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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.8

信長の「勤王」は「革命」だった? 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

>>第一節 近世の織田信長像

第二節 近代の織田信長像

明治時代も豊臣秀吉の方が人気者

 だが、明治時代になっても織田信長の人気は芳しくなかった。明治四十年(一九〇七)、言論雑誌「日本および日本人」四七一号が「余の好める及び好まざる史的人物」という特集を組んだ。一二〇人ほどの有名人に好きな歴史上の人物、嫌いな歴史上の人物を問い、その回答(複数挙げても良い)を掲載したのである。作家の島崎しまざき藤村とうそん幸田こうだ露伴ろはん、歌人の佐佐木ささき信綱のぶつな日蓮にちれん宗の宗教家である田中たなか智学ちがくなど、錚々そうそうたる面々が参加している。
 アンケート調査の結果、一位に輝いたのは二〇票を獲得した豊臣秀吉であった。二位は楠木くすのき正成まさしげで一一票。三位は徳川家康で一〇票。では織田信長はと言うと、何と一票である。信長に票を投じたのは基督キリスト心宗の創始者である川合かわい信水しんすいだが、信水は「英雄としては織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を好む」と、いわゆる三英傑を並べているだけなので、信長に特段の思い入れがあるわけではない。
 信長を嫌いと答えた人物も、一人しかいない。裁判官の三淵みぶち忠彦ただひこが「イヤに神経質なるを嫌う」と答えている。「悪名は無名に勝る」という言葉があるが、明治期の信長は、悪役的な人気すらなかったのである。
 有名人ではなく、一般人の評価はどうだったのだろうか。冒険小説家の押川おしかわ春浪しゆんろうが主宰する雑誌「冒険世界」明治四十二年正月号の付録に、「全世界英雄番付」がある。読者からの投票結果をまとめたものだという。それによれば、東洋の横綱、すなわち一番人気は豊臣秀吉だという。なお、西洋の横綱はナポレオンである。東洋の大関はジンギスカンで、関脇は徳川家康、小結こむすび西郷さいごう隆盛たかもり北条ほうじよう時宗ときむねしんの始皇帝、諸葛亮しよかつりよう孔明こうめいみなもとの頼朝よりとも伊達だて政宗まさむねと続き、織田信長はなんと前頭六枚目の十位である。やはり秀吉・家康と比べて、人気が大いに劣っている。

山路愛山による信長評

 第一章で紹介した山路やまじ愛山あいざんの『豊太閤ほうたいこう』(一九〇九年)には、「信長論」という一節がある。『豊太閤』は豊臣秀吉の伝記だ。しかし、愛山の見るところでは、織田信長は秀吉の主人であると同時に「教師」であったから、秀吉を知るには教師たる信長を論じないわけにはいかない、という意図に基づき設けられた。
 山路愛山は織田信長の長所として、即断即決、虚飾や迷信を排した合理性、物事の本質を洞察する識見、桶狭間おけはざま合戦・長篠ながしの合戦などに見える軍事的才能、関所撤廃をはじめとする優れた政策、などを挙げる。だが愛山が一番評価したのは、人材を見出し、育てる能力であったようだ。『豊太閤』の冒頭で、愛山は「豊太閤という人物も信長にわねば空しく土民どみんと共に朽ち果てた」かもしれない、と述べている。しかし、愛山は信長を突然変異の天才とみなしているわけではない。愛山は信長の父である信秀のぶひでに注目し、「信秀朝臣あそんの雄志、信長に至って煥発かんぱつし、秀吉に至って成れり」と説く。
 上書は秀吉の伝記だから当然と言えば当然なのだが、織田信長の最大の功績は、豊臣秀吉という不世出の英雄を生みだした点にあり、と言わんばかりである。山路愛山は前述の「余の好める及び好まざる史的人物」にも寄稿している。好める人物として、源頼朝・足利あしかが尊氏たかうじ・豊臣秀吉・徳川家康の名を挙げているが、信長の名は挙げていない。また、この四人の伝記は書いているが、信長の伝記は書いていない。愛山にとって、信長は秀吉の露払いにすぎないのである。
 しかも、先の織田信長評は山路愛山の独創とは言えない。既に述べたように、信長の人材抜擢の妙は、早くも江戸初期に小瀬甫庵が指摘している。以後の各種太閤記も、秀吉の出世街道の序盤において、信長の慧眼けいがんが果たした役割に触れている。秀吉の才能を見抜いた賢君の側面に着目する愛山の信長評は、江戸時代における信長像を大きく脱するものではない。

