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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.4

どんどん尾ひれがついた道三の国盗り 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第二章 斎藤道三――「美濃のマムシ」は本当か?

第一節 近世の斎藤道三像

江戸前期には油売り伝説は見えず

 美濃みののマムシ、斎藤さいとう道三どうさん司馬しば遼󠄁太郎りようたろうの小説『国り物語』やこれを原作としたNHK大河ドラマによって、その乱世の梟雄きようゆうとしてのイメージは世間に広く浸透している。
 一般に斎藤道三は、油売りから美濃一国の大名となった下剋上げこくじようの体現者と見られてきた。しかし江戸前期の史料は、道三が低い身分から成り上がったと記すのみで、油売りだったとは述べていない。
 織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしに仕えた太田おおた牛一ぎゆういち慶長けいちよう十五年(一六一〇)前後に記した秀吉の伝記、『たいかうさまくんきのうち』がある。この中には斎藤道三に関する記述がある。道三が亡くなってから半世紀を経た時期の道三評だ。それによれば、「美濃国、斎藤山城やましろ道三は、元来、五畿内、山城国西岡にしのおか松波まつなみと申す一僕の者なり」という。西岡とは京都盆地の西南部、桂川かつらがわの西岸域一帯を指す。現在の京都市西京にしきよう区・みなみ区、向日むこう市、長岡京ながおかきよう市、大山崎おおやまざき町の辺りである。「一僕の者」とは、従者を一人しか抱えていない最下層の武士を意味する。太田牛一は道三を、身分は低いが一応は武士と認識していたのである。なお牛一の『信長公記しんちようこうき』にも、ほぼ同内容の記述が見える。
 少し時代が下って、軍学者の山鹿やまが素行そこうが記した歴史書『武家事紀』ではどうだろうか。同書の序文には延宝えんほう元年(一六七三)とある。素行は道三について「もと凡賤ぼんせんの寒賊なり」と記す。身分が低かったことには言及しているが、油売りとは言っていない。
 織田信長と斎藤龍興たつおき(道三の孫)が争った永禄えいろく八年(一五六五)の堂洞どうぼら合戦について記した軍記物『堂洞軍記』にも、道三に関する記述が見える。「斎藤山城守やましろのかみと申すは、その昔、都においていやしきかさ張りにて有りける人と生まれ」とある。油売りではなく笠張りだという。
 そうした低い身分から道三がのし上がっていく様を諸書は描いているが、その筆致は冷たい。『大かうさまくんきのうち』は以下のように記す。
 松波(のちの道三)が京都から美濃国に下って、美濃の大名土岐とき氏の重臣である長井ながい藤左衛門とうざえもん(長井長弘ながひろ)に仕え、西村にしむらと名乗った。西村は頭角を現すが、主君である長井藤左衛門を殺し、長井新九郎しんくろうと名乗った。これにより長井一族と争いになり、新九郎は苦境に立つが、土岐頼芸よりのりに仲裁を求めて事なきを得た。長井新九郎は頼芸の信任を得て斎藤山城道三と名を改めた。道三は土岐頼芸の息子である二郎じろう(土岐頼充よりみつ、正確には頼芸のおい)を娘婿むすめむこに取ったが、これをひそかに毒殺した。次に二郎の弟の八郎はちろうを娘婿にとったが、これも切腹させた。そして美濃一国を乗っ取ったというのである。なお近年の研究では、道三が土岐頼芸を追放し、美濃の国主になったのは天文てんぶん十九年(一五五〇)のことと考えられている。
 さて『大かうさまくんきのうち』によると、この頃、何者かが道三の国盗りを批判して、落書らくしよを立てたという。落書には「しゆうを切り 婿を殺すは みのおわり 昔は長田おさだ 今は山城」という歌が書かれていた。山城とは斎藤山城守、つまり道三のことである。長田は長田忠致ただむねのことである。
 長田忠致については、軍記物『平治物語』が詳しい。平治の乱でたいらの清盛きよもりに敗れたみなもとの義朝よしとも頼朝よりともの父)は関東に逃れようとし、途中、尾張国おわりのくに野間のま(現在の愛知県知多ちた美浜みはま町)の長田忠致の屋敷に寄った。忠致は義朝の家臣であり、義朝の腹心である鎌田かまた政清まさきよしゆうとでもあった。忠致は義朝・政清をかくまうと見せかけて、義朝・政清をだまし討ちにした。まさに「主を切り、婿を殺す」である。
 忠致は義朝を殺した功績で壱岐守いきのかみに任官したが、恩賞の少なさに不満を漏らした。「壱岐守ではなく美濃守・尾張守が欲しい」というのである。主君を平然と殺しておいて、図々しく多大な恩賞を要求した忠致に対し、清盛は激怒した。忠致は処罰されることはなかったが、平家の麾下きかに居づらくなり、頼朝が挙兵すると、頼朝の元にせ参じた。頼朝は「手柄を立てれば恩賞を与える」と約束する。忠致は奮戦したが、頼朝が天下を取ると、頼朝の父のかたきである忠致は処刑された。その時、「きらへども 命の程は 壱岐のかみ 美濃尾張をば 今ぞたまはる」と書かれた落書が立てられたという。「壱岐」と「生き」、「美濃尾張」と「身の終わり」を掛けている。「壱岐守で満足していれば、命だけは助かったかもしれないのに、美濃尾張を望んだばかりに、身の終わりを給わることになってしまった」という意味である。
 要するに、美濃の斎藤道三は主君や娘婿を殺すような極悪人だから、昔の長田忠致のようにみじめな最期を遂げることになるだろう、と予言しているのである。現実に道三は非業の死を遂げているので、いささか出来過ぎの話に思える。実際には道三が死んでから作られた歌であろう。いずれにせよ、戦国時代の人間、そして太田牛一が斎藤道三の謀反を倫理的に非難していることは疑いない。
 ちなみに『武家事紀』や『堂洞軍記』も、道三の国盗りの経緯については『大かうさまくんきのうち』と同様である。ただし『武家事紀』は、道三の武勇と土岐頼芸の無能を指摘しているので、『大かうさまくんきのうち』よりは道三に好意的と言えるかもしれない。

