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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.2

歴史小説・ドラマの源流は“蘇峰史観”にあり! 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

>>第一節 近世の明智光秀像

第二節 近代の明智光秀像

儒教的主従観念の相対化

 前節で取り上げた『絵本太功記』のような例外はあるにせよ、江戸時代において明智光秀は基本的に「逆臣」として非難された。前述の通り、儒教的倫理観にのっとった場合、いかなる理由があろうとも、主君への反逆は肯定されないからである。
 もちろん、儒教にも暴君への反逆を正当化する考え方はある。これを放伐説という。周の武王が殷の紂王を討ったのは放伐の典型であり、『絵本太功記』は放伐説を引くことで、光秀の行為を正当化しようとしている。
 だが儒教において、放伐説は必ずしも有力な考え方ではなかった。江戸時代に最も影響力を持った儒教の学派は、いわゆる朱子学である。一般に朱子学は放伐説を採用したと言われている。朱子学は儒学の経典のうち『孟子もうし』を特に重視しており、『孟子』は放伐を肯定しているからである。
 けれども中国思想史学者の小島こじまつよし氏は、朱子学は放伐説に否定的だったと指摘している。朱子学は『孟子』の独自な解釈により、武王による放伐は、最悪の暴君である紂王を、稀代きたいの聖人である武王が討ったから例外的に認められるのであり、放伐は原則禁止であると唱えた。朱子学の立場からは、光秀ごときが主君信長を討つことは当然認められない。
 前掲の『絵本太功記』はかなり無理をして光秀を持ち上げたが、光秀の母さつきの光秀批判こそが江戸時代の基本的な倫理観である。そもそも光秀が本当に正義であるならば、哀れな末路を遂げるはずがない、というのが近世人の感覚である。天に見放されたからこそ、光秀は敗れた。真柴久吉が「天罰」と述べたように、光秀の謀反は天の認めるところではなかったからこそ、光秀は滅びた。以上が江戸時代の儒教的な歴史解釈である。
 しかし近代になると、こうした光秀評も見直されていく。明治以降も儒教的な価値観が払拭されたわけではないが、絶対的な忠誠をささげる対象は天皇のみになり、儒教的な主従観念は相対化された。
 自由党系のジャーナリストとして活躍し、後に実業家・政治家になった小泉こいずみ策太郎さくたろうという人物が明治三十年(一八九七)に明智光秀の伝記を書いている。小泉は序文で「主殺しの大罪人」と唾棄されてきた明智光秀の名誉回復を図ると宣言している。
 小泉は、戦国乱世に仁義道徳などはないと述べ、弱肉強食の時代に生まれた武将を忠義という尺度で評価する愚を説いている。これは鋭い指摘である。確かに近世における明智光秀評は、「主君への絶対的忠義」という天下泰平の世の価値観で戦国武将を裁くものであり、ピント外れであることは否めない。
 小泉は大略、次のようなことを述べている。兄(長尾ながお晴景はるかげ)に取って代わった上杉うえすぎ謙信けんしんや父(武田信虎のぶとら)を追放した武田信玄しんげんは名将英雄とたたえられている。結局、光秀が逆臣と非難されるのは、光秀が負けたからにすぎないのではないか。戦国時代には主君と家臣が相争うことは珍しくない。すなわち「光秀が主君の暴逆に堪えるあたわず、ついにほこを逆さまにして本能寺の襲撃を断行せしもまた、これ当時の士風に徴して深く怪しむを要せざるなり」ということになる。
 小泉は、光秀の性格を「謹厚堅忍」「温雅優容」と称賛している。そして信長の「猛烈果敢」な性格と「君臣長短相補」う関係だったと指摘している。性格は正反対だが、それゆえに名コンビだったというのだ。
 しかし小泉は、光秀は戦国武将としては真面目で繊細すぎた、とも指摘している。光秀は賢者ではあるが秀吉のような臨機応変の才を持ち合わせていなかった。また光秀は勇者ではあるが、教養がありすぎて、柴田しばた勝家かついえのように豪放に振る舞うことができなかった。ゆえに誤解されやすく、次第に信長に疎まれるようになった、と小泉は主張する。信長と光秀を対照的な人物とみなし、その性格の不一致が本能寺の変につながったと捉える現代の通俗的解釈の原型が既に現れている。
 小泉は、江戸時代に創作された怨恨の逸話をそのまま採用し、本能寺の変の動機を光秀の信長への恨みに求める。つまり、光秀が信長からパワハラを受けたことを、史実とみなしている。よって光秀の事績に関する小泉の叙述は、江戸時代の軍記・物語と大差ない。違うのは、謀反が正当か否か、その一点である。
 先述の通り、江戸時代の儒教的倫理観に照らせば、光秀の謀反は決して肯定できない。近世においては、主君からどんな仕打ちを受けようと忠義を尽くすのが武士の道だからである。だが明治時代になって、上の主従観念は相対化された。よって小泉は、信長が暴虐である以上、光秀の謀反には理がある、と説いたのである。

