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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.7

昔は人気がなかった“暴君”信長 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

第三章 織田信長――革命児だったのか?

第一節 近世の織田信長像

儒学者に批判された織田信長

 現在、日本で人気がある歴史上の人物と言えば、織田おだ信長のぶなが坂本さかもと龍馬りようまが二大巨頭だろう。信長には残虐なイメージもつきまとうが、そうした欠点を補って余りある革新者としての魅力が広く認識されている。
 ところが、江戸時代における織田信長の評価は、総合的にはむしろマイナスであった。本連載で縷々るる指摘してきたように、江戸時代には儒教が基本的価値観を形作っていたからである。
 小瀬おぜあんの『信長記しんちようき』(一六一一年頃成立、以下『甫庵信長記』と略す)は、織田信長は知勇兼備の名将で私利私欲に走らず、人を見る目があったと評価する一方で、「武道のみを専らに用い」て文をおろそかにした、家臣に対して酷薄であった、家臣の諫言かんげんを受け入れなかったことを批判する。儒教における理想的政治とは、仁徳によって人々を従わせる王道である。武力・策略によって人々を抑えつける政治、つまり覇道は好ましくないと考えられていた。戦いに明け暮れた信長の政治は言うまでもなく覇道であり、儒学者である甫庵から見れば手放しで賞賛できるものではなかった。甫庵は本書で「ただ国は富強をもつて利とする事なかれ。仁義有るのみ」と説いているが、これはまさに儒教の有徳思想である。
 ただ、織田信長の徳のなさを強調する甫庵の評価は、結果論的なところがある。甫庵は信長の滅亡は自業自得と語っている。要するに、徳がないから滅びたという論法である。甫庵の主張は、信長が哀れな最期を遂げたという結果から逆算しているとも言える。
 長井ながい定宗さだむねが編纂し、元禄げんろく十一年(一六九八)に刊行された日本通史『本朝通紀ほんちようつうき』でも、はやし羅山らざん徳川とくがわ家康いえやすに仕えた儒学者)の言葉を引く形で織田信長を「天性刻薄の人」と批判している。羅山によれば、信長は勇猛ではあるが仁徳がなく、功臣であっても用済みになれば処罰するという。そして、明智あけち光秀みつひでが人をむ虎であることに気づかず、軽率に虎の尾を踏んでしまったので光秀に裏切られた、と説く。家臣の使い捨ては佐久間さくま信盛のぶもりの追放を念頭に置いているのだろうが、基本的には、光秀謀反から遡及して「天性刻薄の人」と評価していると考えられる。
 第一章で、元禄十四年に編まれた水戸みと光圀みつくにの言行録『西山遺事せいざんいじ』が、「明智日向守ひゆうがのかみ光秀は、君をしいす大賊臣なり」と光秀を非難していることを紹介した。実はこの一節には続きがある。「その根は信長公の不徳におわしましけるよりいでたる所なり。いつの代にても、その君不徳ならば、その臣に明智がごとき者出来しゆつたいすべし」と光圀は語っている。光秀が謀反を起こしたのは、織田信長に徳がなかったからだという理解である。これも儒教的な考え方だ。仁徳ある名君なら、家臣に慕われるから、謀反を起こされることはない。逆に言えば、家臣の裏切りは不徳の君主であることの証明になる、というわけである。

「徳川史観」による信長批判

 もっと手厳しい評価もある。正徳しようとく二年(一七一二)に成立した新井あらい白石はくせきの『読史余論とくしよろん』は、織田信長を「天性残忍」と非難する。そして、信長は「詐力」によって権力を得たのだから滅亡は自業自得であり、不幸ではない、と白石は説く。白石は儒学者なので、やはり徳がないから滅びた、という儒教的な説明をしている。
 では、織田信長の「詐力」とは具体的に何か。これは、足利あしかが義昭よしあきを利用したことを指す。周知のように、信長は義昭を奉じて上洛じようらくし、義昭を征夷せいい大将軍に就けた。信長が急速に勢力を拡大できた最大の要因は、将軍義昭を守り立てるという大義名分を有していたことにある。しかし信長は、義昭を利用するだけ利用して、用済みになったら追放してしまった。主君を裏切るような「凶逆の人」が家臣に裏切られて滅亡するのは当然のことである、と白石は主張している。
 織田信長には優秀な人材を見極める眼力がある、という甫庵の主張に対しても、白石は批判する。信長が才能を見込んで抜擢ばつてきした人物と言えば、明智光秀と豊臣とよとみ秀吉ひでよしであるが、この二人がしたことを思い出してみよ。光秀は信長を殺し、秀吉は織田家から天下を奪ったではないか、と白石は論じる。能力だけで人を判断するのは誤りだ、と言いたいのだろう。信長にしろ、光秀にしろ、秀吉にしろ、能力はあるが仁徳や忠義に欠ける“乱世の姦雄かんゆう”にすぎない、というのが白石の評価である。
 もっとも、上の人物評は多分にポジション・トークだ。白石は江戸幕府六代将軍の徳川家宣いえのぶの側近として、「正徳の治」と呼ばれる政治改革を主導した人物である。当然、白石の著述は、江戸幕府・徳川家による支配を正当化している。白石は徳川家康を名君として持ち上げるために、必要以上に織田信長・豊臣秀吉をおとしめている。「家康様は信長・秀吉より上」と言いたいのである。

「勤王家信長」という評価

 民間における織田信長の評価はどうだったのか。そもそも江戸時代に、信長を主人公とした作品は少ない。豊臣秀吉を主人公とした各種太閤記たいこうきにおいて、秀吉の主君として信長は登場する。要は脇役である。江戸時代のベストセラー『絵本太閤記』を確認してみよう。
 『絵本太閤記』の織田信長評は、おおむね『甫庵信長記』に依拠している。すなわち、知勇兼備で私心がなく、人を見る目があるが、家臣のわずかな過ちも許さない。家臣の罪をいったん許すことがあっても、心の底から水に流したわけではなく、何年もってから過去の失敗を蒸し返して処罰する。信長の能力を評価しつつも、狭量さを強調しているのだ。
 また、第一章で紹介したように、浄瑠璃じようるり『絵本太功記』も尾田おだ春長はるなが(織田信長)を暴君として造形し、本能寺ほんのうじの変の理由を明智光秀の怨恨に求めている。こうした芝居に親しんだ江戸庶民は、信長に好印象を持たなかっただろう。
 織田信長を絶賛する嚆矢こうしは、らい山陽さんようの『日本外史』(一八二七年)だと思われる。頼山陽は、群雄割拠の戦国乱世において次々と敵を打ち破った信長の武略を賞賛し、「これを超世の才といわざるべきか」とまで言っている。
 ただし、頼山陽は単に戦に強いから織田信長を褒めたわけではない。山陽は尊皇そんのう思想の観点から信長を評価していた。山陽は『老人雑話』収録の逸話を引いている。以前にも紹介したように、同書は永禄えいろく八年(一五六五)に生まれ、寛文かんぶん四年(一六六四)に没した江村えむら専斎せんさいという医者が語った内容を、専斎の弟子の伊藤いとう坦庵たんあんが編集整理した聞書集である。専斎によると、彼が子どもの頃には内裏(天皇の居所)は荒廃しており、土塀もなく竹垣にいばらを結いつけている有様だったので、敷地内に入り込んで泥団子をこねて遊んでいたりしたという。だが、信長が上洛して内裏を修理した(『言継卿記ときつぐきようき』によれば永禄十二年の出来事)結果、ようやくまともになったと語っている。
 頼山陽が上の記事を引いたのは、信長の尊皇を賞賛するためだろう。続けて山陽は、応仁おうにんの乱以降、日本は分裂し、天皇のお膝元である京都すら常に戦場となった、信長以外の誰が乱世を鎮めて「王室を再造」できただろうか、と語る。信長による全国統一事業は天皇のためだった、と山陽は解釈したのである。なお、これ以前に国学者の平田ひらた篤胤あつたねが著書『玉襷たまだすき』(一八一三年頃成立)で、織田信長の功績として「天下に皇室の尊きを知らしめ給へり」ことを挙げている。
 幕末に尊皇攘夷じようい運動が流行すると、織田信長の尊皇がより一層喧伝けんでんされた。尊皇攘夷派の志士として活躍し、長州ちようしゆう藩士と共に禁門の変に参戦して自害した真木まき和泉いずみも、信長の勤王を賞賛している(「信長論」)。これには、徳川家を天皇に対して不忠であると批判するために、信長を勤王家として殊更に持ち上げるという側面もあったと思われる。明治維新後には、信長を主祭神とする建勲けんくん神社が創建された。

(つづく)


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