
信長は将軍も天皇も尊重していた 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」
呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第三節 戦後の織田信長像
「勤王家」像からの脱却
敗戦によって日本社会の価値観は一変した。勤王に至上の価値を置く風潮は消えた。織田信長を勤王家として描かなくてはならないという呪縛もなくなった。
第二章でも紹介したが、無頼派作家の
信長が戻ってきた。いつもの通りさッさと湯殿へ行く。道家がそれを追いながら、実はこれこれにて、朝廷の使者が見えております、アゝ、そうか、と云って、信長は風呂の中へとびこんで、湯ブネから首をだして、勅使のことを色々と質問し、新しい小袖の用意はあるか、ございますとも、それはもう用意に手ぬかりはございません、せっかく天皇様が日本国を下さると
お前も近頃武運のほまれ高く、天下の名将だとその名も隠れなく
皇室の暮しむきの窮状をなんとかしてくれ、というだけのことだ。まア、借金の依頼を一とまわり大きくしただけのようなものだが、これだけのことでも、朝廷から、頼みをうける、頼まれるだけの実力貫禄というものが
実のところ、坂口安吾は『道家祖看記』に記されている内容をかなり忠実に現代語訳しており、脚色は少ない。むしろ、鷲尾雨工の方が甚だしく脚色している。しかし、安吾一流のユーモアあふれる表現が印象的である。そこにはもはや、謹厳実直な勤王家の姿はない。
坂口安吾は以下のように記す。
朝廷とは何ものであるか。足利将軍家といえども朝廷によって征夷大将軍に任ぜられておるところの、しかして彼の父も朝廷によって、ようやく
綸旨といえば名はよいが、その真に意味するところは、たゞもう寒々と没落の名家の悲しさ、哀れさ、みじめさのみ漂う借金状ではないか。皇子の元服の費用を用立てゝくれよ、料地は人にとられて一文のアガリもないから取り返してくれよ、御所が破れて雨がもり寒風が吹きすさんでも修理ができないから、なんとかしてくれよ、信長を感奮勇躍せしめるよりも、哀れさに毒気をぬかれる方が先である。
皇室の権威が失墜した終戦直後の世相が、上の一節に良く表れている。では、坂口安吾は、勤王家に代えて、どのような信長像を提示したのか。
安吾の「織田信長」は、「死のふは
既存の価値観が完全に崩壊し、焼け野原となった敗戦直後の日本では、良く言えば死を達観しているような、悪く言えば刹那的な織田信長像が生み出された。これまた世相の反映である。
「合理主義者」像の萌芽
第二章でも触れたように、坂口安吾の「織田信長」は未完に終わり、安吾は改めて織田信長の小説を書いた。昭和二十七年(一九五二)から翌年にかけて、新聞「新大阪」に連載された『信長』である。本作では刹那的な色彩は薄まり、逆に信長の合理性が前作よりも強調されている。
坂口安吾は連載開始前の「作者のことば」で次のように記している。「信長とは骨の随からの合理主義者で単に理攻めに功をなした人であるが、時代にとっては彼ぐらい不合理に見える存在はなかったのだ。時代と全然かけ離れた独創的な個性は珍しくないかも知れぬが、それが時代に圧しつぶされずに、時代の方を圧しつぶした例は珍しいようだ。理解せられざるままに時代を征服した」と。この辺り、狂信的・非合理的な軍国主義・国粋主義によって自滅した戦前を風刺する意図があるのかもしれない。
要するに、織田信長は近代的な価値観を持った人物だった、というのが坂口安吾の理解だった。ゆえに中世人からは理解不能な怪物のように思われたが、私たち現代人にとっては、むしろ分かりやすい、ということになる。安吾が「かれの強烈な個性は一見超人的であるが、実はマトモにすぎた凡人なのかも知れない」と評したのは、そういう意味だろう。現代人から見れば信長の発想は普通であって、かえって神仏を深く崇敬している人物の方が不可解に映る。現代人が抱く織田信長像の原型は、安吾によって形成されたと言えよう。
