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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.5

信長の「親友」、そして「師匠」へ 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

>>第一節 近世の斎藤道三像

第二節 戦前・戦後の斎藤道三像

依然として「悪党」イメージ

 江戸時代には、封建的主従関係を重んじる価値観が支配的だったので、主君を裏切った道三の評価は芳しくなかった。しかし明治時代になると、少し風向きが変わる。
 明治四十四年(一九一一)に刊行された近藤羗村・物集梧水編『東西修養逸話』という本がある。東西とは東洋・西洋のことで、東洋・西洋の偉人の言行を集め、青少年の道徳教育にかすことを目的にしている。西洋の項では「ナポレオン、士卒を愛すること子のごとし」といった話が収録されている。東洋の項は「泣いて馬謖ばしよくを斬る」など、中国の故事をも含む。
 本書には「斎藤道三、油売りより立身す」と題して、道三の逸話も収載されている。悪行の限りを尽くした道三を道徳教育に用いるのは奇異に感じられるが、本書は「かくのごとく小手先の器用なるをもつて立身の端緒となすこと、もとより士君子のなすべきことにあらざれども、かりそめに目的のために手段を選ばずとすれば、油をぐ妙技もかえって面白きことなるべし」と説く。明治時代に立身出世を重視する風潮が強まる中で、道三に対して肯定的な評価も若干は見られるようになったのである。
 第一章で紹介した徳富とくとみ蘇峰そほうの『近世日本国民史』も見てみよう。『近世日本国民史 織田氏時代 前編』が刊行されたのは、大正七年(一九一八)のことである。蘇峰は、信長の舅である斎藤道三についても簡単に紹介している。「斎藤道三は、戦国の当時においてさえ、世間に指弾せられた程の悪党であった」「彼は天資惨酷の男であった」と批判しつつも、「されど彼は赤手にして、美濃の領主となっただけの権略・度胸ある男だ」と一定の評価を加えている。
 蘇峰は聖徳寺の会見を取り上げ、「道三は坊主より油売りとなり、油売りより美濃長井の家臣となり、その長井を殺し、さらに長井の主人たる土岐を放逐したるしたたか者である。この老獪ろうかいの道三と、ようやく二十歳になった信長との会見は、いかにも面白い対照ではないか」と評する。両雄の対面という捉え方だが、「対照」という表現に注目したい。血まみれの人生を送ってきた老人と、日の出のごとき勢いの清新な青年という対照を、蘇峰は見出みいだしているのだ。道三のイメージは、やはり陰湿で暗い。
 そして蘇峰は、道三の「残念なことである。わしの息子たちは、たわけの門外に馬を繫ぐことになるだろう」という発言に注目し、「さすがは悪党でも、道三は道三じゃ。美濃が婿引き出物となることは、道三の予言通りである」と述べている。『甫庵信長記』と同様に、道三の眼力を評価しているのだ。とはいえ、「老獪」「悪党」という評価が根本にある点には留意する必要がある。
 もう一つ重要なのは、蘇峰が『美濃国諸旧記』の道三の出自に関する記述を参考資料として引用している点である。『美濃国諸旧記』は必ずしも著名な史料とは言えないが、以後の歴史小説では、『美濃国諸旧記』に依拠して道三の下剋上を描いたものが多い。それは、蘇峰が『近世日本国民史』で引用したことが大きく影響しているのではないか。
 ただし、蘇峰は『美濃国諸旧記』の深芳野の話は採用せず、おそらく主に『信長公記』に依拠して、義龍を道三の実子とみなしている。

直木三十五『斎藤道三殺生伝』

 斎藤道三を主人公にした戦前の歴史小説の代表作は、直木なおき三十五さんじゆうごの『斎藤道三殺生伝』であろう。直木は大衆小説の大家であり、彼の名を冠した直木賞を知らぬ者はいまい。
 上の『斎藤道三殺生伝』は昭和七年(一九三二)に「オール讀物よみもの」誌上に連載された。昭和九年から刊行された『直木三十五全集』第三巻に収録されているので、現在でも簡単に読める。
 同作はタイトルが示す通り、悪党の斎藤道三を主人公にした悪漢小説である。道三は己の野心のために手段を選ばぬ冷酷な野心家として描かれている。おそらく『美濃国諸旧記』などを参考にしているのだろうが、本作の道三は松波庄五郎と名乗り、京都で油売りをしている。京都の治安は日に日に悪化し、油もろくに売れなくなってしまった。窮した庄五郎は旧知の南陽坊の勧めに従って、美濃に下って武士になろうと考える。庄五郎は独白する。「この乱れた世の中だ。こうして油を売っていたとて、餓死するだけなら思い切って、天下でも取るつもりになる事だ。将軍を殺して将軍に、守護を殺して守護に――一人を殺す事は、一足それへ近づく事だ。人を殺せば、悪いの、何のと、座して飢えるやつを、一思いに殺してやろう。かえって救いの道だ」と。
 本作の庄五郎は女房の浅里あさりを伴い、美濃へ下る。そして美濃土岐氏の家老である長井利隆(南陽坊の兄)の息子の利光としみつが浅里に色目を使っていることに気がつくと、庄五郎はいわば美人局つつもたせによって出世の糸口をつかむ。この話の典拠は確認できなかったので、直木の創作だろう。
 庄五郎は西村勘九郎かんくろうとなり、長井利隆と長井藤左衛門の対立を利用して、両者を殺す。道三が長井藤左衛門を殺したことは『美濃国諸旧記』『土岐累代記』『土岐斎藤軍記』などに見えるので、この話を脚色したと思われる。勘九郎はさらに斎藤利政としまさになり、月柄つきがらという美女を使って主君土岐頼芸を骨抜きにしたところで、いよいよ謀反を起こし、頼芸を追放する。道三は月柄を自分の妻とする。さらに長井利光を捕らえ、釜ゆでの刑にする。
 一方、浅里は男児を出産する。後の斎藤義龍である。しかし、義龍の父が斎藤道三か長井利光か、浅里にも分からない。この辺りも直木の創作だろう。義龍の父が道三でない可能性を示唆するが、深芳野の話は採用していない。
 義龍は成長し、浅里は病の床につく。義龍は浅里を見舞おうともしない道三を責めるが、「医者がある以上、わしが居たとて、死ぬ者が、助かるか」と取り合わない。道三は、女が夫のために身をささげるのは当たり前であると説き、「わし程の者の妻となり、ここまで、大きくした事に、己が、犠牲になったという、その満足心で、解脱すべきじゃ」とまで言ってのける。
 義龍は問う。

「父上は、手前も、時によっては、犠牲となされますか」
「致すぞ」

 義龍はさらに問う。

「では、手前が、父上を、殺しましても?」
「大いに、おもしろいの、それが、世の中、それが、戦国――ただ、男の力の、いかに強いかを示す事だけじゃ」

 本作で道三は、まさに下剋上の象徴として描かれる。
 義龍は月柄が産んだ異母弟二人を殺し、父道三との対決を決意する。長良川の戦いで道三は老醜をさらし、槍をとって戦うも、身体からだがふらつき、義龍の兵に笑われ、相手にされない。道三は切腹しようとするが、力が足りず上手うまくいかない。見かねた義龍が「討て」と命じ、道三は無惨な最期を遂げる。NHK大河ドラマ『麒麟きりんがくる』で本木もとき雅弘まさひろが演じた凜々りりしい道三とは大違いだが、悪漢小説の常として、主人公は最後には見苦しくなければならないのだろう。

信長とは正反対

 上の『斎藤道三殺生伝』で興味深いのは、織田信長が登場しない点である。義龍のセリフの中で名前が出てくるだけである。聖徳寺の会見も描かれない。第三章で詳述するが、戦前には織田信長は勤王家として評価されていた。本作に信長が出てこないのは、律義な勤王家である信長と、稀代きたいの悪党である道三とのきずなを描きにくかったからではないだろうか。
 そのことがはっきり示されているのは、戦時中の昭和十七年(一九四二)に発表されたはやし信一しんいちの小説『織田信長』である。この作品の信長は、朝廷・天皇を尊重する正義感の強い男である。そして斎藤道三は、信長とは正反対の人物として描写される。
 林は「斎藤道三入道という人間は、武勇に優れていたけれども、本来が身分の低い生まれであったため、武将としての高い教養も、本当の意味での礼儀といったものをも少しも持っていず、いわば成り上がりの武将であった。従って頭脳も、趣味も低く、その点子供のような単純な人間だった。が、彼は天性悪賢い、ずるさをもっている人間だった。このような人間が一人前の武将として存在できたのも乱世のゆえで、世の秩序が根底から動揺している時代だからであった」と酷評している。
 当然、義を重んじる織田信長と、悪党の斎藤道三とでは馬が合わない。道三の悪い評判を耳にしていた信長は舅の道三を嫌っていたが、聖徳寺の会見で実際に会って、ますます嫌いになった。うつけ者と噂される自分を笑いものにしようと考えていた道三の魂胆を察し、その下劣な品性に嫌気がさしたのである。一方、道三は予想外の「信長の態度の立派さ、厳粛さに息をまれて」しまい、周章狼狽しゆうしようろうばいするあり様。本作では、「残念なことである。わしの息子たちは、たわけの門外に馬を繫ぐことになるだろう」という道三の名言が引かれていないので、道三はやられっぱなしで、良いところがまるでない。

