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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.10

徳川政権への不満が生んだ秀吉人気 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第四章 豊臣秀吉――人たらしだったのか?

第一節 近世の豊臣秀吉像

江戸時代の庶民のヒーロー

 俗に織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすを「戦国三英傑」という。このうち信長と家康に関しては、時代ごとにその評価が大きく異なるものの、秀吉は江戸時代から現代に至るまで一貫して人気がある。その人気の源泉は、足軽から天下人になったという日本史上、空前絶後のサクセス・ストーリーにある。しかし、裸一貫からの立身出世という要素を軸としつつも、豊臣秀吉像も時代と共に変遷している。今回は、その点に注目したい。
 豊臣秀吉は江戸時代の庶民にとってヒーローであった。庶民のヒーローとしての秀吉像を創造したのは、小瀬おぜ甫庵ほあんの『太閤記たいこうき』(一六二六年成立、以下『甫庵太閤記』と略す)である。普請奉行・まき奉行としての活躍、墨俣すのまた城の築城など、著名な逸話は本書でほぼ出そろう。ただし、有名な草履を暖める話は出てこない(後述の『絵本太閤記』に見える)。また、美濃みの攻めでの墨俣城築城に関しても「墨俣」の地名は出てこず、築城の指揮は織田信長が執っており、秀吉の功績はむしろ墨俣入城後の夜襲であるように描かれている。秀吉が、自分の知略によって墨俣城を一夜で築いたという話にはなっていない。
 小瀬甫庵は豊臣秀吉の知略を評価しているが、秀吉成功の最大の要因を知略に求めていない。秀吉の美濃攻めでの活躍について、「秀吉忠義の実、かつて査滓さし無きにより、天はなはだ感じて福祥を降したまうなり」と、秀吉の忠義心に感心した天が秀吉を助けたと甫庵は述べており、天道思想の影響が顕著である。
 天道思想とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて武士たちの間で流行した思想である。天道思想は儒教・仏教・神道(神祇じんぎ信仰)が混ざり合った日本独特の思想だが、単純化して説明すると、いわゆる「お天道様が見ている」という考え方だ。人間良いことをすれば天がそれを見てその人を助けてくれるし、悪いことをすればやっぱりそれも天が見ていて天が罰を下す、ということである。小瀬甫庵は天道思想に基づいて、秀吉には忠義の心があったから天が助けてくれたのだと論じた。これは、小瀬甫庵が儒学者であることがかなり影響していると思われる。
 けれども時代が下るにつれて、豊臣秀吉の知略が強調されるようになる。現代人が知る墨俣一夜城の逸話の大枠が完成するのは、『絵本太閤記』である。
 本連載でも既に何度か取り上げた『絵本太閤記』は、江戸後期の大坂の戯作者である武内たけうち確斎かくさいが執筆し、同じく大坂の画工である岡田おかだ玉山ぎよくざんが挿絵を描いた絵入り読本である。寛政かんせい九年(一七九七)に大坂の本屋であるかつが秀吉の若き日を描いた初篇しよへんを開板(出版)したところ、大好評を博し、次々と続篇が刊行された。享和きようわ二年(一八〇二)に七篇八十四巻をもって完結した。だが文化ぶんか元年(一八〇四)、同書に基づく喜多川きたがわ歌麿うたまろの浮世絵『太閤五女花見之図』(秀吉が醍醐だいごの花見で淀君よどぎみら美女をはべらしている様を描いたもの)が、実在事件を題材にした一枚絵を禁じた幕府の新たな禁令に触れ、その余波で『絵本太閤記』も絶版となった。なお、この時『絵本信長記しんちようき』なども絶版になっている。
 さて、『絵本太閤記』は織田家の重臣である佐久間さくま信盛のぶもり柴田しばた勝家かついえが墨俣城築城に失敗した後、木下きのした藤吉郎とうきちろう(のちの豊臣秀吉)が「当家の人夫を用いず、当国の竹木を切らずに築城してみせます」と豪語するという、私たちにとっておなじみの展開を描く。信盛・勝家を引き立て役にすることで、秀吉の知略を強調している。さらに言えば、最初から秀吉に任せず、信盛・勝家を起用した信長には見る目がなかったということになるから、信長をおとしめて秀吉を持ち上げているとも言える。
 前掲の『甫庵太閤記』は、織田信長・豊臣秀吉の君臣関係を美化し、賞揚している。秀吉の急速な出世は、信長が秀吉の才覚・性格を見極めて適切に用いたことに負うところが大としている。墨俣築城に典型的なように、信長が家臣の秀吉を信頼し、秀吉は主君である信長に忠義を尽くすという理想的な主従コンビの活躍を描いているのだ。だが、『絵本太閤記』では秀吉一人の知謀が目立つ構成になる。この傾向はさらにエスカレートし、幕末に刊行された栗原くりはら信充のぶみつの『真書太閤記』は、秀吉が献策・奇計によってたびたび信長を救う話を創作し、秀吉を超人的な知将として描いている。