けれども、坂口安吾は合理主義者の織田信長像を描き切れなかった。当初、安吾は本能寺の変まで書くつもりだったが、次第に執筆に難渋し、桶狭間の戦いで
鷲尾雨工が『織田信長』の自序で指摘しているように、織田信長を主人公とした小説は、雨工以前には存在しなかった。芝居でも
織田信長の一生を叙述しようとした場合、比叡山焼き討ちや
そういった事情を勘案すると、坂口安吾が信長一代記を書こうとして挫折し、青年信長の型破りな魅力を活写した痛快な青春小説として幕を引いてしまったのも無理はない。逆に、昭和二十九年(一九五四)から連載された
では、どうしたら新しい信長像を提示できるか。合理主義者としての織田信長を英雄的に描きつつも、無条件に礼賛するのではなく、その負の側面にもきちんと言及する。だが小説なので、あまり説明的になるのも良くない。信長の残虐性を印象づけるには、作中に批判者を〈もう一人の主人公〉として設定するのが
「革命家」像の定着
司馬遼󠄁太郎の『国盗り物語』は、織田信長を革命家と位置づける。司馬は信長をこう評す。「この人物を動かしているものは、単なる権力欲や領土欲ではなく、中世的な
前節で論じたように、織田信長を革新者とみなす見解は戦前からあった。ただし、戦前の信長像は「勤王」を根幹に据えていた。信長は幕府政治を否定し、天皇親政を志向したという意味において革新者だった、と解釈されたのである。
『国盗り物語』の織田信長は勤王家ではない。神仏すら信じない信長は、天皇や将軍といった尊貴の血に対して畏敬の念を抱いたりはしない。信長にとって将軍も天皇も、自分の天下統一事業の道具にすぎない。既存の権威・秩序に一切拘泥しないという意味で、『国盗り物語』の信長は革新者なのである。
上の見解は必ずしも司馬遼󠄁太郎の独創ではなく、戦後歴史学においても、織田信長は中世的権威を否定した革新者と評価された。戦時中に信長の勤王を賛美した奥野高広も、昭和四十年(一九六五)に発表した『信長と秀吉』では、信長は改革に対する社会の反発を、「皇室の伝統を利用するという政策」によって抑え込んだと説いている。戦後歴史学の信長論を巧みに物語に取り込んだところに、司馬の偉大さがある。
司馬遼󠄁太郎が創造した織田信長像、すなわち革新性と残虐性という光と影が同居する信長像は、以後の作品に決定的な影響を与えた。けれども次第に、前者の要素が卓越していく。たとえば、歴史小説ではなく伝奇小説だが、
織田信長の「革命家」像の極北とも言えるのが、
第一の工夫は、織田信長が尾張弁で話す点である。これによって「魔王」的な恐ろしさが薄らぎ、親近感が生まれている。第二の工夫は、信長の内面に分け入り、その心理を緻密に描写した点である。信長の
特に、本能寺の変に至る、織田信長と明智光秀とのすれ違いの描写に、『下天は夢か』の特徴が良く出ている。津本陽は、信長が光秀を
こうした構成の妙によって、津本陽の『下天は夢か』は、織田信長を主人公としつつも、明るい物語になっている。津本は信長を世界的な英雄として絶賛する。「彼は国内での重砲の製造に成功し、世界最初の装甲軍船を建造した。長篠における大銃撃戦は、世界戦史における最初の試みであった。政治面ではヨーロッパにおよそ百年を先んじて政教分離に成功し、日本を中世の混沌から近世へと脱皮させた」と語る。信長が本能寺で死んでいなければ、日本はスペイン・ポルトガルに
『下天は夢か』は一九八六年から一九八九年にかけて連載された。バブル経済の絶頂期で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と
織田信長は本当に革新者か
しかしながら、最近の歴史学界では、織田信長が革新者であるという理解が相対化されつつある。長篠の戦いでの鉄砲三段撃ち(輪番射撃)や第二次