徳富蘇峰の「経世的勤王家」論

 豊臣秀吉の陰に隠れがちだった織田信長が大英雄として脚光を浴びるきっかけを作ったのは、徳富とくとみ蘇峰そほうの『近世日本国民史』である。蘇峰は大正七年(一九一八)七月、自身が主宰する「国民新聞」に『近世日本国民史』の連載を開始した。『近世日本国民史 織田氏時代 前篇』が同年十二月に、『織田氏時代 中篇』が翌大正八年六月に、『織田氏時代 後篇』が同八年十月に刊行された。
 『近世日本国民史』の序文によれば、徳富蘇峰は明治天皇の崩御をきっかけに『明治天皇御宇ぎよう史』、すなわち明治時代史の執筆を思い立った。しかし明治時代史を書くには、その前提である幕末史を論じなければならない。そして幕末史を書くには、前提である江戸時代史を知らねばならない。このように歴史を遡っていけば際限がなくなるが、蘇峰は明治維新の精神の淵源は織田・豊臣時代にあると考え、織田信長から書き起こすことにしたという。
 徳富蘇峰は織田信長を「旧社会を打破して、新社会を打ち出するに、最も適当なる天の配剤」と絶賛する。信長の何が画期的だったのか。実のところ、蘇峰が語る信長のすごさは、そのほとんどが私たちの信長イメージと合致する。というより、蘇峰の革命児信長像が、現代に至るまで強い影響力を保ち続けたのである。
 たとえば、長篠合戦での鉄砲三段撃ちである。一般に、信長は三千の鉄砲隊を三隊に分けて交替射撃させることで武田たけだ軍を撃破した、と言われている。蘇峰は、信長のこの「斬新なる戦術」が、戦国最強とうたわれた武田騎馬隊の戦法を時代遅れにしてしまった、と賞賛する。関所の撤廃や楽市楽座などの経済政策も高く評価している。
 しかしながら、徳富蘇峰が最も重視した織田信長の画期性は、現代の私たちが想像するものとは全く異なる。蘇峰によれば、信長の最大の功績は「日本をして、天皇の御国たらしめたこと」だという。勤王精神という点で信長の天下統一事業と明治維新は共通するというのが蘇峰の理解で、『近世日本国民史』を織田信長から始めたのも、このためである。
 戦国乱世によって衰退した朝廷に対して織田信長が多大な援助を行ったことは、江戸時代から知られていた。ただし、信長が心の底から天皇を尊崇していたかどうかも、昔から議論されていた。新井白石は『読史余論』で、信長は天皇を政治利用していたにすぎないと主張している。尊皇攘夷の志士たちは信長の尊皇を額面通りに受け取ったが、さすがに蘇峰の見方はそこまで単純ではない。
 徳富蘇峰は、織田信長の勤王を「一種の方便」とみなす新井白石らの批判を棚上げし、信長の勤王が本心か否かという問題の立て方そのものを否定する。信長が天皇を日本の中心に据えたことが、後世の歴史に多大な影響を与えた、と主張するのである。
 蘇峰は言う。武力や権力だけでは、日本を統一することはできない、と織田信長は気づいた。将軍はあくまで武士の代表であり、幕府は武士の利益を守るための組織にすぎない。武士の利益を第一に考える幕府政治では、日本全国民の心を一つにすることはできない。政治的権威の源泉として皇室を奉戴することで、国家を統一するという構想に至ったのは信長だけである。信長は余人と異なり、皇室を雲の上の存在として神秘的・信仰的に尊崇したのではなく、「政治的に皇室の尊厳を認めた」。信長の勤王は具体的・現実的であり、信長は天皇を政治的に位置づけた「経世的勤王家」である、と。
 上は、あくまで徳富蘇峰の想像にすぎず、何ら史料的根拠を伴うものではない。織田信長が本当にそんなことを考えていたかどうかは分からない。皇室中心主義なら日本を統一できるという政権構想の前提には、戦国時代の日本人があまねく皇室を尊崇していたという事実が必要だが、そもそもこれが証明されていない。結局、蘇峰は明治維新における王政復古の理念を機械的に戦国時代にあてはめただけである。蘇峰の史論は、「幕府政治は間違っており、天皇が国家の中心にいることが日本の正しい姿だ」という歴史認識が、当時いかに支配的だったかを良く示している。

