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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.9

信長は将軍も天皇も尊重していた 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

>>第二節 近代の織田信長像

第三節 戦後の織田信長像

「勤王家」像からの脱却

 敗戦によって日本社会の価値観は一変した。勤王に至上の価値を置く風潮は消えた。織田信長を勤王家として描かなくてはならないという呪縛もなくなった。
 第二章でも紹介したが、無頼派作家の坂口さかぐち安吾あんごが昭和二十三年(一九四八)に小説「織田信長」を発表した。鷲尾雨工がそうであったように、安吾も勅使訪問の逸話を記しているが、書きぶりは雨工とは大いに異なる。

 信長が戻ってきた。いつもの通りさッさと湯殿へ行く。道家がそれを追いながら、実はこれこれにて、朝廷の使者が見えております、アゝ、そうか、と云って、信長は風呂の中へとびこんで、湯ブネから首をだして、勅使のことを色々と質問し、新しい小袖の用意はあるか、ございますとも、それはもう用意に手ぬかりはございません、せっかく天皇様が日本国を下さると仰有おつしやるのですから、と、道家は日本国をもらった、もらった、とウワゴトみたいに言っている。それで信長もお風呂でバチャバチャ水をはねちらして、上キゲンであった。
 しかし、別に日本国の支配を命じるというような、たいした綸旨ではなかった。
 お前も近頃武運のほまれ高く、天下の名将だとその名も隠れなく請人うけにんの崇拝をうけているそうであるから、ついては朝廷に忠義をつくし、皇太子の元服の費用を上納し、御所を修理し、御料所を恢復かいふくしてくれ、こういう意味の綸旨であった。
 皇室の暮しむきの窮状をなんとかしてくれ、というだけのことだ。まア、借金の依頼を一とまわり大きくしただけのようなものだが、これだけのことでも、朝廷から、頼みをうける、頼まれるだけの実力貫禄というものがそなわったからのことで、いわば実力の判定を得たようなものだ。

 実のところ、坂口安吾は『道家祖看記』に記されている内容をかなり忠実に現代語訳しており、脚色は少ない。むしろ、鷲尾雨工の方が甚だしく脚色している。しかし、安吾一流のユーモアあふれる表現が印象的である。そこにはもはや、謹厳実直な勤王家の姿はない。
 坂口安吾は以下のように記す。

 朝廷とは何ものであるか。足利将軍家といえども朝廷によって征夷大将軍に任ぜられておるところの、しかして彼の父も朝廷によって、ようやく弾正だんじように任ぜられたところの、日本の第一の宗家である。とはいえ、現実において朝廷は虚器であり、足利将軍は老蝮ろうまむし松永まつなが弾正の一存によって生かしも殺しもされ、天下の政務は老蝮の掌中にある。
 綸旨といえば名はよいが、その真に意味するところは、たゞもう寒々と没落の名家の悲しさ、哀れさ、みじめさのみ漂う借金状ではないか。皇子の元服の費用を用立てゝくれよ、料地は人にとられて一文のアガリもないから取り返してくれよ、御所が破れて雨がもり寒風が吹きすさんでも修理ができないから、なんとかしてくれよ、信長を感奮勇躍せしめるよりも、哀れさに毒気をぬかれる方が先である。

 皇室の権威が失墜した終戦直後の世相が、上の一節に良く表れている。では、坂口安吾は、勤王家に代えて、どのような信長像を提示したのか。
 安吾の「織田信長」は、「死のふは一定いちじよう、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」の一節から始まる。太田おおた牛一ぎゆういちの『信長公記』によれば、信長が好んだ小唄の一節だという。安吾は信長の死生観を次のように語る。「一皮めくれば、死のうは一定、それが彼の全部であり、天下の如きは何物でもなかった。彼はいつ死んでもよかったし、いつまで生きていてもよかったのである。そして、いつ死んでもよかった信長は、その故に生とは何ものであるか、最もよく知っていた。生きるとは、全的なる遊びである。すべての苦心経営を、すべての勘考を、すべての魂を、イノチをかけた遊びである。あらゆる時間が、それだけである」と。「若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる」と、『堕落論』で戦後社会を皮肉った安吾の面目躍如であろう。
 既存の価値観が完全に崩壊し、焼け野原となった敗戦直後の日本では、良く言えば死を達観しているような、悪く言えば刹那的な織田信長像が生み出された。これまた世相の反映である。

