menu
menu

連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.14

儒教的忠臣論と帝国主義的野心家論 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第二節 明治・大正の石田三成像

「徳川史観」からの脱却

 石田三成への評価は、明治維新によって一変する。江戸幕府が滅びたことで、徳川家康に刃向かった三成を公然と賞賛することができるようになったのである。
 明治二十三年(一八九〇)、『史学会雑誌』第二号に小倉おぐら秀貫ひでつらの論考「関原始末 石田三成事績考」が掲載された。当時、明治政府は『六国史』に続く正史を編纂すべく、帝国大学(現在の東京大学)に臨時編年史編纂掛を設置していた。小倉は同編纂掛の編纂員の一人だった。
 小倉秀貫は、これまでの石田三成論は三成の欠点ばかりを言挙げし、美点を無視しているので公平でない、と批判する。小倉は「名望権威の赫灼かくしやくたる家康に向って大事を企て、日本半国の諸侯を糾合して兵を起せしは、決して凡庸の徒にあらず」と説く。家康と互角にわたりあった三成が小人物であるはずはない、という〝好敵手〟論である。
 にもかかわらず、諸書が石田三成の悪いところばかりを取りあげたのは、それらの書が「徳川時代に著撰ちよせんせしもの」だからだと小倉秀貫は指摘する。また、江戸時代の諸書は豊臣秀次・蒲生氏郷・加藤清正らを三成が讒言したと記すが、同時代史料からは確認できないため、後世の創作であると論じている。近代的な実証史学によって「徳川史観」が批判され、三成の名誉回復が図られたのだ。
 明治二十六年に参謀本部によって刊行された『日本戦史 関原役』も重要である。石田三成と加藤清正・福島正則・浅野幸長らとの衝突は、行政事務に長じ淀殿よどどのに接近した三成ら奉行衆と、きたの政所まんどころと親しい清正ら「勲旧諸将」との党派対立に起因すると説いている。佞臣の三成が諸将を讒言したから軋轢あつれきが生じたといった江戸時代の勧善懲悪史観を排し、豊臣政権内部の権力闘争の帰結として関ヶ原合戦を捉えたのである。現在でも良く用いられる「武断派」と「文治派」、北政所派と淀殿派という対立構図の原点は本書にある(ただし、後者の女の争いについては既に『絵本太閤記』に見られる)。ちなみに、北政所と淀殿の確執という通説は近年の研究では否定されている。
 明治三十三年には、関ヶ原合戦三百周年を記念して関ヶ原で戦没者を供養する法要が営まれた。この時に石田三成の肖像画が祭壇に掲げられた。現在、彦根ひこね市の龍潭寺りようたんじが所蔵する上の肖像画は通常非公開だが、写真などを見たことがある人は多いのではないか。頭巾をかぶっている肖像画である。その端整な顔立ちは「奸臣」とは程遠く、「忠臣」イメージを具現化したものに思える。
 明治三十五年には水主すいしゆ増吉ますきちが『せんえんこん 石田三成及其時代之形勢』を発表する。序文によると、友人の小泉こいずみ策太郎さくたろう(明智光秀の伝記を書いた政治家、第一章を参照)から、「三成は千古の好漢、当代の俊髦しゆんぼう」であるにもかかわらず長く世間から誤解されてきたので三成の伝記を書くべきだ、と勧められたのが執筆の動機だという。同書は、「奸臣」と誤解されてきた石田三成を「忠臣」として再評価している。加えて「十万の大軍を引率して、千古の大傑物たる家康に対抗し、古来未曽有の大活劇を演じたる」ようなことを佞臣・小人にできるはずがないと論じており、〝好敵手〟論の影響も見られる。
 さて、本連載ではおなじみであるが、明治四十年に言論雑誌「日本及日本人」四七一号が「余の好める及び好まざる史的人物」という特集を組み、アンケート調査をしている。石田三成は「好める」で七票、「好まざる」で二票を獲得しており、江戸時代と比べると評価が逆転している。
 好む理由としては、「天下の諸侯を連衡して、鹿を中原に争う。事の破れたるは戦の罪にあらず」(前田まえだ曙山しよざん)、「乾坤一擲けんこんいつてきの壮挙を演じて、いささか故主の知遇にむくう。好漢愛すべし」(笹川ささがわ種郎たねお)、「彼が当代無双の家康に対して天下を争うの謀主たる、その智その勇甚だ面白し」(久津見くつみ蕨村けつそん)など、圧倒的な強者である家康に真っ向勝負を挑んだ勇気、構想の壮大さを挙げる者が多い。「末路最も英雄の心事を見る」(花井はない卓蔵たくぞう)のように潔い最期を賞賛する者、「三成が果たして天下を統治する器量ありしや否やは疑問なれども、憎しと思う家康に喧嘩けんかを吹きかけたところ、何とも痛快である」(香川かがわ魁菴かいあん)と判官ほうがん贔屓びいき的に応援する者もいる。嫌いな理由としては、主家である豊臣家を結果的に窮地に陥れたこと(三島みしま中洲ちゆうしゆう)が挙げられている。
 第二章で引いた、明治四十四年刊行の近藤羗村・物集梧水編『東西修養逸話』に、石田三成も登場する。「関ヶ原の戦は日本開闢かいびやく以来唯一なる天下分目の争いなり。石田三成たとい失敗したりとはいえ、大賭博に乗るか反るかの二つに一つ、思うだに男子一生の面目にあらずや」と賞賛し、敗れてなお誇りを失わず堂々と死を迎えた様を活写している。