織田信長の経済政策が先進的、画期的であったという通説的理解にも疑問がある。良く引き合いに出されるのは楽市楽座である。司馬遼󠄁太郎は『国盗り物語』で次のように指摘する。
信長は一国を攻めとるごとに、かれの法律、経済の施策を
座とは、天皇家・摂関家・大寺社などの「本所」によって特定の商品の販売独占権を与えられた特権商人集団である。米なら米座、油なら油座である。彼らは本所への上納金と引き替えに、独占権を得ていた。座のメンバーにならないと商売ができないので、座はカルテルとして機能した。こうした座の特権を剥奪して、誰でも自由に商売できるようにするのが、いわゆる楽市楽座である。
しかし、織田信長が自分の領国全体に楽市楽座政策を展開した形跡は見られない。一例を挙げよう。信長は
加えて、当時の大規模な座は日本最大の都市である京都に集中していたが、織田信長は京都の座を解体していない。信長が楽市楽座を適用した都市として史料上確認できるのは、信長の本拠地であった岐阜・
織田信長は既存のシステムを根こそぎ否定するのではなく、むしろ既得権者と折り合いをつけて、漸進的な改革を行っている。信長を「革命家」とみなすのは過大評価だろう。
実は将軍・天皇を重んじた織田信長
では、織田信長は既存の権威を否定する革新者だったのか。先述の通り、織田信長が当初から足利義昭を自らの天下統一事業のための道具とみなしており、義昭の
足利義昭と織田信長との間に摩擦があったことは否定できないが、両者は基本的に協調関係にあった。「義昭は表向きには信長を頼りにしつつも、裏では越前の朝倉義景・
こうした足利義昭の姿勢は、織田信長に対する偽装工作と考えるにはあまりに手が込みすぎている。義昭と信長は運命共同体であり、義昭から見ても朝倉・浅井・三好らは敵であった。時に信長と意見が衝突することがあっても、義昭は信長を必要としていた。対信長包囲網の黒幕が義昭であるという見方は、義昭と信長の決裂という結果から逆算した解釈にすぎない。
元亀三年(一五七二)十月に武田
元亀四年(天正元年)二月に足利義昭が挙兵した際も、織田信長は和睦を乞うなど低姿勢に徹した。拙稿「明智光秀と本能寺の変」でも指摘したように、義昭追放後も信長は義昭との和解を試みている。織田信長が征夷大将軍に就任しなかったのも、義昭との関係修復を模索していたためだろう。京都を離れた後も、義昭は依然として現職の将軍であり、信長の将軍就任は義昭の将軍解任を意味するからである。新井白石の主張とは裏腹に、信長は「主君への反逆」「下剋上」と世間から非難されることを恐れていた。
織田信長と朝廷との関係はどうか。歴史学者の
確かに、織田信長は朝廷の政治にしばしば介入している。だが近年、
むろん、織田信長が良かれと思ってやったことでも、朝廷から見れば「余計なお節介」だったかもしれない。だが、少なくとも信長の主観では、信長は朝廷を尊重している。尊重しているからこそ、口を出しているのである。
織田信長が朝廷の官職に就くことに消極的だったことを根拠に、信長は天皇の下に位置づけられるのを嫌った、と主張する人もいる。けれども、残された同時代史料を見る限り、朝廷を支えようという信長の姿勢は一貫している。拙著『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)で論じたように、信長が任官に後ろ向きなのは戦争に専念するためであり、天下統一後は征夷大将軍なり関白なり、何らかの官職に就いたと思われる。
戦前は勤王家扱いだったのに、戦後には天皇の権威に挑戦する革命児へと一八〇度転換したことから典型的に見られるように、織田信長の評価は、その時代時代の価値観に大きく左右されてきた。そうした先入観を振り払って、等身大の信長の姿を見極める作業は緒に就いたばかりである。
(第四章へつづく)