「合理主義者」像の萌芽

 第二章でも触れたように、坂口安吾の「織田信長」は未完に終わり、安吾は改めて織田信長の小説を書いた。昭和二十七年(一九五二)から翌年にかけて、新聞「新大阪」に連載された『信長』である。本作では刹那的な色彩は薄まり、逆に信長の合理性が前作よりも強調されている。
 坂口安吾は連載開始前の「作者のことば」で次のように記している。「信長とは骨の随からの合理主義者で単に理攻めに功をなした人であるが、時代にとっては彼ぐらい不合理に見える存在はなかったのだ。時代と全然かけ離れた独創的な個性は珍しくないかも知れぬが、それが時代に圧しつぶされずに、時代の方を圧しつぶした例は珍しいようだ。理解せられざるままに時代を征服した」と。この辺り、狂信的・非合理的な軍国主義・国粋主義によって自滅した戦前を風刺する意図があるのかもしれない。
 要するに、織田信長は近代的な価値観を持った人物だった、というのが坂口安吾の理解だった。ゆえに中世人からは理解不能な怪物のように思われたが、私たち現代人にとっては、むしろ分かりやすい、ということになる。安吾が「かれの強烈な個性は一見超人的であるが、実はマトモにすぎた凡人なのかも知れない」と評したのは、そういう意味だろう。現代人から見れば信長の発想は普通であって、かえって神仏を深く崇敬している人物の方が不可解に映る。現代人が抱く織田信長像の原型は、安吾によって形成されたと言えよう。
 けれども、坂口安吾は合理主義者の織田信長像を描き切れなかった。当初、安吾は本能寺の変まで書くつもりだったが、次第に執筆に難渋し、桶狭間の戦いで擱筆かくひつしている。
 鷲尾雨工が『織田信長』の自序で指摘しているように、織田信長を主人公とした小説は、雨工以前には存在しなかった。芝居でも岡本おかもと綺堂きどうの『増補信長記』と小山内おさないかおるの『吉利支丹きりしたん信長』ぐらいで、信長は専ら豊臣秀吉や明智光秀を主人公とする作品に脇役として登場している。坂口安吾が信長の全生涯を執筆していれば、安吾によって戦後的な新しい信長像が確立したかもしれないが、そうはならなかった。
 織田信長の一生を叙述しようとした場合、比叡山焼き討ちや一向一揆いつこういつきに対する徹底的な弾圧など、信長の残虐な行為にも触れざるを得なくなる。戦前の信長は「勤王」という絶対の正義を体現しているため、作者はそれらの行為を肯定できたが、戦後になると、そうはいかない。「確かに織田信長は新しい世の中を築こうとしており、その理想には共感するが、だからといって目的を達成するために、あらゆる手段が正当化されるのか」という疑問を読者が持つのは自然である。何しろ日本人は、ほんの少し前に、己の信じる理想のためには手段を選ばないという思想を持った結果、途方もない誤りを犯したばかりなのである。
 そういった事情を勘案すると、坂口安吾が信長一代記を書こうとして挫折し、青年信長の型破りな魅力を活写した痛快な青春小説として幕を引いてしまったのも無理はない。逆に、昭和二十九年(一九五四)から連載された山岡やまおか荘八そうはちの『織田信長』は、本能寺の変までを描いているが、戦前の「勤王家」像を引きずっている。
 では、どうしたら新しい信長像を提示できるか。合理主義者としての織田信長を英雄的に描きつつも、無条件に礼賛するのではなく、その負の側面にもきちんと言及する。だが小説なので、あまり説明的になるのも良くない。信長の残虐性を印象づけるには、作中に批判者を〈もう一人の主人公〉として設定するのが上手うまいやり方である。中世的な常識を持った人間が、信長の伝統破壊や残虐行為を批判する。彼の視線を通して、読者は英雄信長を相対化する。そう、言うまでもなく、この手法によって大成功を収めたのが、昭和三十八年から四十一年にかけて連載された司馬しば遼󠄁太郎りようたろうの『国り物語』である。