「マムシの道三」の誕生

 敗戦によって天皇制のタブーがなくなると、織田信長を勤王家として賞揚する風潮もなくなった。詳しくは次章に譲るが、無頼派作家の坂口さかぐち安吾あんごが昭和二十三年(一九四八)に発表した小説「織田信長」は、そうした時代の風を背に受けて、自由奔放な信長を活き活きと描いた。いわく、「信長は野良犬の親分みたいに、野放しに育った男だ。誰のいいつけもきかず、マネもせず、勝手気ままを流儀にして、我流でデッチあげた腕白大将であった」と。
 こういう性格の信長であれば、悪党の斎藤道三と気が合うだろう。安吾は道三を「当時天下に隠れもない大悪党の張本人の一人」と評している。また松永まつなが久秀ひさひでを「松永弾正だんじようという老まむし」と紹介し、「悪逆無道の張本人と申せば、当時誰でもこの二人のジジイに指を折り、その三本目は折らなかったものである」と述べている。本作では斎藤道三ではなく、松永久秀が「マムシ」と呼ばれている。
 安吾は道三の国盗りについて「油を売りながら兵法に心をそそぎ、昔の坊主仲間の南陽房にたよって、美濃の長井の家来となり、長井を殺し、長井の主人の土岐氏から聟をもらって、そのむこを毒殺、土岐氏を追いだして、美濃一国の主人となって、岐阜稲葉山いなばやまの城によった」と説明している。これは『美濃国諸旧記』と『信長公記』を足したような記述である。また、その人物については「悪逆陰険の曲者くせものだったが、兵法は達者であった。信長同様、長槍の利をさとり、鉄砲の利器たるを知って、砲術に心をくだいた」と記している。やはり、『美濃国諸旧記』を参照したものと思われる。
 聖徳寺の会見の描写は、『信長公記』に依拠しており、安吾の脚色は特にない。本作は未完に終わってしまったこともあり、道三と信長の交流を掘り下げて書いていない。
 安吾は改めて織田信長の小説を書いている。昭和二十七年(一九五二)から翌年にかけて新聞「新大阪」に連載された『信長』である。なお、当初は作者である安吾の名前は伏せられており、作者名を当てる懸賞募集が行われた。桶狭間の戦いまでの信長の青年期を描いている。
 最近、歴史学者の木下きのしたさとし氏が指摘したように、斎藤道三を「マムシ」と呼んだ初の文学作品は、坂口安吾の『信長』と思われる。江戸時代の史料には見えない表現なので、安吾の創作だろう。連載に先がけて安吾が発表した「作者のことば」にも、「信長に良い家来は少くないが、良い友達は一人もいない。多少ともカンタン相てらしたらしい友人的存在は斎藤道三と松永弾正という老いたる二匹のマムシであろう。歴史にも類のない悪逆無道の悪党とよばれた二人が揃って彼のともかく親友的存在の全部。むろんマムシの友情だから、だましたり裏切ったり、奇々怪々な友情だが、ともかく友情の血は通っていた」と記されている。
 上の文章で注目したいのは、斎藤道三と織田信長を「親友」的関係と評している点である。本編でも聖徳寺の会見以来、道三と信長の関係は密になり、道三は信長に感服し、信長は道三を信頼するようになる。義龍の挙兵を受けて、道三は信長に援軍無用と伝えたが、信長は出陣する。しかし、信長到着前に道三は戦死する。この二人の絆が本作の要と言っても良い。
 前述の通り、斎藤道三と織田信長の親密な関係性が描かれることは、戦前にはあり得なかった。信長は正義の人であり、道三は大悪党で、水と油だったからだ。敗戦を契機に信長像が転換したことで、道三と信長の絆が重視されるようになる。

