menu
menu

連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.13

江戸時代にも三成肯定論はあった 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第五章 石田三成――君側の奸だったのか?

第一節 近世の石田三成像

江戸時代は「奸臣」イメージ

 現在の石田いしだ三成みつなり像は、相反する二つのイメージによって引き裂かれている。すなわち、「君側のかん」と「豊臣とよとみ家の忠臣」である。後者の忠臣像を広く世間に流布させたのは、司馬しば遼󠄁太郎りようたろうの小説『関ケ原せきがはら』である、と考えている人は多いだろう。
 では、司馬遼󠄁太郎が初めて石田三成を忠義の人として描いたのかというと、実はそうではない。三成の忠臣像は、江戸時代から少しずつ形成されてきた。
 とはいえ、江戸時代の石田三成評価の基調は「奸臣」であった。豊臣秀吉ひでよしの威光をかさに着て横暴にふるまった悪人、というイメージだ。これは当然のことである。江戸幕府の創設者は徳川とくがわ家康いえやすであり、三成は家康の天下取りを阻止しようとした人物だから、家康が正義で三成は悪という評価にならざるを得ない。
 石田三成の奸臣イメージを初めて世に広めたのは、本連載でおなじみ、小瀬おぜ甫庵ほあんの『太閤記たいこうき』(一六二六年成立、以下『甫庵太閤記』と略す)である。『甫庵太閤記』は、文禄ぶんろくえき(豊臣秀吉の最初の朝鮮出兵)における黒田くろだ官兵衛かんべえ如水じよすい)・浅野あさの長吉ながよし長政ながまさ)と三成との確執を描く。文禄二年(一五九三)、黒田と浅野が囲碁に熱中して石田三成・増田ました長盛ながもり大谷おおたに吉継よしつぐにまともに応対しなかったため、これを恨んだ三成らが秀吉に讒言ざんげんしたという。
 加えて『甫庵太閤記』は、文禄四年の豊臣秀次ひでつぐ事件の原因も石田三成の讒言に求める。同事件に対する現代のイメージは、豊臣秀頼ひでより誕生により、秀吉が実子秀頼に天下を譲るために秀次へ謀反の罪を着せた、といったものだろう。しかし『甫庵太閤記』は、「秀次公在世し給わば、増田・石田の身の上あしかりなんと遠慮し、いよいよ讒言止む期なし」と記す。秀次を排除するために増田長盛・石田三成が秀次の悪行をあることないこと秀吉に吹き込んだというのだ。
 少し時代が下って、軍学者の山鹿やまが素行そこうが記した歴史書『武家事紀』(一六七三年)は、石田三成の評伝を次のように記す。「口才弁佞べんねいにして時宜に通ず……(中略)……天下の大小事を口入し、五奉行の一員たり。朝鮮在陣中、加藤かとう清正きよまさ及び嘉明よしあき、黒田長政ながまさ、浅野幸長よしなが等と大いに不和なり。かつまた折々譖詐しんさをかまう」と。やはり、秀吉に告げ口をして他人を陥れる人物という理解である。