信長の「平民主義」と「帝国主義」

 徳富蘇峰は意識的に、江戸時代の儒教的価値観からの離脱を図っている。『近世日本国民史』で、蘇峰は江戸時代の儒学者の織田信長に対する批評をことごとく覆している。
 まず、織田信長が家臣に冷酷であったという小瀬甫庵の批判に反論している。信長は家臣に対して厳格であったが、信賞必罰であり、身分・家柄を問わず有能な人物を抜擢し、功ある者には厚く報いたと蘇峰は説き、「平民主義の実行者」と賞賛する。この信長賛美も、明治維新への高評価に由来する。
 徳川政権を滅ぼした維新政府が主張する支配の正統性の大きな柱は、「四民平等」である。江戸時代には身分制度があり、身分・家柄で人生が決まっていた。だが明治維新により、出自が卑しくとも才能と努力によって立身出世する道がひらかれた。だから明治政府の方が江戸幕府よりも優れている、というわけだ。この観点に立てば、抜擢人事を行った信長は江戸的ではなく明治的であり、ゆえに賞賛に値する。
 加えて徳富蘇峰は、織田信長は「詐力」で天下を得ようとしたと批判する新井白石にも反駁はんばくしている。蘇峰は言う。「もし信長が詐力を以て、天下を得たとすれば、白石がほとんど理想的明主と仰ぐ家康も、同様といわねばならぬ。信長の天下を得たのは、詐力ではない、実力だ」と。儒教的な倫理観では、謀略のような汚い手段は批判の対象だが、蘇峰から見れば策謀も実力のうちである。蘇峰は信長の富国強兵政策を手放しで賞賛している。「強いだけではダメで、徳が大事だ」という小瀬甫庵や新井白石の見方とは対極にある。
 こうした徳富蘇峰の考えを端的に示すのが、「無意識の帝国主義実行者」という織田信長に対する評価である。誤解なきように説明しておくと、この「帝国主義」という表現は、蘇峰にとって褒め言葉なのである。現代から見ると、帝国主義は他国を侵略し、植民地化することを肯とするとんでもない思想だが、蘇峰が信長を賞賛した当時は、帝国主義が世界を席巻していた。欧米列強が植民地獲得競争を進め、日本も日露戦争後、大陸への進出を加速していく。台湾も朝鮮も日本の植民地だった。この時代状況において、帝国主義を推進することは、悪ではなく、むしろ“正義”であったのだ。
 徳富蘇峰は、織田信長が本能寺の変でたおれていなければ、朝鮮・中国・東南アジアにまで進出していただろうと説き、豊臣秀吉の朝鮮出兵は信長の構想を継承したにすぎない、と主張する。推理小説家の井沢いざわ元彦もとひこ氏が『もし本能寺の変がなかったら信長はアジアを統一した』(宝島社、二〇一九年)を刊行する一〇〇年前に、上の説を唱えた蘇峰の先見性には驚かされる。
 そして、次のように説く。「我が島国以外に、世界あるを知らぬごとき、また島国内に安着して、一歩も外に踏み出すことを解せざるごときは、ただこれ鎖国政策の馴致じゆんちしたる、陋習そうしゆうであって、決して国民的本性ではない」と。蘇峰によれば、織田信長・豊臣秀吉の時代は、「日本がようやく世界化せんとする時代であった」が、「この新傾向を頓挫せしめたのは、文禄慶長役ぶんろくけいちようのえき―豊太閤朝鮮征伐―の失敗である。しかしてさらに、より多く頓挫せしめたのは、徳川氏の鎖国政策である」という。
 徳富蘇峰の意図は明らかだろう。大日本帝国の大陸進出を肯定するために、江戸幕府の鎖国政策を批判し、帝国主義を無意識のうちに実行した織田信長・豊臣秀吉を持ち上げているのである。織田・豊臣時代と明治・大正時代を重ね合わせて解釈しているにすぎない。「現代を理解するために歴史を学ぶ」という行為は、えてして「自分の政治的主張を正当化するために歴史を利用する」結果に陥るのである。
 詳しくは次章に譲るが、豊臣秀吉の朝鮮出兵を壮挙と捉える見方は江戸時代からあった。だが、秀吉ではなく信長こそが大陸進出の先駆けであると論じた点に、徳富蘇峰の独創性がある。蘇峰は以下のように語っている。「秀吉ありての信長でなく、信長ありての秀吉だ。秀吉は信長の臣下たるのみでなく、またその弟子だ。忠実なる弟子だ」と。

信長は革新者にして勤王家

 革命児織田信長というイメージは、徳富蘇峰のような民間史学だけではなく、アカデミズム史学にも共有された。今日の中世政治史の骨格を築いた歴史学者に、東京帝国大学文学部教授の田中たなか義成よしなりがいる。田中は大正八年(一九一九)に急逝したが、彼の東大での講義録が没後に弟子たちによってまとめられた。そのうちの一冊が『織田時代史』(一九二四年)である。なお、翌年には『豊臣時代史』が刊行されている。
 やはり、田中義成も織田信長を革新者として捉える。「その旧態を破壊する力の猛烈なる、建設的才能の斬新なるに至りては、前後にその匹なしというを得べし。この建設の前の破壊は、やがて革命的分子を含有し、破壊の後に来たれる建設は、革命的進歩を促進せり」と説く。また田中は、豊臣秀吉の事業は信長の遺業を継承したにすぎないと論じる。
 では、具体的に織田信長のどこが革新的だったのか。田中は「従来の戦術兵制を改革し、大砲小銃を用い、鉄砲隊・槍隊やりたいを組織し、鉄張の軍艦を造るに至る。この新戦術新武器を以て敵に対せしかば、戦えば必ずち、攻めれば必ず取り、ほとんど天下に敵なきの観を呈せしなり」と指摘する。長槍ながやり・鉄砲の活用、鉄甲船の建造といった天才戦術家としての信長像は、私たちにもなじみ深いものだろう。他にも田中は、関所撤廃や人材登用などにも触れている。
 けれども田中義成が最重視したのは、織田信長が室町幕府を滅ぼした点である。田中は「信長の幕府を廃し皇室を奉戴して、海内統一の計画をなせしは、鎌倉以来四百年の習慣を打破せる一大革新なりき」と説く。現代人の感覚では「勤王」は“復古”だが、戦前においてはそうではない。四〇〇年にわたる武家政治の伝統を覆すことは“革新”であり、信長は革命児という評価になる。もちろんこの田中の信長評は、江戸時代二五〇年の武家政治を打破して王政復古を実現した明治維新を念頭に置いたものである。
 新井白石は、織田信長が主君である足利義昭を追放したことを非難した。これに対し田中義成は、信長は「皇室に対する義昭の過失を弾劾」したのであり、「尊王主義」の発露であると擁護する。信長が足利義昭を追放したのは、義昭が皇室を軽んじたからであり、不忠ではない、という理屈である。もっとも、田中も義昭を追い落とすための策謀という側面を否定してはいない。
 足利義昭追放後、織田信長が征夷大将軍に就任しなかったことに、田中義成は注目する。その理由について田中は、「信長は皇室を中心とし、またこれを奉戴する以上、また武家なるものを立つるの必要なく、従って幕府の制を採るの要なければ、義昭に代わって政務を行うといえども、自らは朝廷の一員として、政治を奉行するに過ぎず……」と論じている。
 後述するように、織田信長が征夷大将軍にならなかったのは、足利義昭との和解の道を探っていたからだと考えられる。本能寺の変で信長が死ななければ、信長が義昭を京都に呼び戻して幕府を再興する、あるいは信長が将軍に任官する可能性もあっただろう。しかし、田中義成はそうした可能性を無視して、信長が武家政治を否定し、皇室中心の政治を構想していたと断言する。これは、天皇親政が正しく幕府政治は間違っているという大正時代の価値観を戦国時代に投影したにすぎない。

戦時下の織田信長像

 日本が軍国主義、国粋主義へと向かっていく中で、織田信長を勤王の武士として美化する流れはより顕著になっていく。美濃部みのべ達吉たつきちによる天皇機関説を否定した昭和十年(一九三五)の第二次国体明徴声明を受けて同十二年に文部省が刊行した『国体の本義』でも、織田信長の勤王が強調されている。
 さて、国民必読の書と謳われた『国体の本義』に関しては様々な解説本が出版された。その中の一つ、小島こじま徳弥とくや『解説 国体の本義』(創造社、一九四〇年)は、織田信長を「勤王の精神がきわめて厚く、つねに我が御皇室を奉戴して、天下に号令しようという壮図を抱いていました」と賞賛している。
 戦後に『織田信長文書の研究』(吉川弘文館、一九六九~七〇年)を上梓し、信長研究の水準を一躍高めた奥野おくの高広たかひろは、戦時中の昭和十九年(一九四四)に『織田信長』(春秋社松柏館)を発表している。同書で奥野は、織田信長は近世封建国家の礎を築いた人物であると論じている。この評価は、現代の私たちから見ても違和感はない。だが奥野は、信長を「皇室を奉戴して幕府を置かず、公家中心のような政治、しかも天下万民のためという至純な指導理念を持った」と礼賛する。
 徳富蘇峰や田中義成と同様の見解ではあるが、両者は信長の勤王をどちらかというと政治的に理解している。信長が単なる個人的感情で天皇を尊崇したという以上に、天下統一には天皇の権威が必要であると看破したがゆえに天皇を重んじた、という論調である。これに対して奥野は、そもそも信長の天下統一事業の動機を勤王に求めている。すなわち、戦乱の世を憂えている天皇のために信長は天下統一を志したという解釈であり、信長の純粋な勤王心が強調されている。奥野に従えば、信長の勤王は手段ではなく目的なのだ。
 さらに奥野高広は、他の戦国大名は自分の領国のことのみを考えていたのに、一人織田信長だけは天下万民を救おうとした。この志の高さゆえに信長は他の大名たちから抜きんでた、と説く。そこまでは良いのだが、何と奥野は、信長の天下統一事業と「大東亜共栄圏」を重ね合わせている。時局に迎合しないと本の出版もままならなかったのだろうが、いささか鼻白む。
 小説の世界も同様である。戦時中の昭和十七年(一九四二)に発表されたはやし信一しんいちの小説『織田信長』は第二章で紹介したので、ここでは昭和十一年三月に直木賞を受賞した鷲尾わしお雨工うこうが同年十月から十三年にかけて発表した歴史小説『織田信長』を取り上げよう。本作の信長は、最初から足利義昭のことを軽侮している。義昭を奉じたのも、天下統一の道具として利用するためである。これとは対照的に、信長の天皇への尊崇の念は極めて強い。
 さて、『どうかん』という史料によれば、織田信長は上洛以前に、内裏修理への献金などを依頼する勅使(天皇の使者)の訪問を受けている。鷲尾雨工はこのエピソードをかなり脚色して用いている。勅使の訪問を家臣の道家尾張守おわりのかみから聞かされた信長は恐懼きようくする。どんな用向きだろうと想像しようとするが、はっと我に返って「もったいない。想像するなどはもっての外だ!」と自分を戒める。
 綸旨りんじ・女房奉書を賜った織田信長は身に余る光栄と感激し、朝廷の窮乏に心を痛める。信長は「大御心おおみこころ」を安め奉るために天下統一を決意する。なお、「大御心」とは天皇の気持ち・考えを敬って言う言葉で、戦前には頻繁に用いられた。だが、戦国時代には用いられていない。戦時下の価値観を反映した表現と言えよう。
 鷲尾雨工の『織田信長』は、天皇への尊崇と将軍への軽侮の落差があまりに激しく、現代人には奇異に映る。だが戦前の日本人にとっては、そういう態度は当然だったのだろう。
 織田信長を主人公とした歴史小説ではないが、吉川よしかわ英治えいじの『新書太閤記』(『太閤記』のタイトルで一九三九~一九四五年に「読売新聞」に連載)も同様の信長像を提示する。足利義昭を奉じて上洛する前夜、信長は次のように述べて家臣たちを激励した。
「果てしない国内の騒乱と、群雄の割拠は、果てしない民衆の塗炭である。万民の苦しみは、一天の大君の御悩みであることはまたいうまでもない。先つ年、万里小路までのこうじ惟房これふさ卿をお使いとして、微臣信長に、密勅を賜わったが、今また、信長上洛の催しを叡聞えいぶんあらせられて、ひそかに、優渥なる御綸旨と、金襴きんらん戦袍せんぽうとを賜わった。――わが織田家は、父信秀の代より今日まで、武門の奉公は一に禁門の御守護にありと、その精神を鉄則としておる。ゆえに、このたびの上洛も、大義の軍であって、私の行動ではない。一日もはやく叡慮を安んじ奉らねばならぬ。――時は秋、汝らの飼馬も肥えておろう。各々、信長が旨を旨として、おくるるな、たがうな、あだに死ぬな。粉骨砕身、大君のいます都まで押し進めよ」(「読売新聞」昭和十五年五月十五日掲載分)
 義昭を奉じて上洛するというのに、義昭の名前が全く出てこない。ひたすら天皇への忠義が語られている。
 吉川英治は、徳富蘇峰らの「信長の勤皇は、人心収攬しゆうらんの一策であり、政治的に皇室の尊厳を認めて、功利的にそれに努めたものである」などという評を批判する。
「現わされた行為をもって、政治的意識によるとか、経世の方略であるとかいって片づけてしまっては、臣子の赤誠はあとかたもなくなってしまう。彼らの尊皇は、世をあざむくの偽善であるということにもなる。史家はなぜもっと深く行為の底を流れている本然の血液をてやろうとはしないのか。伝統すでに二千年、ときには建武けんむの前後、室町末期のごとき、世風の壊敗、人心のすさびなど、嘆かわしい一頃はあったにせよ、皇室への臣民の真心にはかわりはなかった」と、吉川は断言する(「読売新聞」昭和十八年四月二十二日掲載分)。
 上の原稿が掲載された同じ年の昭和十八年二月には、ソロモン諸島のガダルカナル島から日本軍が撤退し、大本営発表では「転進」と報じられた。四月には日本海軍が「い号作戦」を発動し、ソロモン海域で航空戦を展開、誇張された戦果が連日報道された。吉川英治の筆致は、そうした時代の雰囲気を良く反映している。

(つづく)


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