渡辺世祐と山路愛山の石田三成論

 少し時を戻して、明治四十年(一九〇七)に刊行された『稿本 石田三成』を見てみよう。三井みつい四天王の一人である実業家の朝吹あさぶき英二えいじは、江戸時代に不当に貶められた石田三成の復権のため、石田三成伝の刊行を計画した。朝吹は当初、東京帝国大学文科大学教授の三上みかみ参次さんじに三成伝の執筆を依頼したようだが、三上は多忙だったのか、序文のみを執筆した(本編の校閲も行っている)。本編を執筆したのは、同大学講師の渡辺わたなべ世祐よすけである。ただ短期間の編纂だったため、渡辺は書名に「稿本」と冠し、未定稿とした。
 本書の特徴として、同時代史料によって江戸時代の俗書の記述を否定する実証的態度が挙げられる。渡辺世祐は、豊臣秀次事件が石田三成の讒言に端を発するという記述は『伊達貞山ていざん公治家記録』や『武家事紀』など江戸時代の史料のみに見え、同時代史料からは確認できないことを指摘する。そして、秀次を排除したい豊臣秀吉の意向を受けて三成が秀次の乱行を報告したことはあるかもしれないが、三成が主体的・積極的に陥れたわけではないと説いている。蒲生氏郷を毒殺したという俗説についても、氏郷の病気を診断した医師である曲直瀬まなせ玄朔げんさくの手記『医学天正記』の記述から「毒殺にあらざる事実、明白なるべし」と否定している。直江兼続との事前提携説に対しても批判を加えている。
 加えて同書は、三成が秀吉存命中から天下取りの野望を持っていたという江戸時代の俗説に対し、三成ほどの智謀の士がそのような現実的でない野心を持つはずがないと一蹴している。三成は「家康を除かざれば、豊臣氏安穏なることあたわず」と考えたにすぎないと結論づけた。
 渡辺世祐は石田三成の忠義を賞賛する。「三成は佐和山にありといえども、家康を除き、秀頼を擁護し、太閤の遺命をまつとうせんとの念は瞬時も忘れざりき。是において、苦心惨憺さんたん、画策縦横、同志を糾合し家康と雌雄を一戦に決せんとし、有史以来の大戦闘なる関ヶ原の戦は、かくて開かれたるなり」と記す。三成は「武士道を全う」した忠臣であり、「これ(三成)を奸物と呼び、侫人と唱えしめたるは、全く徳川氏が自家防衛の政略と、天下の衆愚、また、これに和したるとによるなり」と、徳川家康の天下簒奪を正当化するために江戸幕府が石田三成に奸臣の汚名を着せたことを強調する。
 渡辺世祐の主張は、現在の歴史学から見てもおおむね首肯し得るものである。しかし、「三杯の茶」や干し柿を「痰の毒」として断った話など、石田三成に好意的な逸話はそのまま採用している。三成に否定的な逸話は後世の創作として排除しているのに、好意的な逸話は創作の可能性があっても採用している点は、バランスを欠くと言わざるを得ない。三成の名誉回復を目的とした本なので、実証的な態度を貫けなかったのだろう。
 ただし、同書は石田三成賛美一辺倒ではない。己の才能をたのむあまり尊大で他人に対して峻厳しゆんげんであるため、敵を作りやすかったという三成の欠点も指摘している。
 続いて、本連載でたびたび紹介した山路やまじ愛山あいざんの『豊太閤』(一九〇九年)も確認する。愛山も基本的に石田三成に好意的だが、明治になってからの三成絶賛には違和感を持っていたようだ。「人間には判官びいきという弱点あり」と述べ、「石田なども徳川時代にこそうかと褒めたれば謀反人の卵ぐらいににらまれようもしれぬゆえ、物の道理の分かる人も世間のいうままに小人奸物で通したるものの、今日はその反動の必ず来たるべき時代なれば、当節の石田にとっては割のよすぎるものなるやもしれずと我等などは恐るるくらいなり」と注意を喚起している。こうした態度は、愛山が徳川家康を極めて高く評価していたことに起因する(後の章で詳述)。
 山路愛山は、石田三成に対する残忍、陰険との評言に対し、「清廉潔白だった」と反論するのではなく、「残忍、陰険はその頃の人情なり」と擁護する。明智光秀に対してもそうだったが、愛山は謀略渦巻く戦国乱世を生きた人物を儒教的倫理観で断罪することに否定的である。蒲生氏郷の毒殺は虚伝だろうが、氏郷死後に蒲生家を転封し、会津に上杉景勝を移したのは三成の仕業である、と愛山は見る。しかし、それは「徳川家の羽翼をぎて、その異心の発生を抑えんがため」だという。
 また、秀次事件の黒幕も石田三成であると説く。だが「関白秀次を殺したるは、秀頼が生まれたる以上は、豊臣家二流に分かれては天下の統一を保ち難しとしたるがためなり」と擁護する。三成は確かに陰謀家であったが、そうした策謀を用いた目的は「事権を太閤に集中して天下の泰平を期せんとするにあらざるはなく、これ皆豊臣家の利益にして石田の一身にとりては直ちに利害の及ぶものに非ず」というのだ。
 とはいえ山路愛山は、石田三成挙兵の動機が豊臣家への忠義だけとは考えていない。徳川家を滅ぼして天下を差配したいという野心もあったと推測する。この点で愛山は、渡辺世祐よりも客観的に三成を評価していると言えよう。

