦闘経過だけでなく政治過程についても同書をかなり参照している。拙著『陰謀の日本中世史』でも触れたが、七将襲撃事件の際に石田三成が徳川家康に助けを求めたという説は、蘇峰が『日本戦史 関原役』(あるいは渡辺世祐『稿本 石田三成』)を誤読したことが発端になっている。
徳富蘇峰の石田三成への評価を最も
家康と真に雌雄を決せんと大賭博を打ったのは、ただ石田三成だ。石田三成は、決して家康の敵ではない。この両人は横綱と前頭との立合で、到底互角の相撲になるべきでなかった。三成にして真に家康の相手とならんと欲せば、その準備が必要であった。
一読して分かるように、この石田三成論は、江戸時代の〝好敵手〟イメージを全面展開したものである。司馬遼󠄁太郎『関ケ原』の石田三成像の源泉が本書にあることは、容易に了解されよう。
一方、徳富蘇峰は石田三成忠臣論には懐疑的である。蘇峰は「先代の時に、威福をたくましゅうしたる使用人が、次代になりて、惨めなる状態に陥るは、世間普通の事だ」と述べ、秀吉死後に一大活躍をしなければ三成は自ら死地に陥るのは必然であると説く。すなわち、「関原役は、石田にとりては、積極的の自己防御というが適当だ」というのだ。
徳富蘇峰は言う。「彼は決して豊臣氏の忠臣というべきものではなかった」と。関ヶ原合戦で石田三成が勝利したとしても、豊臣秀頼が天下人になれたかどうかは怪しいと語り、「徳川方が勝つも、石田方が勝つも、その結果は五十歩、百歩」と突き放す。それは、「
山路愛山と同様に、徳富蘇峰は弱肉強食の帝国主義を肯定するリアリストであり、忠不忠という儒教的価値観とは距離を置いていた。蘇峰が石田三成を評価したのは、彼が忠臣だからではなく、強大な敵に立ち向かったからである。今まで見てきた通り、これは蘇峰に限ったことではなく、明治末期以降の三成論では家康の〝好敵手〟という評価が目立つ。この辺り、日清・日露の両戦役で小国の日本が大国の清・ロシアを打ち破ったことを念頭に置いての評価かもしれない。
(つづく)