司馬遼太郎『国盗り物語』の道三像

 斎藤道三を主人公に据えた戦後の歴史小説の代表は、言うまでもなく司馬遼太郎の『国盗り物語』である。「マムシの道三」という異名が人口に膾炙したのも、この作品がきっかけである。とはいえ、海音寺かいおんじ潮五郎ちようごろうの「武将列伝 斎藤道三」など、先行作品は幾つかある。特に昭和三十二年(一九五七)に「中央公論」に連載された中山なかやま義秀ぎしゆうの『戦国史記―斎藤道三―』は、『国盗り物語』に大きな影響を与えたと推察される。
 直木三十五の『斎藤道三殺生伝』に、直木の創作が多く入っているのに対し、中山の『戦国史記―斎藤道三―』の筋立てはおおむね『美濃国諸旧記』に沿っている。深芳野も登場する。
 ただ、中山独自の工夫も見られる。道三(当時は西村勘九郎)は一文銭の穴に油を通す芸を見せた後、襖絵ふすまえの虎の(一文銭ぐらいの大きさ)の瞳孔を十五間(約二十七メートル)先の彼方かなたから走り寄り、槍で貫けたら望みの物をもらうという賭けを主君土岐頼芸に提案する。道三は瞳と紙一重のところで槍の穂先を止めるという神技を見せ、賭けの景品として頼芸の愛妾である深芳野を得る。この逸話の典拠は確認できなかったので、道三が長槍の達人だったという『美濃国諸旧記』の逸話を元に中山が創作したのだろう。
 もう一つ興味深いのが、長井利隆の人物造形である。利隆は道三の旧友である南陽坊の兄にあたり、土岐氏の重臣である。利隆は道三の器量を見抜き、美濃において数少ない道三の支持者・理解者となる。しかし、利隆は道三が内に秘めた野心にも勘づいているにもかかわらず道三を支援するという、複雑な人物になっている。『美濃国諸旧記』をそのままなぞると、愚か者ぞろいの美濃の武士たちを道三が翻弄するだけの単調な展開になってしまうので、具眼の士を一人配することで物語に陰影をつけたのだろう。
 斎藤道三と織田信長の絆は、特に描かれていない。聖徳寺の会見は、実力主義でのし上がってきた道三が、新たな実力者にその地位を脅かされる予兆として位置づけられ、老境に達した道三の衰えが強調されている。
 さて、昭和三十八年(一九六三)から四十一年にかけて「サンデー毎日」に連載された司馬遼太郎の『国盗り物語』は、『美濃国諸旧記』を踏まえつつ、多くの想像を交えて道三の国盗りを活写している。道三が油売りと武士の二足の草鞋わらじを履くという奇抜な設定は、司馬の創意である。
 一方で、中山の『戦国史記―斎藤道三―』を参照した節が見られる。襖絵の虎の瞳を突く話は、同作から学んだのだろう。病身の長井利隆が、道三の野心に薄々気づきながらも、「無能の国主、無能の家老、無能の領主とは、乱世にあっては悪人だな」と語り、有能な道三に後事を託すくだりも、中山の作品に似ている。
 司馬の『国盗り物語』の画期性は、斎藤道三を進取の気性に富んだ改革者と位置付けた点にある。直木三十五の『斎藤道三殺生伝』をはじめ、従来の作品も道三を優れた統治者として描いてきたが、権謀術数や軍事的才能が前面に出ており、「名君」のイメージには程遠い。けれども『国盗り物語』の道三は、年貢の減免などの善政をくと共に抜擢ばつてき人事や楽市楽座などの改革を断行しており、革新的な戦国大名であることが強調されている。
 こうした斎藤道三像は、司馬の作品構想に起因する。昭和四十年(一九六五)に刊行された『国盗り物語』第一巻に付された「作者のことば」には、「新しい秩序の創造者として歴史は信長という天才をむかえるわけだが、信長という才能の出現には系譜がある。信長の先駆的人物として私は斎藤道三に興味をもち、それを書いた……(中略)……悪人であるが故に近世を創造する最初の人になった」とある。安吾は道三と信長を親友的存在と評したが、司馬はさらに踏み込み、道三を革命児信長の師匠とみなした。結果として『国盗り物語』は、道三の先進性を際立たせることになった。
 斎藤道三と織田信長の絆も、安吾の『信長』以上に詳しく描かれた。作中の道三は、聖徳寺で会った信長に若き日の自分を重ね、「わしが半生かかって得た体験、智恵ちえ、軍略の勘どころなどを、夜をこめてでも、語りつくしたい」などと記した手紙を信長に送っている。再三のラブレター攻勢に最初は薄気味悪く思っていた信長も、次第に心を開くようになる。
 近世以来、斎藤道三には「悪党」という負のイメージがつきまとっていた。だが司馬は、旧秩序の破壊者、つまり改革者だったからこそ「悪党」と呼ばれた、という大胆な読み替えを行った。そして、厳格な身分制度を正当化する役割を負った江戸幕府の御用学者たちによって、下剋上の体現者である道三は不当におとしめられてきたと非難したのである。『国盗り物語』によって道三像は劇的に転換する。
 数々の策謀を駆使しながらも、『国盗り物語』の斎藤道三にどこか明るさが感じられるのは、司馬の小説家としての技量ゆえである。実際、司馬本人も連載開始にあたって「大いに陽気に書いてゆきたい」と抱負を述べている。しかし、野心をみなぎらせた男が天下取りに向かって邁進まいしんしていく小説が大好評を博したのは、それだけでは説明できない。作品の前向きさが高度経済成長期という時代の雰囲気と合致したからこそ、『国盗り物語』は大衆に支持されたのだ。そして同作によって、道三像は確立した。

(つづく)


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