「徳川史観」による秀吉批判

 こうした民間での豊臣秀吉人気は、江戸幕府にとって好ましいものではなかった。徳川家は豊臣家から天下を奪ったので、秀吉人気の高まりは江戸幕府の正統性を傷つけかねないからである。要するに、秀吉賞賛にかこつけた体制批判を恐れたのだ。したがって、江戸幕府の公式の歴史観では、秀吉の評価は非常に低かった。
 第三章で紹介した正徳しようとく二年(一七一二)に成立した新井あらい白石はくせきの『読史余論とくしよろん』は、織田信長と同様に、いやそれ以上に豊臣秀吉を非難する。白石は言う。秀吉は卑しい身分から天下を取ったので、世間の人はこれを賞賛する。確かに日本ではあまりないが、中国では珍しいことではない。秀吉が天下を統一できたのは、時運に乗ったからにすぎない。当時は乱世であり、主君を裏切るような不届き者が大勢いた。戦国時代には、勇猛であるとか策謀にけているということだけが評価され、仁義忠孝は重視されなかった。ともかく戦に強ければ良い、陰謀が得意なら良いといった嘆かわしい時代に、秀吉がたまたま上手うまく巡り合ったので、秀吉が天下を取れただけである、と。
 要するに白石は、豊臣秀吉は優れた武将だが忠義の心を持たないとんでもない人間だ、と非難しているのである。秀吉に忠義の心がないとは、具体的には主家である織田家から天下を奪ったことを指す。それは主君を裏切ったことを意味するので、当然のことながら、家臣のあるべき道から外れた不忠ということになる。
 新井白石は説く。天は忠義に反する行為を許さない。その結果、天の報いによって、豊臣家もわずか二代、秀頼ひでよりの代に滅んでしまった、と。つまり、豊臣秀吉が忠義の道に背いたので、天の怒りによって天罰が下って、豊臣家が滅んでしまった、ということである。これも天道思想である。
 前章でも触れたが、こうした儒教的な評価は、多分に結果論的である。豊臣家が滅亡したことから逆算して豊臣秀吉の不徳・不忠を非難し、江戸幕府が続いているという現実から逆算して、徳川家康を礼賛する。すなわち、家康様は仁徳のある偉大な為政者だったので、天の加護を受け、それゆえに今も家康様の子孫が天下を治めている、という論法である。概して朱子学や天道思想は、現体制を保証・正当化する性格を持つが、上の解釈はその典型と言えよう。
 天保十四年(一八四三)に完成した江戸幕府の正史『徳川実紀』には、次のような豊臣秀吉評が載っている(『東照宮御実紀』巻四)。秀吉は陽気で豪放磊落らいらく、快活であると思われているが、それは表向きの姿にすぎない。実際には秀吉は常に策謀、計略を用いてきたのだ、と。いわゆる「人たらし」も全部計算ずくの行動だ、と言いたいのだろう。けれども、この記述からは逆に、民間では『絵本太閤記』などの影響で、人なつっこい陽気な男という秀吉像が広く流布していたことがうかがわれる。