三上参次と福本日南の石田三成論

 先述の通り、『稿本 石田三成』には歴史学者の三上参次が序文を寄せている。三上は、石田三成への高評価が徳川家康への低評価につながってはならないと警鐘を鳴らす。「三成を賞揚すると同時に、これに対して優勝者の地位にある家康は、その声価依然として高きを見るべし」と説く。
 加えて、三上参次は石田三成の忠義を「武士道の精髄」と賞賛しつつも、三成は徳川家康の挑発に乗って「未曽有の大戦」を起こし、結果として家康の天下取りに貢献してしまったと指摘している。三上によれば、石田三成と大野おおの治長はるなが(豊臣秀頼の側近で大坂の陣の総大将)は結果的に「共に豊臣氏を亡ぼしたる者」だという。
 この評価に猛然と反論したのが、「九州日報」の主筆兼社長として活躍していたジャーナリスト・史論家の福本ふくもと日南にちなんであった。『稿本 石田三成』刊行の翌年である明治四十一年(一九〇八)の三月、日南は「九州日報」に三日間にわたって「石田三成」という論考を発表した(後に福本日南の著作『直江山城守やましろのかみ』に収録)。
 福本日南は言う。豊臣秀吉の遺言に背き、秀吉との約束を破って天下を奪った「姦賊」の徳川家康と、豊臣家への忠義を貫いた「烈士」の石田三成を比較して、両者に高低なしと唱える歴史家は正義の観念を有していない、と。「もし世に正義の観念を欠如するの史家あらば、これ日本国人の風上にも置くべからざるところの者なり」と日南は論じる。
 石田三成が徳川家康の挑発に乗って挙兵したせいで、かえって豊臣氏の立場を一層悪くしたという三上参次の指摘に対しては、福本日南は「無知・無識・無眼・無覚」と罵倒する。日南は言う。豊臣秀吉が死ぬや否や、早くも諸大名は徳川家康になびきつつあった。この状況を座視していれば、十年を待たずして家康が天下を掌握しただろう。これを阻止するには、多少なりとも諸大名に秀吉への義理の気持ちが残っている間に挙兵するしかなかった。実際、三成は西軍を組織し、家康と互角に渡り合える態勢を整えたではないか。小早川秀秋の裏切りさえなければ、勝敗は逆転していたはずだ、と。三上の見解は「時務を知らざる儒生・俗士の見」にすぎない、と日南は切り捨てている。世間知らずの学者の空論、といったところか。筆者も作家などから同じような批判を受けているので、妙な親近感がわく。
 後者の反論はともかく、前者、石田三成は忠臣だから徳川家康よりもずっと立派な人物であるという福本日南の反論は、明らかに儒教的倫理観に基づくもので、いささか古くさく感じられる。前述の山路愛山、後述の徳富とくとみ蘇峰そほうに見られるように、この時期には在野の歴史家も道徳的な人物評から卒業しつつあった。けれども、儒教的な大義名分論も根強く残っていたのである。

大森金五郎の挙兵正当論

 石田三成の挙兵を正しい判断と評価した人物は福本日南だけではなく、アカデミズムの世界にもいた。学習院大学教授などを務めた歴史学者の大森おおもり金五郎きんごろうは大正十年(一九二一)、「坂東ばんどう次郎じろう」の筆名で「石田三成の評論」という論考を「中央史談」に発表している。
 なぜ大森金五郎がペンネームを用いたのか不明だが、徳川家康が江戸幕府を開いた結果、「二百六十余年の太平を来たし、文物典章から百工技芸の発達を促進したことは、実に国家の幸福であったというべきである」と書いたくだりが、世論を刺激すると思ったのかもしれない。杞憂きゆうに終わったのか、同論考は、大森が大正十四年に実名で発表した著書『随感随録 史伝史話』に収録されている。
 関ヶ原合戦が「大坂にとって非常なる不利益を及ぼした」と唱え、石田三成を責める意見に対して、大森金五郎は反論している。大森によれば、豊臣秀吉死後、豊臣家の家臣たちの考えは三つに分かれたという。第一は、早く徳川家康を亡き者にするのが得策であるという早決策派で、石田三成・小西こにし行長ゆきながらの考えである。第二は、当面は律儀者と言われる家康を頼り、徳川家と事を構えるのは老年の家康が亡くなるのを待ってからにすべきという永遠策派で、片桐かたぎり且元かつもとらの考えである。第三は、長いものには巻かれろ式の時勢順応主義者で、これが多数派である。福島正則・加藤清正などは秀吉の恩誼おんぎを忘れたわけではなく、秀頼の将来も心配していたが、最大の実力者である家康に従うのが身のためであり、豊臣家存続にもつながると考えていたという。
 また大森は、第二・第三の人々は、仮に徳川の天下になっても止むを得ない、豊臣家が残れば良いと考えていた、と説く。これは穏当な考えに見え、彼らの方が石田三成たちより「思慮ある分別者」に思われたが、「大坂の役後の処置によって裏切られた」という。徳川家康には豊臣家の存続を許す気がなかった。徳川家に天下を譲り豊臣家を存続させるという策は最初から成り立たなかったのであり、であるならば「石田三成らがとった早決策は、むしろ先見の明があった」ということになる。
 大森金五郎の所論は、福本日南のそれと基本的に同じである。座して滅亡を待つくらいなら、戦うべきだ、という主張だ。これは、徳川家康が悪辣な陰謀家であるという理解を前提にしている。この家康像の妥当性については、本連載の後の章で論じるので今はく。大森の分析はそれなりに現実的・合理的に見えるが、「戦争の結果は敗北に帰したけれども、豊公の恩誼に報ゆる男児の本懐は充分に尽くしおおせたものと思われる」という感傷的な一節からは、江戸時代以来の忠臣論からなお脱していないことが認められる。