「奸臣」イメージの確立

 石田三成の奸臣イメージを確立させたのが『武徳大成記』である。同書は幕府の命を受けてはやし鳳岡ほうこう木下きのした順庵じゆんあんらが編纂へんさんした歴史書で、貞享じようきよう三年(一六八六)に完成した。松平まつだいら氏の由緒から徳川家康の天下統一までを記す。幕府公式の歴史観を示す同書は、言うまでもなく家康による天下簒奪さんだつを正当化する性格を持つ。現在の通説では、それこそ司馬遼󠄁太郎の『関ケ原』がそうであるように、関ヶ原合戦に至るまでの政治過程において家康が様々な陰謀を企て、権力闘争を仕掛けたと考えられている。しかし『武徳大成記』はそうは書けないので、石田三成が加害者で、徳川家康は被害者であるという図式を提示する。
 まず、『武徳大成記』は、石田三成と増田長盛の謀略を描く。彼らは次のように考えた。五大老の両巨頭である徳川家康と前田まえだ利家としいえが手を組んで政治を行うことになれば、三成らは彼らの下でこき使われるだけである。三成らが権力を握るには、家康と利家を仲違いさせなくてはならない。そこで「石田・増田しきりに姦計かんけいを構えて、神君と利家と不和のはかりごとをなし」たという。
 拙著『陰謀の日本中世史』で指摘したように、徳川家康と前田利家の不和の原因は、家康の私婚問題にある。生前の豊臣秀吉は諸大名に対し、豊臣政権の許可なく婚姻関係を結ぶこと(政略結婚)を禁止していた。ところが秀吉が亡くなると、徳川家康は蜂須賀はちすか家政いえまさ・黒田長政・加藤清正・伊達だて政宗まさむね福島ふくしま正則まさのりらと婚姻関係を結んでいった。これは私党形成の動きであり、家康に野心ありとみなした前田利家や石田三成らは家康を強く非難した。ところが『武徳大成記』は、家康私婚問題に触れるものの、不和の根本要因は三成の離間策であると説き、家康の行動を正当化している。
 周知のように、石田三成は、前田利家の死の直後に発生した七将襲撃事件によって失脚する。だが『武徳大成記』によれば、その後も三成は陰謀をめぐらす。「三成、姦才ありて邪智じやち多し。佐和山さわやま蟄居ちつきよしてより以来、ひそかに国家を覆さん事を謀り、増田・長束なつかをして前田利長としなが・浅野長政を神君に讒す」というのである。これは、俗に言う「加賀かが征伐」を指す。増田長盛・長束正家まさいえが前田利長・浅野長政らによる徳川家康暗殺計画のうわさを通報したのだ。これを聞いた家康は加賀にいる前田利長を討つべく、動員令を発したという。利長は母芳春院ほうしゆんいんを江戸へ人質として送り、家康に屈服した。
 この「加賀征伐」は一次史料によって裏付けることができず、最近、歴史学者の大西おおにし泰正やすまさ氏が、軍事動員の事実はなかったという新説を唱えている。だが、その大西氏も、徳川・前田両氏が緊張関係にあったこと、芳春院の江戸下向によって和睦したことは認めている。家康が自ら密かに噂を流したかどうかはともかく、家康が自身の権勢拡大のために、この噂を最大限に利用したことは明白である。
 前田利長謀反の噂は徳川家康を利した。したがって、石田三成が増田長盛・長束正家を動かして前田利長を陥れるはずがない。『武徳大成記』は、利長に謀反の罪を着せた(おそらく冤罪えんざい)責任を三成に転嫁したのである。
 さらに、『武徳大成記』は大谷吉継のいさめをきかず、無謀な挙兵に踏み切る石田三成を批判的に描写している。同書で吉継は、七将襲撃事件で家康に命を救われた恩を忘れるべきではない、と諫めている。要は吉継の口を借りて三成を忘恩の徒と非難しているのだ。
 なお、『武徳大成記』と同時期に成立した福岡藩黒田家の歴史書『黒田家譜』も、石田三成が「罪なき内府だいふ公(家康)をほろぼし奉らんとて、天下を乱したる」と批判する。三成の讒言によって黒田官兵衛が窮地に陥った逸話も収録している。

「奸臣」イメージの肥大化

 石田三成を主人公とした近世軍記でも、やはり三成は悪役であった。天和てんな三年(一六八三)頃に成立した『石田ぶの少輔しよう三成記』はそこまで悪し様に描いていないが、元禄げんろく十一年(一六九八)成立の『石田軍記』は大悪人として描く。
『石田軍記』は「石田治部少輔三成、密にして遠きおもんばかりを、秀吉公の他界の後にめぐらして、天下を奪わんと謀りけるは、すさまじくぞ聞えける。ここに以後の大病となるべき者は、関白秀次公と、東君内府公とに帰せり。何卒なにとぞして二公を失い奉りて、事を遂げんとのみ日夜巧みける。文禄四年きのとのひつじの春の頃より方便てだてして、秀次公謀反の街談をば流して、児女に謡わしむ」と叙述する。つまり、石田三成は豊臣秀吉死後に天下を取るという野心を持っており、その障害となる豊臣秀次に謀反の疑いをかけて排除したというのである。
 そして首尾良く秀次を葬ると、石田三成はさらに家康排除の陰謀を思案する。三成は上杉うえすぎ景勝かげかつ側近の直江なおえ兼続かねつぐと接触し、秀吉死後の天下取りの計画を話し合う。二人は上杉景勝と徳川家康を争わせて漁夫の利を得ることを画策し、その下準備として家康寄りの蒲生がもう氏郷うじさとを毒殺した。そして三成は氏郷死後、旧蒲生領の会津あいづに上杉景勝を入国させた。
 豊臣秀吉が亡くなると、直江兼続は主君上杉景勝に城普請を勧め、徳川家康の会津征伐を誘発した。家康出陣の隙を突いて石田三成が挙兵するという流れである。『石田軍記』は家康私婚問題や七将襲撃事件に全く言及せず、石田三成の陰謀を強調している。関ヶ原合戦が起こったのは、全て三成のせいだと言いたいのだろう。
 近江おうみ佐和山二十万石を領するにすぎない石田三成が天下をうかがうなど、非現実的である。蒲生氏郷の暗殺に至っては荒唐無稽と言う他ない。だが、正徳しようとく年間(一七一一―一六)に成立したとされる『氏郷記』も、三成の讒言に基づき豊臣秀吉が蒲生氏郷を毒殺したと記している。
 備前びぜん岡山藩主池田いけだ氏に仕えた徂徠そらい学派の儒学者・湯浅ゆあさ常山じようざんが記した逸話集『常山紀談』(一七三九年に原形成立、一七七〇年完成)も、豊臣秀次事件の黒幕は石田三成であるという逸話や、三成が直江兼続と共謀して蒲生氏郷を毒殺したという話を載せる。さらに同書は、三成の決断力のなさをしま左近さこん清興きよおき)が嘆いた、関ヶ原の戦い前夜に家康本陣に夜襲をかけるという宇喜多うきた秀家ひでいえの提案を三成が却下したなどの逸話も収録し、三成の戦下手を強調している。

三成に好意的な逸話も

 もっとも、石田三成に好意的な逸話が存在しなかったわけではない。最近、関ヶ原軍記のこうらんしようとして注目を集めている『慶長けいちよう軍記』を見てみよう。同書は軍学者の植木うえきえつが著したもので、寛文かんぶん三年(一六六三)の自序を持つ。豊臣秀吉の死から戦後処理まで全てを叙述し、しかも関ヶ原合戦の前後に日本全国で行われた東軍と西軍の主要な合戦を網羅している。
 この『慶長軍記』も基本的には石田三成を批判している。三成は、秀吉存命中は主君の寵愛ちようあいをいいことに権勢をふるい、秀吉死後は徳川家康と前田利家との離間を謀った。大谷吉継の諫めもきかず、挙兵を決断する。関ヶ原合戦の前日、赤坂あかさかの家康本陣を夜襲しようと島津しまづ義弘よしひろが献策したのに、三成は「明日の勝利は疑いないので夜討ちは必要ない」と一蹴し、諸将は「まことに愚将なるかな」とあきれる。
 しかも、小早川こばやかわ秀秋ひであきが東軍に寝返るという情報を得ても、石田三成は「徳川家康が流した偽情報だ」と否定し、秀秋が誓詞を提出すると、あっさり信じてしまう。このように、『慶長軍記』は様々な挿話を通じて、三成が大将の器でないことを印象づけている。
 だが、敗北後の石田三成に対しては、『慶長軍記』は意外に好意的である。本書によれば、関ヶ原合戦に敗れた三成は、母の実家がある近江国古橋ふるはし村(現在の滋賀県長浜ながはま木之本きのもと町古橋)に逃れ、与次郎よじろうなる男にかくまわれたという。けれども東軍の捜索が近辺にまで及び、もはや逃れられないと観念した石田三成は、自分を差し出すよう与次郎を説得する。自分を匿ったと発覚したら、与次郎のみならず親類縁者にも累が及ぶからである。このように、『慶長軍記』は三成を、百姓の身を案ずる優しい人物、死を恐れない勇ましい人物として造形している。
 捕らえられた石田三成は大坂に護送された。福島正則・池田輝政てるまさ・浅野幸長・細川ほそかわ忠興ただおき藤堂とうどう高虎たかとらら東軍諸将は、「利口で知られた三成が何とみっともない。縄目の恥辱を受けるよりは関ヶ原で潔く戦死すべきだった」と嘲笑あざわらった。これに対して三成は、死に急ぐのは匹夫の勇であり、大将たる者は命を粗末にせず再起を期すべきだと説く。『慶長軍記』は、死を前にしても堂々と持論を述べる三成を魅力的に描いている。最後まで勝利を諦めない三成像は、『関ケ原合戦誌記』(一六八七年)・『関原軍記大成』(一七一三年)などに踏襲されていく。
 国文学者の井上いのうえ泰至やすし氏は、『石田軍記』など刊行された軍記は石田三成を「奸臣」としてのみ描くが、『慶長軍記』など未刊行(写本のみ)の軍記では三成の美徳に触れていると指摘している。江戸幕府による検閲という要素に注目した重要な指摘である。
 逸話集でも、石田三成に好意的な挿話は散見される。処刑直前、三成が白湯を所望したところ、白湯がないので干し柿を勧められたが、「痰の毒」であると断った話は良く知られていよう(『茗話記めいわき』『明良洪範めいりようこうはん』)。これまた、大志を抱く者は人生の最後まで命を大事にすべし、という信念を持った三成を賞賛する逸話である。
 儒学者の熊沢くまざわ淡庵たんあんが正徳六年(一七一六)に刊行した『武将感状記』には、有名な「三杯の茶」の逸話が載っている。歴史学者の中野なかのひとし氏は「三成の出自を寺の童子としておとしめたものとも見なしうるし、また、如才なさを武器に主君に取り入って、成り上がっていく鼻持ちならない人物とも評しうる」と解釈する。けれども、史料を素直に読んで、三成の才気を賞賛する逸話とみなして良いのではないだろうか。
 逸話集『備前老人物語』には、退出する時にちりを見つけて拾った小姓を織田おだ信長のぶながが褒めるという話が見える。また、信長が切った爪を集めた小姓が「爪が一つ足りないようです」と言い、信長が袖を払うと切った爪が一つ落ちたので、感心して褒美を与えたという話も載っている。また各種『太閤記』は、豊臣秀吉が機転の良さによって信長にかわいがられ、卑賤ひせんの身から立身出世していく様を肯定的に描いている。このように、主君のために細かいことにまで気を払うことは、武士にとって重要な心構えである、と平和な江戸時代には考えられていた。「三杯の茶」も、三成の気配りを評価する逸話と考えられよう。
 前掲の『常山紀談』にも、石田三成を賞賛する逸話が見える。同書は、三成が豊臣秀吉から近江水口みなくち四万石を賜った際、半分の二万石を割いて名将島左近を招いた逸話を載せている。加えて、捕らえられた三成が徳川家康の前に引き出され、「こうなったのも天運。早々に首をねられよ」と言うと、家康は「さすがに大将の器量なりける」と、その潔さに感服したという逸話も収録されている。 