油売り伝説の登場

 油売りの話が出てくる早い例は、第一章でも取り上げた江戸中期の正徳しようとく三年(一七一三)刊行の『老人雑話』である。ただし「斎藤山城守は山崎の油商の子なり」とある。道三が油売りだとは言っておらず、油売りの子という設定だ。
 油売りだった道三が美濃で武士になった経緯を最も詳細に語っている史料は、美濃の地誌・歴史書である『美濃国諸旧記』である。成立年代は不明なものの、同書中に寛永かんえい十六年(一六三九)の記事が見えるので、それ以降の成立であることは確かだ。十七世紀中葉には成立していたとする説もあるが、『武家事紀』に油売りの話が出てこないことを考慮すると、実際には十八世紀以降ではないだろうか。
 この『美濃国諸旧記』によれば、斎藤道三は松波基宗もとむねの息子として生まれた。幼名は峯丸みねまるだという。松波家は代々、内裏(天皇の居所)を守る北面の武士を務めていたが、基宗の代に山城国西岡に移り住んだ。峯丸は生まれつき容貌に優れ、賢かったので、将来に期待した基宗は峯丸を出家させ、京都妙覚寺みようかくじ日善にちぜん上人の弟子とした。出家した峯丸は法蓮房ほうれんぼうと名乗り、たちまち名僧の評判を取る。しかし法蓮房は突如還俗げんぞくして、西岡に帰って奈良屋ならや又兵衛またべえの娘と結婚し、屋号を改め山崎屋庄五郎しようごろうと名乗って灯油を売るようになった。
 庄五郎は美濃に下り、油を売って回る。油を銭の穴に通す芸で人を集め、商売は大繁盛だった。ある時、長井藤左衛門の家臣である矢野やの五左衛門ござえもんが庄五郎から油を買った。例の妙技を見た矢野は「実に見事だが、しょせんは商人の芸にすぎぬ。もし武芸において、これほどの修行を積んでいれば、後世に名をのこす武士になったであろうに、惜しいことだ」と言った。これを聞いた庄五郎は油売りをめ、長槍ながやりで銭の穴を突く修行を始める。
 ついに武芸の奥義を極めた庄五郎は仕官を考えた。折良く、京都妙覚寺にいた頃に弟弟子だった南陽房なんようぼうが、美濃常在寺じようざいじの住職となっており、日運にちうん上人と名乗っていた。実はこの日運、土岐氏の重臣である長井豊後守ぶんごのかみ利隆としたかの弟だった。庄五郎は日運の推薦で長井家に仕えることになる。庄五郎は歌舞音曲にも堪能だったので、遊興好きの長井藤左衛門、さらには土岐頼芸に重用された。その結果、前述のように、出世街道を驀進ばくしんするのである。
 なお、この『美濃国諸旧記』の記述は、司馬遼太郎『国盗り物語』をはじめ、近現代に書かれた道三関係の小説の基礎になっている。

斎藤道三・義龍親子の不和

 良く知られているように、斎藤道三は息子義龍よしたつとの戦いに敗れて戦死するという、悲劇の最期を遂げる。この道三・義龍親子の不和についても、後世、様々な作り話が面白おかしく語られた。
 先述の『大かうさまくんきのうち』によれば、一般に総領息子はおっとりとした性格をしているものだが、年老いて知恵の鏡が曇った道三は穏和な長男義龍を愚物と見誤り、弟二人を溺愛したという。自然と、弟二人は義龍を侮るようになった。これに憤った義龍は仮病を使って屋敷に引きこもり、死ぬ前に一目会いたいと言って弟二人をおびき寄せて殺したという。弘治こうじ元年(一五五五)十一月二十二日のことである。父に愛される弟を兄が恨むという事態は、「カインとアベル」を引くまでもなく、古今東西良くあることである。
 しかし、これだけでは盛り上がりに欠けると思ったのか、だんだん話に尾ひれがついていく。近江おうみ・美濃の戦国合戦を記した軍記物『江濃記ごうのうき』(十七世紀中・後期に成立か)では、長男義龍(『江濃記』では「義糺よしただ」と誤る)は先妻の子、次男・三男は今の妻の子と記している。母違いの兄弟というわけだ。そして道三が自分を廃嫡しようとしているのを知った義龍が、弟二人をおびき寄せて殺したという。
 さらに、義龍が道三の実の子ではないという話が生まれる。前掲の『武家事紀』は、斎藤道三が土岐頼芸を追放した後、頼芸の妻を奪ったという。この妻は既に頼芸の子を懐妊しており、道三の屋敷で出産した。これが義龍だというから、義龍は頼芸の子である。実子でないので道三に疎まれ、廃嫡されようとした。これを恨んだ義龍が弟二人をだまし討ちにした、という流れである。私たちが知る道三・義龍親子の不和の話にだいぶ近づいてきたと言えよう。ただし、義龍の母の名前は出てこない。

深芳野伝説の形成

 『美濃国諸旧記』では、より一層、話が具体的になる。土岐頼芸の愛妾あいしよう深芳野みよしのという美女がいた。頼芸は道三を寵愛ちようあいするあまり、大永だいえい六年(一五二六)十二月に道三へ深芳野を与えた。深芳野は翌七年六月に男児を出産する。これが後の義龍である。出産時期を考慮すると、義龍は道三の子ではなく頼芸の子である、と『美濃国諸旧記』は主張する。土岐頼芸を追放した後、道三は下剋上を正当化するために、義龍に家督を譲ったという。土岐氏の血を引く義龍が美濃の国主になるのであれば、美濃の人々も納得する、というわけだ。しかし道三の権力が強化され、美濃の人々が道三に逆らう恐れがなくなると、道三は義龍を廃嫡して実子に家督を譲ろうと思い直した。そうした気配を察した義龍は、側近から「ご実父は土岐頼芸公であり、道三は御父の仇でございます」と告げられ、道三を討つことを決意したという。
 深芳野の話は『土岐斎藤軍記』や『土岐累代記』では、よりドラマチックに仕立てられている。周囲に人がいない時に道三が是非にと所望し、断れば頼芸を刺し殺しかねない気配だったので、頼芸はそこまでれているのならば、と与えたという。道三の傲慢さが誇張されているのだ。なお、『土岐累代記』は深芳野の出自について、丹後たんご宮津みやづの城主一色いつしき左京さきようの大夫だいぶの娘と記している。丹後守護一色氏は有力な足利あしかが一門で、土岐氏より家格が上である。その娘を側室にし、あまつさえ家臣に下げ渡すとは、到底考えられない。やはり深芳野の逸話は虚構と考えるべきだろう。
 ちなみに、深芳野の話は必ずしも人口に膾炙かいしやしなかったようだ。前掲の『老人雑話』は単に道三と義龍の不和のみを記し、義龍が土岐氏の子であるといった話に触れていない。江戸えど千駄ヶ谷せんだがや聖輪寺しようりんじの住持増誉ぞうよ(一七〇七年没)が編んだ武将言行録『明良洪範めいりようこうはん』(十七世紀後半~十八世紀初頭に成立か)は、斎藤義龍が土岐頼芸の子であると記しているが、義龍の母の名前には言及していない。おそらく『武家事紀』に依拠したのだろう。
 江戸幕府が十八世紀末に作成させた『寛政かんせい重修ちようしゆう諸家譜』巻第二百八十三の土岐氏の項には、義龍の出生に関する注記がある。常陸ひたち土岐氏出身で旗本の土岐朝利ともとしの提出した家譜に、義龍は土岐頼芸の妾腹の子であり、義龍の母が懐妊中に斎藤道三に奪われたため斎藤家で生まれたが、後に出生の秘密を知ったので、道三の無道を憎んで滅ぼした、と記されているという。編纂へんさん者は、斎藤氏の系図には見えない情報ではあるが一応記しておく、としている。ここにも深芳野の名は見えない。そもそも上の逸話の真偽は疑われていたようである。
 義龍の母については異説も存在する。儒学者の熊沢くまざわ淡庵たんあん正徳しようとく六年(一七一六)に刊行した『武将感状記』では、義龍の母を稲葉いなば一鉄いつてつの妹とする。寛政三年(一七九一)成立の神沢かんざわ杜口とこうの随筆『翁草おきなぐさ』も同内容を記す。深芳野より、こちらの方が信頼できる。

信長・光秀との絆はあったか

 周知のように、織田信長の正室(本名不明。一般に「濃姫のうひめ」「帰蝶きちよう」などと呼ばれる)は斎藤道三の娘である。信長は道三の娘婿にあたる。道三は娘婿の信長を高く評価していた、というイメージを持っている人は多いだろう。
 そのイメージの源泉は聖徳寺しようとくじの会見である。織田信長を描いた小説やドラマでは定番のシーンなので、知らない人はいないだろう。うつけ者とのうわさで有名な信長が、正装で姿を現し、斎藤道三の度肝を抜く、あの場面である。帰り道、道三は「残念なことである。わしの息子たちは、たわけの門外に馬をつなぐことになるだろう」と嘆息したという。
 上の逸話はいかにも出来過ぎで、作り話めいている。しかし『信長公記』に収録されているので、軽々に退けられない。
 歴史ファンにおなじみの『信長公記』は、織田信長のそば近くに仕えた太田牛一の手になる信長の一代記である。ただし、牛一が信長に近侍するようになったのは桶狭間おけはざまの戦い前後と考えられているので、牛一は会見の場にはいなかっただろう。聖徳寺の会見の記事は、伝聞情報に基づくと思われる。
 牛一は、道三の政治について「わずかな罪であっても、牛裂きや釜ゆでなど残虐な刑罰に処した」と批判しているので、信長の方が道三より一枚上手であると主張するために聖徳寺の会見を記したのだろう。『信長公記』には、信長の勇猛果敢な戦いぶりを知った道三が「すさまじき男、隣には嫌なる人にて候よ」と述べる場面もある。牛一の意図はあくまで主君信長を称揚することであり、道三の眼力を褒めているわけではない。
 小瀬おぜ甫庵ほあんの『信長記』(一六一一年頃に成立、以下『甫庵信長記』と記す)は『信長公記』の記述をなぞる形で聖徳寺の会見を叙述しているが、自分の意見も付け加えている。道三の予言通り斎藤家が信長に滅ぼされたことを指摘し、「人の目きき程、恐ろしき物はなかりけり」と道三の慧眼けいがんを賞賛している。武内たけうち確斎かくさいの『絵本太閤記』(一七九七~一八〇二年刊行)もおそらく『甫庵信長記』を参照して聖徳寺の会見を叙述しており、「道三が先見、明らかなり」と評している。
 ただし、斎藤道三が織田信長を気に入っていた、という認識が江戸時代に普及していたとは、必ずしも言えない。道三の信長への評価の高さを示す史料として、道三の遺言状が挙げられる。『国盗り物語』にも全文引用されているので、ご存じの方も多いだろう。作成されたのは弘治二年(一五五六)四月十九日。息子義龍との決戦、長良川ながらがわの戦いの直前である。「ちごまいる」と書いてあるので、道三が幼い我が子に宛てた遺言状であると分かる。その中に「信長に対して美濃国を譲るという譲状を送った」という一文が見える。これに従えば、道三は娘婿の信長を後継者とみなしていたことになる。
 この遺言状の写しと思われるものが京都の妙覚寺みようかくじと大阪城天守閣に伝わっている。ただし、それぞれに文章の異同がある。これらには文言に不審な点があるので、後世に創作されたと疑う声もある。信長が道三から美濃支配を託されていたのだとすると、信長の美濃侵攻の絶好の大義名分になるが、この事実を記した史料は他にない。『信長公記』にも記載はない。偽文書と見た方が良いのではないだろうか。
 仮に本物だとして、国譲りの事実が江戸時代に広く知られていたかどうかは疑問である。この遺言状を引用している史料は『江濃記』だけしか確認されていない。そもそも聖徳寺の会見を含め、道三と信長の交流を示す逸話は、江戸時代の歴史書や逸話集にはあまり収録されていないのである。
 前掲の『大かうさまくんきのうち』では、長良川の戦いでの息子義龍の采配を見た斎藤道三は「さすが道三が子にて候」と感心している。さらに『武将感状記』・『翁草』では、道三は「これで美濃は斎藤家のものだ。他国に侵略されることはないだろう」と語り、義龍の器量を見誤った己の不明を恥じている。
 江戸時代には、斎藤道三と明智あけち光秀みつひでの関係も説かれた。『美濃国諸旧記』や「明智氏一族宮城家相伝系図書」などによれば、斎藤道三の正室で濃姫の母にあたる小見おみかたは、明智光綱みつつな(光秀の父と目されている)の妹だという。これに従えば、明智光秀と濃姫は従兄妹いとこということになる。加えて、『美濃国諸旧記』は、道三は光秀の鉄砲の師であると記す。こうした記述は到底信じられない。さらに言えば、これらの話は江戸時代の主要な逸話集にも見えず、そもそも道三と光秀が深い間柄であるという認識が近世社会に広がっていたかも疑問である。

近世における道三の評価

 さて、江戸時代において斎藤道三はどのように評価されていたのだろうか。大前提として、道三は全国区の超有名人ではなかったようである。確かに、道三は美濃国の地誌・軍記類では欠くことのできない重要人物だったが、江戸時代の主要な逸話集ではさほど取り上げられていない。登場する時は、主君土岐氏を裏切った下剋上や息子義龍との骨肉の争いが語られることがほとんどなので、道三に良い印象を持つ人は少なかっただろう(ただし『武将感状記』は、道三が三間柄の長槍を用いた新戦術を考案した話を載せる)。
 江戸初期に成立した笑話集『醒睡笑せいすいしよう』は、「美濃国にて、土岐殿と斎藤山城守取あいて、ついに土岐殿方まけになりし頃」として、次の狂歌を載せる。「ときはれど のりたてもせぬ 四布よのはかま 三布みのは破れて 一布ひとのにぞなる」。四布袴(布を四枚縫い合わせて仕立てた袴)をいったん解いて洗い張りすると、袴の糊気がなくなり、四布のうち三布は破れてしまい、残りは一布になってしまう、というのが表の意味である。しかし実は「解き」と「土岐」、「三布」と「美濃」、「一布」と「人の」を掛けている。土岐氏が敗れて、美濃は人の(道三の)ものになったと詠んでいるのである。
 この狂歌は『新撰しんせん狂歌集』、『曽呂そろり利狂歌ばなし』、『老人雑話』などにも収録されているので、江戸時代の民衆にかなり浸透していたと思われる。土岐氏を揶揄やゆする歌だが、かといって道三を賛美する内容ではない。
 はやし羅山らざんが古今の名将(下限は豊臣秀吉)を選んだと伝わる(疑わしいが)書籍に、『本朝百将伝』(一六五六年)がある。戦国時代の武将としては、北条ほうじよう早雲そううん三好みよし長慶ながよし毛利もうり元就もとなり、北条氏康うじやす武田たけだ信玄しんげん上杉うえすぎ謙信けんしんといったおなじみの面々が選出されている。その中に斎藤道三の名が見え、低い身分から美濃一国の大名になったとの説明が付されている。けれども、道三の娘が信長に嫁したと記し、道三の次に織田信長を紹介していることを踏まえると、信長のおまけで選ばれたように感じられる。

(つづく)


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