リアリスト徳富蘇峰の「野望説」

 徳富蘇峰も石田三成論を展開している。大正十二年(一九二三)正月に『近世日本国民史 家康時代上巻 関原役』が刊行された。
 本人が自ら語っているように、この書の戦闘経過については参謀本部『日本戦史 関原役』に多くを負っている。実のところ、戦闘経過だけでなく政治過程についても同書をかなり参照している。拙著『陰謀の日本中世史』でも触れたが、七将襲撃事件の際に石田三成が徳川家康に助けを求めたという説は、蘇峰が『日本戦史 関原役』(あるいは渡辺世祐『稿本 石田三成』)を誤読したことが発端になっている。
 徳富蘇峰の石田三成への評価を最も直截ちよくせつに示しているのは、下の一節であろう。

家康と真に雌雄を決せんと大賭博を打ったのは、ただ石田三成だ。石田三成は、決して家康の敵ではない。この両人は横綱と前頭との立合で、到底互角の相撲になるべきでなかった。三成にして真に家康の相手とならんと欲せば、その準備が必要であった。しかるに三成は秀吉を、百年も生存するものと思うて、格別にその準備をしておかなかったようだ。彼は家康を向うに回して、喧嘩をするには、今少しく人望をつなぎ置く工夫があるべきはずだ……(中略)……しかるに彼はとらの威を借るきつねで秀吉の口真似くちまねをして、これがためにその味方たるべき仲間に、多大の敵を製造していた。吾人ごじんは三成に全く準備が無かったとはいわぬ。その身代の全部を挙げて、士を養うていただけでも、彼が志の小でなかったことがわかる。しかも彼は秀吉の在世の時代に、余りに調子に乗りすぎた。……(中略)……しかしながら、何というても三成だ。関原役の西軍は、謀将雲のごとく、健卒雨のごとくあったが、しかも真に家康を相手として、天下を争わんとしたる気迫ある者は、ただ石田三成のみであった……(中略)……関原の一戦は、三成に取りて、決して恥辱の一戦でなく、名誉の一戦だ。彼がごとき取組を、家康としたのは、たとい負けても、手柄といわねばならぬ。

 一読して分かるように、この石田三成論は、江戸時代の〝好敵手〟イメージを全面展開したものである。司馬遼󠄁太郎『関ケ原』の石田三成像の源泉が本書にあることは、容易に了解されよう。
 一方、徳富蘇峰は石田三成忠臣論には懐疑的である。蘇峰は「先代の時に、威福をたくましゅうしたる使用人が、次代になりて、惨めなる状態に陥るは、世間普通の事だ」と述べ、秀吉死後に一大活躍をしなければ三成は自ら死地に陥るのは必然であると説く。すなわち、「関原役は、石田にとりては、積極的の自己防御というが適当だ」というのだ。
 徳富蘇峰は言う。「彼は決して豊臣氏の忠臣というべきものではなかった」と。関ヶ原合戦で石田三成が勝利したとしても、豊臣秀頼が天下人になれたかどうかは怪しいと語り、「徳川方が勝つも、石田方が勝つも、その結果は五十歩、百歩」と突き放す。それは、「元亀げんき天正てんしようから、慶長・元和げんなの頃には、いわゆる朱子学流の忠孝論は、いまだ深く人心を陶冶していなかった」からである。「いかに秀吉の恩誼は深厚であったとするも、それがために家を滅ぼし、身を殺すを甘ずる者が、一人でもいたらば、それはむしろ不思議というべきであろう」と蘇峰は語っている。いわば「野望説」である。
 山路愛山と同様に、徳富蘇峰は弱肉強食の帝国主義を肯定するリアリストであり、忠不忠という儒教的価値観とは距離を置いていた。蘇峰が石田三成を評価したのは、彼が忠臣だからではなく、強大な敵に立ち向かったからである。今まで見てきた通り、これは蘇峰に限ったことではなく、明治末期以降の三成論では家康の〝好敵手〟という評価が目立つ。この辺り、日清・日露の両戦役で小国の日本が大国の清・ロシアを打ち破ったことを念頭に置いての評価かもしれない。

(つづく)


関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年4月号

3月13日 発売

怪と幽

最新号
Vol.006

12月22日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP