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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.11

秀吉の評価ポイントは勤王と海外進出 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第二節 明治・大正期の豊臣秀吉像

維新政府による顕彰と朝鮮出兵への関心

 江戸時代には幕府の目が光っていたので、豊臣秀吉を大っぴらに顕彰することはできなかった。ところが明治維新によって、この状況は一変する。体制側が積極的に秀吉を顕彰したからである。
 慶応けいおう四年(一八六八)うるう四月、明治天皇が大阪に行幸した際に、大阪城付近に豊臣秀吉をまつる神社の造営を命じる御沙汰書が下された。そこには大略、次のような造営の趣旨が記されていた。秀吉は低い身分から出発し、自分の力だけで天下を統一し、大昔の聖人が成し遂げた偉業を継いで、皇室の権威を海外に広く知らしめ、数百年を経た今も外国に脅威の念を抱かせている。国家に尽くした功績の大きさは前代未聞のものである。その功績に報いようと朝廷は秀吉に神号を贈ったが、不幸にして豊臣家は断絶し、秀吉の大功は埋もれてしまった。明治維新を機に、廃絶した行事を復興したい。今は日本が世界に打って出ようという時代であり、秀吉のような英知雄略の人材が輩出されることを願って、秀吉を祀る神社を造営する、と。
 慶長三年(一五九八)に豊臣秀吉が没すると、翌年に朝廷は亡き秀吉に豊国とよくに大明神の神号を贈り、京都東山ひがしやまに建立された秀吉の廟所びようしよは豊国社と命名された。しかし、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)七月、江戸幕府は豊国大明神の神号を剝奪し、豊国社を破却することを決定した。秀吉正室のきたの政所まんどころ(ねね)の嘆願により、阿弥陀あみだみね山頂の秀吉の廟墓や本殿などは破壊を免れる。しかし幕府は修理を禁じたため、長い年月を経て荒廃してしまった。維新政府はこの豊国社を再興しようとしたのである。
 御沙汰書では大阪城の近くに社殿を造営せよと命じていたが、紆余曲折を経て、明治八年(一八七五)、京都東山の方広寺ほうこうじ大仏殿跡地に、豊国神社が造営されることになった。同十三年に社殿が完成し、遷宮式が行われた。
 上の御沙汰書の文章からは、なぜ明治政府が豊臣秀吉を賞賛したかが良く分かる。秀吉は、立身出世・攘夷・尊皇という明治政府の政治理念の体現者として位置づけられたのである。秀吉の事績のうち、特に朝鮮出兵を重視していたこともうかがわれる。
 こうした時勢を反映して、朝鮮出兵に関する作品が多数発表されている。代表的なものだけでも、河尻かわじり宝岑ほうきん依田よだ学海がつかいの歌舞伎『豊臣太閤裂封冊れつぽうさく』(一八九〇年)、福地ふくち桜痴おうち源一郎げんいちろう)の歌舞伎『太閤軍記朝鮮巻』(一八九一年)、木下きのした真弘さねひろの著作『豊太閤征外新史』(一八九三年)、北豊山人の著作『文禄慶長朝鮮役』(一八九四年七月)、松本まつもと愛重あいじゆうの著作『豊太閤征韓秘録』(一八九四年十月)などが挙げられる。
 これを見ると、一八九〇年代に入って朝鮮征伐記ものが急増したことが分かる。明治維新後、日本と清は朝鮮半島への影響力をめぐって角逐していた。一八八五年の天津てんしん条約によって日清間の緊張関係は一時的に緩和されたが、翌年に清の最新鋭戦艦である定遠・鎮遠などが長崎に寄港し、清国水兵が大乱闘事件を起こしたこともあり(長崎事件)、日本では清への警戒感が高まった。こうした情勢を背景に、明国と戦った文禄・慶長の役への関心が高まっていったのだ。
 一方、日本人の朝鮮蔑視観は、江戸時代とさして変わらなかった。明治二十四年に福地桜痴の『太閤軍記朝鮮巻』が上演された際、朝鮮の王妃と王子が捕虜になる場面について、朝鮮公使が国辱であると憤り、公演中止を求めたという(岡本おかもと綺堂きどう『明治劇談 ランプの下にて』)。この一件で興味深いのは、作り手や日本人観客は、本作を朝鮮側に配慮したものと捉えていた点である。朝鮮王朝の忠臣である伯寧はくねいが捕虜となって、同じく捕虜になった王妃らに謝罪する場面は同作の見せ場であり、伯寧も当時売り出し中の七代目市川いちかわ八百蔵やおぞうが演じた。
 朝鮮王族がとらわれの身となる場面を作って、「作者の方ではむしろ朝鮮側に贔屓ひいき」だと考えていたというのだから、朝鮮側をいかに軽侮していたかが分かる。これは先述した通り、江戸時代以来、文禄・慶長の役は「負け戦」であるという認識が希薄で、日本の武威を輝かせた栄光の歴史と考えられていたからだろう。芝居で朝鮮側が日本に屈服する場面が出てくることは、日本人にとっては当然だったのである。