山路愛山の野望説

 明治から大正初期にかけて活躍したジャーナリストで在野の歴史家としても有名だった山路やまじ愛山あいざんも、光秀を擁護している。愛山は明治四十二年(一九〇九)に豊臣秀吉の伝記『豊太閤』を発表しているが、そこで本能寺の変についても論じている。
 愛山は「信長は気質難しき大将にして機嫌もとりにくく、少し気に入らねばすぐに恐ろしき罰をこうむるべしとて家臣も戦々兢々きょうきょうたりしかば、たとい光秀なくとも反臣はんしんを生ずべき勢いありし」と指摘する。家臣に対して横暴な信長にも問題があったという理解である。
 再三述べたように、近世的な価値観では、信長が暴君であったとしても謀反を起こして良いということにはならない。けれども愛山は「主を殺すということはその頃の人ももちろん大罪なりとしたりとはいえども、さりとて君臣の義理を論ずること朱子学時代のごとくにはげしからず」と光秀を擁護する。
 愛山は言う。朱子学の観点から見れば、美濃みのの斎藤道三どうさん(主君の土岐頼芸よりのりを追放)も、備前びぜん宇喜多うきた直家なおいえ(主君の浦上うらがみ宗景むねかげを追放)も、土佐とさ長宗我部ちょうそかべ元親もとちか(主君の一条いちじょう兼定かねさだを追放)も、そして織田信長(主君の足利あしかが義昭よしあきを追放)も〝有罪〟になるだろう。豊臣秀吉もまた、主君信長の子である信孝のぶたかを殺しているではないか、と。光秀が非難されるのは「勝てば将軍、負ければ賊」という結果論にすぎないという。小泉策太郎と同様に、後世の道徳的価値観で歴史上の人物を断罪すべきでない、という立場を採っているのである。
 ただ愛山は、小泉と異なり、怨恨説を重視していない。斎藤利三をめぐる信長と光秀の確執や饗応役の解任といった有名な逸話を紹介しているが、それが決定的な要因とは考えていない。信長が光秀に屈辱を与えたという種々の逸話が事実だとしても、「これだけにては、ただ小心者の邪推によりて大事を企てたりとよりほかは聞こえず。光秀もあまりつまらなき男になってしまう」からである。確かに主君、しかも事実上の天下人である信長を討つという大それたことを、私怨だけが動機で行うとは考えにくい。第一、「私怨があるから信長を討つ」では、光秀は自分の重臣たちを説得できないだろう。
 そこで愛山は、光秀に天下取りの野心があったのではないか、と推察した。細川ほそかわ藤孝ふじたか筒井つつい順慶じゅんけい・長宗我部元親ら光秀の親類縁者が光秀に協力していれば、天下取りも夢ではなかった、と愛山は指摘する。
 同時代人が光秀の天下取りの野心を当然視したように、光秀の謀反が彼の野心に起因したと見るのは自然である。にもかかわらず、江戸時代において根拠薄弱な怨恨説が主流だったのは、「武士は主君に忠義を尽くすべき」という儒教的な倫理観が社会を覆っていたからである。暴君に反逆することすら許されない社会に生きる人々にとって、己の野望のために主君を殺すという発想は理解の範疇はんちゅうを超えていたのだろう。だが明治になり、主君を絶対視する思想が力を失うと、野望説にたどり着く者が出現したのである。

徳富蘇峰の突発的犯行説

 私たちが抱く戦国武将像の基本を形作った史論として、欠かせないものに徳富とくとみ蘇峰そほうの大著『近世日本国民史』がある。徳富蘇峰は明治期から戦後にかけて活躍したジャーナリスト・評論家であるが、山路愛山と並ぶ在野の歴史家としても知られていた。蘇峰が三十四年かけて原稿用紙十七万枚分を執筆した『近世日本国民史』は織田信長の天下統一事業に始まり、維新三傑(西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよし)の死で幕を閉じている。一個人で日本近世政治史を描き切った偉業は空前絶後と言えよう。
 蘇峰の『近世日本国民史』は、多数の史料を文中に引用していることもあり、歴史小説家たちの座右の書、有り体に言えば種本であった。ゆえに戦後の歴史小説にも多大な影響を及ぼしており、歴史小説や歴史ドラマを愛好する者は知らず知らずのうちに〝蘇峰史観〟の洗礼を受けているのである。
 さて蘇峰は大正七年(一九一八)、自身が主宰する「国民新聞」に『近世日本国民史』の連載を開始した。翌年には『近世日本国民史 織田氏時代 後篇』が刊行された。この本で、本能寺の変の動機について綿密な分析を行っている。
 蘇峰は江戸時代の史書に見える逸話を無条件で信じることは避け、取捨選択を行っている。たとえば出雲・石見への国替えの話については、「光秀の既得権を没収して、これに代うるに未得権を以てすべきや」と疑問を示している。丹波・近江志賀郡を取り上げて、まだ織田領になっていない出雲・石見を与えるというのでは、国替えとは言えず、あまりに非現実的である。蘇峰は「これは立派な小説である」と述べ、創作と評価している。
 蘇峰は、光秀の信長への怨恨じたいは認めているが、それが根本的な動機とは考えない。信長は家臣たちを時に罵倒し、また嘲笑していたから、恨みを持っていた者は光秀に限らないはずだ。だが、羽柴秀吉も柴田勝家も滝川たきがわ一益かずますも謀反を起こしていないのだから、怨恨だけでは説明できない。もちろん同じように罵倒されても、性格によって受け取り方は異なるが、「これ(怨恨)がために、直ちに信長を弑す程の決心は、彼には最初よりできていたとは、思えない」と蘇峰は語る。怨恨説の否定である。
 では野望説かというと、そうでもない。「光秀には人並以上に、野心もあったろう。しからば時としては、自ら天下を取ってみたいという一念も、きざさぬではなかったろう……(中略)……もしそれが然りとせば、彼は何故なにゆえに、毛利氏と通謀せざりしか……(中略)……毛利氏とはおろか、何方どっちにも全く渡りをつけずに、否、その事を挙ぐる当座まで、その親信(引用者註:原文ママ)する重臣にさえも、渡りをつけなかったのは、その策の漏洩ろうえいをおそれて、ことさらに然りしといわんよりも、全くかかる企画の、胸中に成熟していなかったからであろう」と論じ、計画的な反乱ではないことを指摘している。
 そして蘇峰は「光秀の謀反は、怨望の念もありたるにせよ、疑惧の念もありたるにせよ、はた平生へいぜい身分不相応の、大野心ありたるにせよ、ともかくも本能寺打入の動機は、信長が軽装的に、本能寺に宿泊したる事が、これをひらいたといわねばならぬ」と結論づける。思いもよらず信長を討てるチャンスが到来したので魔が差した、という解釈である。要は突発的犯行説だ。蘇峰は「猫に鰹節かつおぶし」と評している。
 信長を討てるチャンスがあったから謀反を起こしたのであり、機会が到来しなかったら光秀は謀反を起こさなかった――言われてみれば当たり前のことである。だが、これはいわゆる「コロンブスの卵」であって、従来この点をはっきり指摘した論者はいなかった。蘇峰の慧眼けいがんを讃えるべきだろう。

(つづく)


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