「革命家」像の定着

 司馬遼󠄁太郎の『国盗り物語』は、織田信長を革命家と位置づける。司馬は信長をこう評す。「この人物を動かしているものは、単なる権力欲や領土欲ではなく、中世的な混沌こんとんを打通してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な欲望であった。革命家といえば信長の場合ほど明確な革命家があらわれた例は、日本史上、まれといっていい」と。
 前節で論じたように、織田信長を革新者とみなす見解は戦前からあった。ただし、戦前の信長像は「勤王」を根幹に据えていた。信長は幕府政治を否定し、天皇親政を志向したという意味において革新者だった、と解釈されたのである。
 『国盗り物語』の織田信長は勤王家ではない。神仏すら信じない信長は、天皇や将軍といった尊貴の血に対して畏敬の念を抱いたりはしない。信長にとって将軍も天皇も、自分の天下統一事業の道具にすぎない。既存の権威・秩序に一切拘泥しないという意味で、『国盗り物語』の信長は革新者なのである。
 上の見解は必ずしも司馬遼󠄁太郎の独創ではなく、戦後歴史学においても、織田信長は中世的権威を否定した革新者と評価された。戦時中に信長の勤王を賛美した奥野高広も、昭和四十年(一九六五)に発表した『信長と秀吉』では、信長は改革に対する社会の反発を、「皇室の伝統を利用するという政策」によって抑え込んだと説いている。戦後歴史学の信長論を巧みに物語に取り込んだところに、司馬の偉大さがある。
 司馬遼󠄁太郎が創造した織田信長像、すなわち革新性と残虐性という光と影が同居する信長像は、以後の作品に決定的な影響を与えた。けれども次第に、前者の要素が卓越していく。たとえば、歴史小説ではなく伝奇小説だが、半村はんむらりようの『産霊山むすびのやま秘録』(一九七三年)では、晩年の織田信長が天皇を乗り越えようと企図し、明智光秀はそれを阻止するために謀反を起こしている。また映像作品では、黒澤くろさわあきらの映画『影武者』(一九八〇年)以降、洋装の信長が描かれることが増え、信長の革新性がビジュアル面で表現されるようになっていく。
 織田信長の「革命家」像の極北とも言えるのが、津本つもとようの歴史小説『下天げてんは夢か』(一九八九年)だろう。本作は「日本経済新聞」に連載されたこともあって、楽市楽座など織田信長の経済政策への解説が手厚く、その革新性を強調している(なお、本作の信長も洋装を好む)。一方、信長の残虐性は、津本陽一流の工夫によって『国盗り物語』と比べると希薄化されている。
 第一の工夫は、織田信長が尾張弁で話す点である。これによって「魔王」的な恐ろしさが薄らぎ、親近感が生まれている。第二の工夫は、信長の内面に分け入り、その心理を緻密に描写した点である。信長の逡巡しゆんじゆんや葛藤も描かれ、冷徹一辺倒ではない温かな人間味を読者に感じさせる。
 特に、本能寺の変に至る、織田信長と明智光秀とのすれ違いの描写に、『下天は夢か』の特徴が良く出ている。津本陽は、信長が光秀を折檻せつかんしたという類の挿話は江戸時代の創作にすぎないと退ける。だが天下統一が近づき、信長にとって光秀の価値が低下し、信長が光秀を冷遇するようになったことは、津本も認める。それでも本作の信長は光秀を左遷するかどうかで迷い、左遷後もそれなりの地位には就けてやろうと考え、光秀にねぎらいの言葉もかけている。しかし、光秀には信長の真意は分からない。そして、失脚の恐怖におびえる中、信長を抹殺する機会が突然眼前に現れたのである。
 こうした構成の妙によって、津本陽の『下天は夢か』は、織田信長を主人公としつつも、明るい物語になっている。津本は信長を世界的な英雄として絶賛する。「彼は国内での重砲の製造に成功し、世界最初の装甲軍船を建造した。長篠における大銃撃戦は、世界戦史における最初の試みであった。政治面ではヨーロッパにおよそ百年を先んじて政教分離に成功し、日本を中世の混沌から近世へと脱皮させた」と語る。信長が本能寺で死んでいなければ、日本はスペイン・ポルトガルにして世界を席巻したのではないか、と津本は夢想する。
 『下天は夢か』は一九八六年から一九八九年にかけて連載された。バブル経済の絶頂期で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とうたわれた時期である。津本陽が織田信長の世界雄飛を想像したのも、このような時代状況が背景にある。同作以後、たに恒生こうせい『革命児・信長』(一九九八年。『信長 大志を生きる』〔一九九一年〕と『信長 華か、覇道か』〔一九九二年〕を合本して改題の上、文庫化したもの)、池宮いけみや彰一郎しよういちろう『本能寺』(二〇〇〇年)、安部あべ龍太郎りゆうたろう『信長燃ゆ』(二〇〇一年)などの作品で、既成の権威に挑戦する革命児のイメージが再生産され、社会に浸透していった。

織田信長は本当に革新者か

 しかしながら、最近の歴史学界では、織田信長が革新者であるという理解が相対化されつつある。長篠の戦いでの鉄砲三段撃ち(輪番射撃)や第二次木津川口きづがわぐちの戦いでの鉄甲船といった信長の「軍事革命」については、在野の歴史研究家である藤本ふじもと正行まさゆき氏らの研究によって、歴史的事実ではないという見解が現在では主流である。また、拙稿「明智光秀と本能寺の変」(『明智光秀と細川ほそかわガラシャ』筑摩選書)で論じたように、信長が兵農分離を進めたという通説にも疑義が呈されている。信長が軍事的革新者だったとは言いがたい。
 織田信長の経済政策が先進的、画期的であったという通説的理解にも疑問がある。良く引き合いに出されるのは楽市楽座である。司馬遼󠄁太郎は『国盗り物語』で次のように指摘する。

 信長は一国を攻めとるごとに、かれの法律、経済の施策をいた。たとえば商業活動には座を撤廃し、庶民のなげきであった通行税を廃止していった。信長の征服事業が進むにつれて、ふるい室町体制は土塊のように崩れてゆき、信長風の合理性に富んだ社会ができあがってゆくようであった。その革命の版図は、すでに東海、近畿、北陸、甲信地方におよんだ。

 座とは、天皇家・摂関家・大寺社などの「本所」によって特定の商品の販売独占権を与えられた特権商人集団である。米なら米座、油なら油座である。彼らは本所への上納金と引き替えに、独占権を得ていた。座のメンバーにならないと商売ができないので、座はカルテルとして機能した。こうした座の特権を剥奪して、誰でも自由に商売できるようにするのが、いわゆる楽市楽座である。
 しかし、織田信長が自分の領国全体に楽市楽座政策を展開した形跡は見られない。一例を挙げよう。信長は越前えちぜん朝倉あさくら義景よしかげを滅ぼした後、越前の中心的な市場であったきたのしようの軽物座(越前の特産品である絹布の独占的販売権を有した座)に対し、旧来の特権をそのまま保障している。その三年後の天正てんしよう四年(一五七六)、信長から越前統治を任されていた柴田しばた勝家かついえは北庄で楽市楽座を施行したが、軽物座と唐人座(中国から輸入された薬種を扱う座)は例外扱いとし、引き続き彼らの特権を認めた。軽物座・唐人座を保護する方針は、当然、信長の意向に沿ったものだろう。
 加えて、当時の大規模な座は日本最大の都市である京都に集中していたが、織田信長は京都の座を解体していない。信長が楽市楽座を適用した都市として史料上確認できるのは、信長の本拠地であった岐阜・安土あづちと、本願寺教団の寺内じない町だった金森かなもり(現在の滋賀県守山もりやま市に所在)だけである。
 織田信長は既存のシステムを根こそぎ否定するのではなく、むしろ既得権者と折り合いをつけて、漸進的な改革を行っている。信長を「革命家」とみなすのは過大評価だろう。

実は将軍・天皇を重んじた織田信長

 では、織田信長は既存の権威を否定する革新者だったのか。先述の通り、織田信長が当初から足利義昭を自らの天下統一事業のための道具とみなしており、義昭の傀儡かいらい化をもくろんでいた、という主張は、江戸時代から戦後に至るまで一貫してなされてきた。ところが、この通説も怪しくなってきている。
 足利義昭と織田信長との間に摩擦があったことは否定できないが、両者は基本的に協調関係にあった。「義昭は表向きには信長を頼りにしつつも、裏では越前の朝倉義景・近江おうみ浅井あさい長政ながまさらを扇動して対信長包囲網を築いた」と思っている人が多いようだが、これは『徳川実紀』など江戸時代の史料の記述に基づく幻影である。義昭が信長追い落としの陰謀をめぐらしていたという事実は、同時代史料からは確認できない。
 元亀げんき元年(一五七〇)六月に織田信長・徳川家康が朝倉義景・浅井長政を破った姉川あねがわの戦いには、足利義昭も信長と共に参戦する予定だった(『言継卿記』)。同年八月から九月にかけて行われた三好みよし三人衆との戦い(野田・福島の戦い)では、義昭は実際に軍を率いて出陣している。この間、義昭は信長の反対を押し切ってまで、三河みかわの徳川家康に対して出陣を要請しており(「武田神社文書たけだじんじやもんじよ」)、三好勢との戦いに主体的・積極的に関わっている。
 こうした足利義昭の姿勢は、織田信長に対する偽装工作と考えるにはあまりに手が込みすぎている。義昭と信長は運命共同体であり、義昭から見ても朝倉・浅井・三好らは敵であった。時に信長と意見が衝突することがあっても、義昭は信長を必要としていた。対信長包囲網の黒幕が義昭であるという見方は、義昭と信長の決裂という結果から逆算した解釈にすぎない。
 元亀三年(一五七二)十月に武田信玄しんげんが徳川領に侵攻した当初、足利義昭は徳川家康に対して御内書を送り、家康への支持を確約している(「鹽川しおかわ利員としかず氏所蔵文書」)。近年の研究では、義昭が明確に信長へ敵対的な姿勢を示すようになったのは、同年十二月の三方みかたはらの戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に惨敗して以降であると指摘されている。義昭は信長危うしと見て、自衛のために信長から信玄に乗り換えたのであり、信長の専横に怒って信玄らを扇動したわけではない。
 元亀四年(天正元年)二月に足利義昭が挙兵した際も、織田信長は和睦を乞うなど低姿勢に徹した。拙稿「明智光秀と本能寺の変」でも指摘したように、義昭追放後も信長は義昭との和解を試みている。織田信長が征夷大将軍に就任しなかったのも、義昭との関係修復を模索していたためだろう。京都を離れた後も、義昭は依然として現職の将軍であり、信長の将軍就任は義昭の将軍解任を意味するからである。新井白石の主張とは裏腹に、信長は「主君への反逆」「下剋上」と世間から非難されることを恐れていた。
 織田信長と朝廷との関係はどうか。歴史学者の今谷いまたにあきら氏の『信長と天皇』(一九九二年)以来、信長と朝廷との対立関係を説く論者が相次いだ。しかし、この見解も、現在の歴史学界では批判されている。
 確かに、織田信長は朝廷の政治にしばしば介入している。だが近年、金子かねこひらく氏や神田かんだ千里ちさと氏が指摘したように、信長が行ったことは基本的に朝廷の機能強化である。朝廷政治の腐敗を正し、朝廷の権威を高めようとしたのである。もし信長が天皇を乗り越えようと考え、朝廷と対立していたのだとしたら、むしろ朝廷の政務を骨抜きにするはずだ。けれども、現実の信長は「天皇の権威が失墜すれば、天皇を支えている自分自身の権威も傷つく」と考え、天皇・朝廷を支援したのである。この点で、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の信長像は近年の研究と親和性が高い。
 むろん、織田信長が良かれと思ってやったことでも、朝廷から見れば「余計なお節介」だったかもしれない。だが、少なくとも信長の主観では、信長は朝廷を尊重している。尊重しているからこそ、口を出しているのである。
 織田信長が朝廷の官職に就くことに消極的だったことを根拠に、信長は天皇の下に位置づけられるのを嫌った、と主張する人もいる。けれども、残された同時代史料を見る限り、朝廷を支えようという信長の姿勢は一貫している。拙著『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)で論じたように、信長が任官に後ろ向きなのは戦争に専念するためであり、天下統一後は征夷大将軍なり関白なり、何らかの官職に就いたと思われる。
 戦前は勤王家扱いだったのに、戦後には天皇の権威に挑戦する革命児へと一八〇度転換したことから典型的に見られるように、織田信長の評価は、その時代時代の価値観に大きく左右されてきた。そうした先入観を振り払って、等身大の信長の姿を見極める作業は緒に就いたばかりである。

(第四章へつづく)


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