朝鮮出兵否定論

 豊臣秀吉を貶めようと考える江戸幕府にとって、秀吉の第一の悪行は、主家である織田家から天下を奪った、という事実である。しかしこればかり言いつのると、豊臣家から天下を奪った徳川家はどうなるのだ、というブーメランが返ってきてしまう。そこで幕府が目をつけたのが、朝鮮出兵(文禄ぶんろく慶長けいちようえき)の失敗である。この敗戦は、徳川家による簒奪さんだつを正当化する上で格好の材料であった。
 儒学者のはやし羅山らざんどつこうさい(羅山の四男)は、江戸幕府の命を受け、江戸幕府以前の武家政権の歴史を編纂へんさんした。これを『将軍家譜』と言い、『鎌倉将軍家譜』『京都将軍家譜』『織田信長譜』『豊臣秀吉譜』の四篇から成る。このうち、豊臣秀吉の生涯を漢文体で著した歴史書『豊臣秀吉譜』は明暦めいれき四年(一六五八)に刊行された。
 この『豊臣秀吉譜』は、『甫庵太閤記』を主な典拠としているが、竹中たけなか重門しげかどの『豊鑑とよかがみ』やほり正意まさおきの『朝鮮征伐記』を参照した箇所も見られる。そんな中、『豊臣秀吉譜』の独自記事として注目されるのが、朝鮮出兵の動機に関する説明である。
 『豊臣秀吉譜』によれば、秀吉は愛児鶴松つるまつ(秀頼の兄)の夭折ようせつを嘆き悲しみ、その悲しさを紛らわすために朝鮮出兵を思いついた。諸大名は驚き、秀吉が悲しみのあまり狂ったかと思いつつ、諫言かんげんして秀吉の怒りを買うことを恐れて「神功じんぐう皇后以来の壮挙です」と追従したという。
 ちなみに、神功皇后は仲哀ちゆうあい天皇のきさきで、応神おうじん天皇の母である。『古事記』『日本書紀』によると、神功皇后は妊娠中であるにもかかわらず、兵を率いて朝鮮半島に渡り、新羅しらぎを攻めた。新羅は戦わずして降伏し、毎年朝貢することを誓った。高句麗こうくり百済くだらも朝貢を誓った。俗にこれを「三韓征伐」という。神功皇后の三韓征伐はあくまで神話であり、歴史的事実ではないが、中世には話にさらに尾ひれがつき、社会に広く浸透していた。ともあれ、朝鮮との関係修復に苦労した江戸幕府から見れば、豊臣秀吉の朝鮮出兵は愚行以外の何物でもなかっただろう。
 より本質的な批判もある。朝鮮王朝の宰相であるりゆうせいりゆうが執筆した文禄・慶長の役の記録『懲毖録ちようひろく』が、日本でも元禄げんろく八年(一六九五)に刊行された。福岡藩黒田くろだ家に仕える儒学者・貝原かいばら益軒えきけんが、この和刻本に序文を寄せている。
 貝原益軒は次のように論じる。戦争には義兵・応兵・貪兵とんぺい驕兵きようへい忿兵ふんぺいの五つがある。仁徳ある為政者は義兵(正義の戦争)と応兵(自衛戦争)のみ行う。国家が戦争を好めば必ず滅び、天下が戦争を忘れれば必ず危うい。豊臣秀吉の朝鮮出兵は貪欲・驕慢・憤怒に基づく貪兵・驕兵・忿兵であり、大義名分のある戦争ではないし、やむを得ない自衛戦争でもない。正当な理由なく戦争を起こすことは天道の憎むところであり、豊臣家が滅亡したのは自業自得である、と。前章でも触れたように、武力行使を嫌うのは儒教的思考である。また、ここにも天道思想の影響が看取される。
 江戸時代の支配的な思想である儒教に照らせば、豊臣秀吉の朝鮮出兵は一片の正当性もない暴挙である。戦後歴史学における「朝鮮侵略」批判と相通じる評価と言えよう。