石田三成「忠臣」論の登場

 以上で紹介した諸書は、石田三成が「奸臣」であることを前提として、三成の美点を挙げている。けれども次第に、三成を「忠臣」と評価する言説も現れてくる。
 第一章第三章で紹介した水戸みと光圀みつくにの言行録『西山せいざん遺事いじ』(一七〇一年)には、「石田治部少輔三成は、にくからざるものなり。人おのおのその主の為にすという義にて、心をたて事を行う者、敵なりとも、にくむべからず。君臣ともに心得べき事なり」とある。石田三成は徳川家康に敵対したが、それは主家である豊臣家を思っての行動なので、憎むべきではないというのだ。
 宝暦ほうれき三年(一七五三)に成立した『国事昌披しようひ問答』も興味深い。この本は、ゆうこうけんもうきゆう丹羽にわ四郎しろう左衛門ざえもん)という人物が加賀藩に関する故事逸話などを問答形式で記したものである。問答の一つに、石田三成の評価がある。捕らえられた三成が徳川家康の前に引き出されても堂々たる態度をとり、家康が「良将なり」と感心したという逸話を引き(『常山紀談』などを参照したか)、「太閤恩下の諸将数多の中に、一人棟梁として大軍を興す事、もっとも忠士というべきか」と問う。「答えて云わく、是なり」とする。豊臣秀吉の恩を忘れず打倒家康の大軍を起こした三成は忠義の士である、という評価である。
 続いて『尾州びしゆう贈答』も注目される。同書は、尾張おわり藩の軍学者である近松ちかまつ茂矩しげのりが遠隔地の軍学者とやりとりした往復書簡集である。その中に、安永あんえい二年(一七七三)十月に浜田市之進いちのしんに宛てた書簡が含まれている。同書簡によると、茂矩は関ヶ原軍記を執筆していたが、石田三成を「逆臣」ではなく「忠臣」と記したため、あちこちから批判されたという。これに対して茂矩は、「ただし、是も私一人の了簡のみならず候。水戸西山公の遊ばされ候御書の内に、忠臣三成と御書き遊ばされ候」と反論している。三成忠臣論は自分だけの見解ではなく、水戸光圀も述べている、というのだ。茂矩は「三成を忠臣と申すは恐れながら西山公と私一人と自負仕り候」と、自身の炯眼けいがんを誇っている。もっとも、逆に言えば三成忠臣論者は江戸時代には少数派だったことになる。