日清戦争・日露戦争の影響

 明治二十七年(一八九四)七月から二十八年四月にかけて行われた日清戦争の勝利によって、豊臣秀吉人気は過熱していく。歴史学者の大森おおもり金五郎きんごろうは大正四年(一九一五)に「秀吉の外征」という論考を発表し、日清戦争当時を回顧している。
 大森金五郎は日清戦争開戦当時、勝敗についてたいへん心配していたという。「太閤秀吉のようなことになっては大変だ」と危惧していたのだ。ところが案に相違して、日本の大勝利となった。すると、世間での豊臣秀吉の評判も変わったという。「日清戦役後に日本の歴史を回顧して見ると、以前とは見方がズッと違った。太閤秀吉は偉大なる人物である。秀吉の外征は偉いといい、同じ秀吉を見るについて世人の考えがズッと違ってきた」と大森は証言している。朝鮮半島に軍を派遣して中国と戦った先達として、秀吉に対する注目が今まで以上に集まったのである。
 豊臣秀吉人気の上昇もあって、豊臣秀吉の没後三百年にあたる明治三十一年(一八九八)に京都で開催された豊太閤三百年祭は、大きな盛り上がりを見せた。豊太閤三百年祭を企画した豊国会(明治二十三年に豊臣恩顧の大名家などによって創設された豊臣秀吉顕彰の会。阿弥陀ヶ峯頂上に豊国廟を再建することを目的としていた)が明治三十年に発表した趣意書を見る限り、彼らは秀吉の勤王と海外進出を重視していた。
 政府の側も一層、豊臣秀吉の顕彰に力を入れた。明治三十四年には中学唱歌『豊太閤』(外山とやま正一まさかず作詞・たき廉太郎れんたろう作曲)が作られ、同三十六年には初の国定教科書『小学日本歴史』に「(秀吉は)諸外国をも、わが朝廷のご威光のもとに従わしめんとし、まず、朝鮮に案内あないせしめて、明国をたんとせり」という記述が登場した。従来は教科書ごとに秀吉の扱いは異なったが、以後は学校教育の場で秀吉の勤王・海外進出が強調されていく。
 大森金五郎も語るように、日露戦争後は秀吉礼賛に拍車がかかる。前章でも紹介したが、明治四十年に言論雑誌「日本および日本人」四七一号が「余の好める及び好まざる史的人物」という特集を組み、アンケート調査をしたところ、一位に輝いたのは二〇票を獲得した豊臣秀吉であった。新聞「日本」で健筆をふるった阪東ばんどう宣雄のぶおは、秀吉を好む理由として「日本第一の世界的人物」であることを挙げている。明らかに朝鮮出兵を念頭に置いた評価だろう。鹿児島出身の官僚で『贈正一位島津しまづ斉彬なりあきら公記』などを著した寺師てらし宗徳むねのりは「君臣の大義を弁じ、群雄を駕御がぎよし、ついに明韓征討の挙に及べり」「活量吞牛どんぎゆうの気宇は小日本たらんとする今日の人には好模範たり」と秀吉支持の理由を語っている。やはり評価ポイントは勤王と海外進出である。

山路愛山による朝鮮出兵の評価

 本連載でたびたび紹介した山路やまじ愛山あいざんの『豊太閤』(一九〇九年)最大の特色は、朝鮮出兵の原因として豊臣秀吉狂気説を明確に否定し、「豊公一代の大事業」として説得的に論じた点にある。愛山は説く。「加藤清正記、太閤記などには秀吉が朝鮮征伐を企てたるは愛子を失い無限の悲哀に基づくものにして畢竟ひつきよう人生の無常に感激したる反動にすぎずと記しあれども、はたしてしからんには全く狂気の沙汰というべきものにして英雄の事業とすべからず。秀吉ほどの細心家が左様なる不思議を働くべき訳もなければ、なお他に子細あるべし」と。ちなみに、『甫庵太閤記』には鶴松の死が契機になったとの記述はないので、愛山の言う「太閤記」は『絵本太閤記』などを指すものと思われる。
 山路愛山は「いずれの世にても世間の世論というものに逆行しては何事もなしがたし。秀吉の英雄にても最愛の子を殺したが残念なりとて、その鬱屈を散ぜんために兵を海外に用うというようなる夢のごときことにて大兵を動かしがたし」と論じる。これは重要な指摘である。『豊臣秀吉譜』や『絵本太閤記』に代表されるように、江戸時代以来、「諸大名はみな朝鮮出兵に内心反対だった」という歴史認識が支配的だったからである。ところが愛山は、いくら豊臣秀吉という独裁者であっても、周囲を説得できる理由なくして対外戦争を起こすことなどできない、と指摘したのである。
 では、開戦理由は何か。山路愛山の答えは至極単純である。勝てると思ったから、である。「今日こんにちにおいてすら強国の威力は常に防備に乏しく独立の実力なきものに向かって残酷に働きつつあるにあらずや。我輩は当時の大勢を観察して、統一したる日本の武力が、そのふるいたる鉄拳を大陸に加えんとしたるのむしろ自然なるを見る」というのだ。
 山路愛山は日露戦争直前の明治三十六年(一九〇三)、自身が立ち上げた雑誌「独立評論」創刊号に「余は何故なにゆえに帝国主義の信者たる」を発表した。帝国主義とは適者生存であり自然淘汰であり、健全な世界を作るための思想であると説き、内村鑑三の非戦論を批判した。弱肉強食を肯定する愛山が、朝鮮出兵に対して倫理的非難を加えるはずがない。
 では、日本はなぜ負けたのか。山路愛山の答えはすこぶる近代合理的である。すなわち、舜臣しゆんしんらの朝鮮水軍の活躍である。愛山は言う。「ナポレオンほどの豪傑にても海戦に勝利を得ざりし為にその雄図を空しくしたり。豊太閤の壮挙も海戦に勝利を得ねば実は成功すべき見込みなし……(中略)……征韓の役は実に軍国の一大亀鑑なり。海権を有せざる国はついに必ず失敗す」と。対外戦争を単に「壮挙」と捉え、無邪気に喜ぶ江戸時代的な感覚から、愛山ははっきりと決別している。これは一つには、日露戦争、特に日本海海戦を通じて制海権の重要性が国民に浸透したことに起因すると思われる。
 しかしながら山路愛山は、それでも朝鮮出兵には意義があったと語る。日本軍が明軍と互角に戦ったことで、「千余年来の恐支那病」を払拭し、「日本の強国たるよしを自覚」したことは大きな成果だったというのだ。要するに、中国恐るるに足らずとの気概が生まれ、それが日清戦争勝利の遠因になった、と言いたいのである。

徳富蘇峰の秀吉論

 明治四十三年(一九一〇)、韓国併合条約が結ばれ、大韓帝国は大日本帝国に吸収された(日韓併合)。朝鮮半島は日本の植民地となった。
 韓国統監だった寺内てらうち正毅まさたけが日韓併合の祝宴で「小早川 加藤・小西こにしが世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と詠み、側近の小松こまつみどりが「太閤を 地下より起こし 見せばやな 高麗こまやま高く 昇る日の丸」と返歌を詠んだ逸話は良く知られている。豊臣秀吉がなし得なかった朝鮮征服をついに実現した、というわけだ。日韓併合によって、豊臣秀吉の朝鮮出兵への関心は最高潮に達した。
 こうした流れを受けて豊臣秀吉論を展開したのが、徳富とくとみ蘇峰そほうである。大正九年(一九二〇)三月に『近世日本国民史 豊臣氏時代 甲篇』が刊行され、同十一年九月に『近世日本国民史 豊臣氏時代 庚篇』が刊行された。全七巻で秀吉の生涯を描ききった。矢継ぎ早の刊行であり、驚異の執筆速度と言えよう。
 徳富蘇峰は豊臣秀吉の勤王を強調する。しかも秀吉の勤王は、織田信長の打算的な勤王とは異なり、心の底からの勤王であるという。この蘇峰の説には、確たる史料的根拠がない。信長は冷徹だが、秀吉は情に厚い「天下の快男児」であるという通俗的な人物像を敷衍ふえんしたにすぎない。後述するように、秀吉が「人たらし」だという印象は『絵本太閤記』など江戸時代の物語によって形成されたもので、必ずしも秀吉の実像ではない。
 さて、徳富蘇峰は前掲の七巻のうち、三巻を朝鮮出兵に当てている。蘇峰の朝鮮出兵への関心の深さを物語る。その朝鮮出兵論は、外交に着目したところに特徴がある。従来の歴史家が個々の戦闘の叙述のみに注力してきたことを、蘇峰は批判する。蘇峰に言わせれば、「戦争ありての外交でなく、外交ありての戦争だ。秀吉は外交で朝鮮を手に入れ、その案内にて明国に乗り込まんとした。それが意のごとくならずして、朝鮮役は始まったのだ……(中略)……されば外交は主で、戦争は従だ」なのである。
 徳富蘇峰は自身の主宰する「国民新聞」で日露戦争を支持して部数を伸ばしたが、講和条約であるポーツマス条約には賛成した。蘇峰は「国民新聞」紙上で、賠償金が得られなかったのは残念だが、韓国の保護権や旅順りよじゆん大連だいれんの租借などを獲得したのだから戦争目的を十分に達成した、と持論を展開している。「国民新聞」は講和に賛成したほぼ唯一の新聞であったため、国民新聞社は逆上した民衆に襲撃を受けた(日比谷ひびや焼打事件)。
 対外強硬論を批判し、現実的な外交を重視する徳富蘇峰から見れば、豊臣秀吉の対明・対朝鮮外交はいかにも拙劣であった。「秀吉は半ば誇大妄想狂者となり、事相をありのままに観察するあたわなかった」と辛辣に評している。
 ところが、そんな徳富蘇峰ですら、朝鮮出兵を「絶対的の損失というべきではない」と擁護する。中国・朝鮮の活版印刷技術・製陶技術が伝わったとか、日本の造船技術が向上したなどの利点を蘇峰は挙げるが、彼によれば最大の効果は「日本国民に、多大なる自信力を扶植した」ことだという。要は山路愛山と同じで、中国こそが世界の中心である中華思想から脱却し、中国何するものぞという気迫を養うきっかけになった、ということである。
 朝鮮出兵は「日本国民における一種の刺激剤」であり、「贅沢ぜいたくなる海外留学」だったと蘇峰は説く。侵略された朝鮮側からすれば、「刺激剤」とか「海外留学」とか言われてはたまらないが、朝鮮半島が日本の植民地となっている当時の状況では、朝鮮出兵を「侵略」として非難する発想は出てこなかったのだろう。
 徳富蘇峰によれば、豊臣秀吉は卑賤から身を起こした成り上がり者であったがゆえに、当時の知識人階級の通弊である伝統的な中国崇拝に囚われることなく、明国を征服するという常識外れの考えを持てたという。蘇峰は言う。「秀吉の雄図英略は、むしろ無学のたまものだ」と。
 結局、徳富蘇峰も豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、手法の稚拙さを批判しつつも、構想の雄大さを評価する。立身出世・勤王・海外雄飛の三点セットで秀吉を賞賛する従来の流れを脱するものではなかった。

(つづく)


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