朝鮮出兵肯定論

 けれども、朝鮮出兵を批判する声は、専ら体制擁護者たる儒学者から挙がるにとどまった。民間ではむしろ、朝鮮出兵を賞賛する意見が主流だった。軍学者の山鹿やまが素行そこうが記した歴史書『武家事紀』(一六七三年)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵は秀吉の逝去により挫折したものの、日本の武勇を外国に知らしめたという点で神功皇后以来の壮挙であると説く。そして、日本の諸将が不和であったために敵の策謀に落ちたが、もし団結していれば、朝鮮国どころかみん国をも滅ぼしていただろうと論じている(『武家事紀』巻第十四)。こうした主張は、北方ツングース系の狩猟民族である女真族が建てたしん国が、一六四四年に巨大な明帝国を滅ぼした歴史的事実を背景にしていたと思われる(当時の清の人口は明の一%にも満たなかったと言われる)。
 また『絵本太閤記』の六編・七編は朝鮮出兵を叙述しているが、七編冒頭の「附言」で貝原益軒に反論している。豊臣秀吉は卑賤ひせんから身を起こして天下を取った英傑であり、その大志は凡人の考えが及ぶところではない。昨今はつまらぬ人間が朝鮮出兵を貪兵だの驕兵だのと誹謗ひぼうしている。だが、「筆下に章を積む腐儒燕雀えんじやくの心をもつていかでか傑出英雄鵠鴻こくこうの大志を計り知らんや」というのである。
 右の一節は『史記』の「燕雀いずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや(小人物に大人物の志は理解できない)」を踏まえたものである。文筆で空理空論をもてあそぶ腐れ儒者には、英雄の偉業は理解できない、と貝原益軒を批判しているのである。なお、『絵本太閤記』は出兵の動機について、「人間の一生は短い。日本の統治のみに時間を費やすのは英雄の志ではない。日本の武威を外国に見せつけてやろう」と豊臣秀吉に語らせている。
 現代人から見ると、文禄・慶長の役という負け戦を起こした豊臣秀吉を、何故なぜそこまで賛美するのか、いささか奇異に思える。だが、民間レベルでは文禄・慶長の役が負け戦という認識は希薄だったように感じられる。
 江戸時代には多くの朝鮮征伐記もの(朝鮮軍記物)が執筆されたが、それらは基本的に、日本軍の局地的戦闘での勝利をクローズアップし、戦争全体における敗北には積極的に言及しなかった。一例を挙げると、軍学者の宇佐美うさみ定祐さだすけが著した『朝鮮征伐記』(一六六二年)は、著者自身が述べているように、「秀吉公の奇計・智謀」を顕彰することを目的としていた。こうした朝鮮征伐記ものの影響を受けた『絵本太閤記』も、加藤かとう清正きよまさをはじめとする日本軍の奮戦を特筆する。
 これらの書物を参考にした講談・浄瑠璃じようるり・歌舞伎も同様である。近松ちかまつ門左衛門もんざえもんの浄瑠璃『本朝三国志』(一七一九年初演)に至っては、加藤正清まさきよ(加藤清正)が遼東りようとう大王(朝鮮国王)を生け捕り、大王が土下座して命乞いをするなど、歴史的事実と懸け離れた場面を創作している(厳密に言うと「男神功皇后」という劇中劇での場面)。
 こうした芸能に接した江戸時代の庶民の間では、文禄・慶長の役が負け戦だったという認識は薄かった。そのことが、朝鮮出兵を肯定する意識、さらには秀吉人気につながったと考えられる。

「勤王家」秀吉像の形成

 日本の儒学者は儒学の本場である中国に憧憬の念を抱いている。したがって彼らは、中国に戦争を挑んだ文禄・慶長の役に対して否定的感情を持っている。こうした中国中心の価値観を批判したのが国学である。国学は、日本の古典を研究することで儒教・仏教渡来以前の日本独自の思想を発見することを目指す学問である。
 国学の四大人の一人とされる本居もとおり宣長のりながは、江戸時代以前の日本外交史をまとめた歴史書『馭戎慨言ぎよじゆうがいげん』を寛政かんせい八年(一七九六)に発表している。宣長によると、これまでの日本外交は弱腰すぎるという。天照あまてらす大神おおみかみの子孫である天皇が統治する日本こそが世界の中心であるべきで、中国や朝鮮のような西戎せいじゆう(西方の野蛮国)を服属させなければならないのに、その目的を達成できなかったと慨嘆している。
 本居宣長は中国崇拝や儒教的思考を「漢意からごころ」と呼んで批判したが、上の主張は中国の華夷かい思想を反転させた日本型華夷思想にすぎない。それはさておき、宣長の立場から見ると、朝鮮出兵は「すめら大御国おおみくにのひかりをかがやかし」た偉業ということになる。宣長は天明てんめい七年(一七八七)に刊行した『玉鉾たまほこ百首』で「まつろはぬ 国等ことごと まつろへて 朝廷みかどきよめし 豊国の神」と詠んでおり、朝鮮出兵を勤王精神の発露と解釈していた。
 らいさんようの『日本外史』(一八二九年)は、より一層、豊臣秀吉賞賛へと傾斜している。もし秀吉が女真族に生まれていたら、あいしんかく氏(清国を建てた女真族の氏族)の前に明国を滅ぼしていただろう、と説き、秀吉の雄才大略は、しんの始皇帝・漢の武帝を超えていると論じた。もっとも頼山陽は賞賛一辺倒ではなく、朝鮮出兵による国力の浪費が豊臣家滅亡につながったとも述べ、万里ばんりの長城をはじめとする大土木事業の結果、二代で滅亡した秦との類似性を指摘している。ただ、国力の浪費うんぬんは『甫庵太閤記』の受け売りであり、頼山陽の主張の力点は秀吉顕彰にある。
 頼山陽が豊臣秀吉を賞賛する前提には、秀吉を「勤王家」と捉える理解がある。文禄の役の後、明との間で講和交渉が行われるが、明は秀吉に対して「日本国王」に任命するという国書を送り、秀吉は激怒する。「自分は実力で日本を統一したので明の皇帝から任命されるいわれはない」と秀吉が述べるくだりは『豊臣秀吉譜』以来見られるものだが、『日本外史』はさらにセリフを追加している。「吾にして王とならば、天朝を如何いかんせん」と。ちなみに、このセリフは近代の国史教科書にも掲載され、人口に膾炙かいしやした。
 すなわち『日本外史』によれば、豊臣秀吉は、天皇を差し置いて自分が日本国王になることは不敬であると認識し、天皇を無視した明国の無礼をとがめたことになる。おそらく頼山陽の創作と思われるが、こうして「勤王家」としての秀吉像が形成されていく。

幕末の攘夷論と秀吉絶賛

 幕末に尊皇攘夷じようい運動が盛んになると、尊皇攘夷のさきがけとして豊臣秀吉が評価されるようになる。尊皇攘夷の志士に多大な影響を与えた長州の思想家である吉田よしだ松陰しよういんは、モンゴル帝国(元)と戦って捕らえられた南宋の忠臣であるぶん天祥てんしようが獄中で詠んだ漢詩「正気せいきの歌」に倣って、自身も憂国の詩「正気の歌」を詠んだ。そこには「墓に楠子なんしの志を悲しみ、城に豊公ほうこうの烈を仰ぐ」という一節がある。湊川みなとがわ水戸みと光圀みつくにが建てた楠木くすのき正成まさしげの墓の前で正成の忠節に涙し、大坂城を眺めて豊臣秀吉の偉業を思う、といった意味である。秀吉が南朝の忠臣である楠木正成と並べられており、秀吉が勤王の士と位置づけられていることは明瞭である。ここで松陰が念頭に置いたのは、やはり朝鮮出兵であろう。
 嘉永かえい五年(一八五二)、吉田松陰は友人で長州藩士の来原くるはら良蔵りようぞう(良三)に書状を送っている。そこでは、古代の日本は朝鮮半島の国々を服属させていたのに(『日本書紀』の主張だが、現在の歴史学界では歴史的事実とは考えられていない)、その後の日本は外国に武威を示すことができなかった。ところが、豊臣秀吉は文禄・慶長の役を起こして朝鮮を打ち破り、朝鮮を服属させていた昔の秩序を回復する勢いであったが、不幸にも秀吉が亡くなり、「大業」が成就しなかったことを惜しんでいる(「来原良三に復する書」)。松蔭は、嘉永七年にアメリカへの密航に失敗して投獄され、獄中で『幽囚録』を執筆したが、そこでは「朝鮮を責め、質を納め貢を奉ること、古の盛時のごとくす」という構想を示している。明らかに秀吉の朝鮮出兵を参照したものだろう。
 上の考え方は、過激な尊皇攘夷の志士だけのものではなかった。仙台藩の儒学者である大槻おおつき磐渓ばんけいは、父親がらん学者だったこともあり西洋通であり、欧米との貿易を容認する立場であった。そんな磐渓も、豊臣秀吉の朝鮮出兵を絶賛している。盤渓は元治げんじ元年(一八六四)に戦国武将の逸話をまとめた『近古史談』を発表している。そこでは、文禄二年(一五九三)の碧蹄館へきていかんの戦いに勝利した小早川こばやかわ隆景たかかげからの援軍要求を受けて豊臣秀吉が朝鮮渡海を検討するも断念したことについて、秀吉が五、六年若く、自ら朝鮮遠征を行っていれば、愛新覚羅氏より先に明国を滅ぼしていたであろうと説く。そして、秀吉は忽必烈(フビライ)・歴山王(アレキサンダー大王)・那波烈翁(ナポレオン)という三英雄と並ぶ「四傑」であり、秦の始皇帝や漢の武帝より上であると論評している。
 一般に幕末の政治対立は、尊皇派対佐幕派、攘夷派対開国派と整理されがちだが、当の江戸幕府が「尊皇攘夷」を唱えており、尊皇と攘夷は絶対の正義であった。幕府や親幕派の主張は幕藩体制を温存した上での尊皇であり、将来的な攘夷を目標とした一時的な開国である。こうした時代の雰囲気の中で、秀吉絶賛の傾向が強まっていく。

(つづく)


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