石田三成「好敵手」論

 さらに、石田三成は愚将ではなく名将であるという意見も登場した。関ヶ原合戦から五代将軍徳川綱吉つなよしの治世までに断絶した武家の歴史を記した『古今武家盛衰記』(十八世紀に成立か)は、巻一に「石田治部少輔三成」を配す。巻一の巻末には、三成の処刑を見物した人々が語り合った体裁をとって三成評が載せられている。そのうちの一人は「武士たらん者は、石田殿を守護神とも仰ぐべし。その故は、太閤薨御こうぎよ後、天下は内府公とは、犬打童も察識す。いわんや国々の諸侯、背くべき人なき中に、この時わずかに佐和山の一城主として、諸侯を語らい合せ、大乱を興す。不運にして本懐を達せざるは天なり」と三成を賞賛している。
 豊臣秀吉死後、次の天下人は徳川家康であると、誰もが思っていた。諸大名がみな家康に服従する中、佐和山城主にすぎない石田三成が敢然と立ち上がって打倒家康の旗を掲げたのはあっぱれであり、負けたのは不運にすぎない、というのだ。神君家康に立ち向かった勇気を評価しているのである。
 三成賛美がより甚だしいのは、ほり麦水ばくすいの『慶長けいちよう中外伝』である。本書は、金沢の俳人である著者が宝暦年間(一七五一―六四)に慶長年中の合戦を叙述した実録である。幕府の検閲を恐れてか刊行されず、写本の形でしか流通しなかったようである。
 本書の初編巻一には「発言慶長三傑」という章段がある。忘湖ぼうこ先生(麦水が設定した架空の人物)が戦国時代の英雄を論じる時に、「慶長の三傑」という言葉を盛んに用いたそうだ。聞き慣れない言葉なので、ある人が「三傑とは誰か」と尋ねると、豊臣秀吉・徳川家康・石田三成だと答えたという。三成は秀吉・家康と並ぶ英雄だと主張しているわけだから、大絶賛である。
 忘湖先生、つまり堀麦水によると、当時は前田利家・島津義弘・毛利もうり輝元てるもと・上杉景勝・蒲生氏郷・黒田長政などの勇将がいたが、石田三成は彼らより頭一つ抜けていたという。しかし三成は、天に選ばれた秀吉・家康と異なり、己の才覚のみを頼りにのしあがったので、滅びてしまったと説く。
 堀麦水は言う。豊臣秀吉があと五年長く生きられれば、石田三成が内約の通り、九州二国の探題になっていただろう(越前えちぜん転封てんぽうとなった小早川秀秋の旧領である筑前ちくぜん筑後ちくごを三成に与える計画を指す)。そうなれば三成の権威は上昇し、秀吉の死後は秀頼後見人の一人として豊臣家の天下を盤石なものにできただろう。そうならずに徳川の天下となったのは、天運によるものである、と。
 さらに、佐和山二十万石の石田三成が三百万石以上(実際には二百五十万石ほど)を領する徳川家康と対戦し、あと一歩で勝つところまで行ったことを『慶長中外伝』は賞賛する。すなわち、徳川家康を向こうに回して堂々と戦った石田三成を〝好敵手〟として評価しているのである。
 刊行されない本とはいえ、江戸時代にここまで石田三成を褒めたたえて大丈夫なのか。そう心配される方もいるかもしれないが、ご安心あれ。堀麦水はちゃんと逃げ道を用意している。『慶長中外伝』は「この敵手たるもの小人にして、天下の諸侯、是に何者か属せんや。三成を強いていやしめば、かえって徳川家の武を汚す大罪なるべし」と主張する。石田三成が小人物だったら、諸大名が彼に味方するはずがない。徳川家康の好敵手であった三成をいたずらに誹謗ひぼうすることは、かえって家康を貶めることになる、というのである。
 もっとも、この種の石田三成賛美は、やはり江戸時代においては例外に属する。徳山とくやま藩出身の国学者である飯田いいだ忠彦ただひこは著作『野史』の列伝で、三成を「姦臣」と批判している(ちなみに、主君を殺した明智あけち光秀みつひでは「逆臣」である)。飯田忠彦は安政あんせいの大獄に連座して拘禁された人物で、決して徳川寄りではない。そんな彼も三成を「姦臣」とみなしたのだから、三成の評判がいかに悪かったかが分かる。

(つづく)


関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年4月号

3月13日 発売

怪と幽

最新号
Vol.006

12月22日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP