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連載

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 vol.6

油売りでも革新者でもなかった道三 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

>>第二節 戦前・戦後の斎藤道三像

第三節 斎藤道三の実像

親子二代の国盗り

 既述の通り、江戸時代から戦後に至るまで、斎藤道三は徒手空拳から美濃一国の大名に成り上がった、と基本的に考えられてきた。『江濃記』や『老人雑話』など、京都から美濃に下ってきたのは道三の父であると記す史料もあったが、主流の見解にはならなかった。
 ところが、昭和三十三年(一九五八)から始まった『岐阜県史』編纂事業の過程で新史料が発見され、通説が覆った。(永禄えいろく三年〔一五六〇〕)七月二十一日六角ろつかく承禎じようてい条書(「春日かすがたくみ氏所蔵文書」)である。
 南近江の六角氏は、斎藤道三に追放された土岐頼芸を庇護ひごしており、斎藤氏と長年対立してきた。しかし六角義賢よしかたが隠居し(剃髪ていはつして承禎と号す)、子息の義治よしはる(義賢の嫡男、当時は義弼よしすけ)が当主になると、義治は北近江の浅井あさい氏との対抗上、斎藤氏との同盟を模索する。すなわち、義治と斎藤義龍の娘との政略結婚である。
 承禎はこの縁談に反発し、義治の家老衆に反対意見を記した手紙を送った。それが上の史料である。この中で、承禎は斎藤道三の出自に触れている。以下に紹介しよう。
 斎藤治部じぶの大輔たゆう(義龍)の出自についてだが、義龍の祖父であるしん左衛門さえもんのじようは京都妙覚寺の法華ほつけ宗の坊主であったが還俗して西村と名乗り、長井弥二郎やじろうに仕えた。美濃国内の内乱に乗じて才覚を働かせて次第に出世し、長井一族になった。また、義龍の父である左近さこんの大夫たいふ(道三)は代々の長井氏惣領そうりようを討ち殺して(長井長弘・景弘かげひろ父子を指すか?)長井家を乗っ取り、さらに斎藤一族に成り上がった。その上、土岐頼充(土岐頼芸の甥)を婿に取って、頼充が若くして亡くなった後は、頼充の弟の八郎を言いくるめてくち(現在の岐阜市)に呼び寄せて、何やかやと理由をつけて殺してしまい、その他の兄弟たちも毒殺や闇討ちによって全て殺してしまった。このような悪事を行った道三が哀れな最期を遂げたのは因果応報である、と。要は、名門六角氏とは釣り合わぬ成り上がりの一族だと承禎は言っているのだ。
 六角承禎条書が説く道三の悪事の内容は、太田牛一の『大かうさまくんきのうち』とほぼ同じである(ただし前者は後者と異なり、土岐頼充の毒殺は否定している)。けれども、一つ大きな相違がある。六角承禎条書によれば、京都から美濃に下り、初めて長井氏を名乗ったのは、道三ではなく道三の父である新左衛門尉だという。六角承禎条書は同時代史料だから、『大かうさまくんきのうち』よりも信頼性が高く、親子二代の国盗りが史実と考えられる。私たちが道三の前半生と思ってきたのは、実は新左衛門尉の人生だったことになる。
 新左衛門尉が油売りだったとは思えないが、頼るべき縁者がほとんどいない新天地の美濃で、土岐氏の重臣にまでなったのだから、著しい身分上昇と言える。道三はその父の地位を引き継いだのだから、下剋上はしているものの、裸一貫からの国盗りではない。木下聡氏は、道三よりも新左衛門尉の方が出世具合は上だろう、と述べている。
 史料発見のタイミングを考慮すると、司馬遼太郎が上の史料を活用するのは難しかっただろう。何しろ『国盗り物語』完結後の昭和四十四年(一九六九)に刊行された『岐阜県史 通史編 中世』ですら、「道三=油売り」説を採用しているのである。六角承禎条書を収録した『岐阜県史 史料編 古代・中世4』が刊行されたのは、NHK大河ドラマ『国盗り物語』が放送された昭和四十八年のことである。
 しかし司馬の責任ではないにせよ、司馬の『国盗り物語』、そして本作を原作とした大河ドラマ『国盗り物語』の大ヒットによって、史料発見後も長らく「油売りから大名へ」という道三のサクセスストーリーが広く信じられてきた。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』によって、ようやく誤解が解消されつつある。

斎藤義龍の実父は土岐頼芸か

 第一節で述べたように、斎藤義龍の実父が土岐頼芸であるという話は、江戸時代中期以降に出てくる。太田牛一は、義龍が道三の子どもであることを疑っていない。
 斎藤義龍の母親に関する同時代史料が存在しないため、義龍の出生の経緯を解明することは困難である。だが、以下に掲げる状況証拠から判断すると、義龍が土岐頼芸の子であるという説は成り立ちがたい。
 太田牛一の『信長公記』によれば、長良川の戦いで斎藤道三を討った後、斎藤義龍は改名したという。すなわち「これより後、新九郎はんかと名乗る。古事あり。昔、唐にはんかという者、親のくびを切る。それは父の頸を切って孝となるなり。今の新九郎義竜は、不孝重罪恥辱となるなり」という。
 義龍(当時は利尚としひさと名乗っていた)が「范可はんか」に改名したことは、一次史料からも確認できる(弘治元年〔一五五五〕十二月日范可禁制、「美江寺みえじ文書」)。ただし、長良川の戦いを契機に改名したのではなく、道三を討つ前から改名している。
 范可に関する中国の故事は確認されていないが、どうやら父親の首を切ることで親孝行を果たした人物であるようだ。親殺しが親孝行というのは不審だが、病気で苦しむ親を楽にしてあげるとか、親の名誉を守るために殺すとか、そういう話だろうか。
 斎藤義龍は父親を討つことを正当化するために、「范可」と改名して「父を討つことが父への孝行になる」と主張したのだろう。木下聡氏は、「(道三が)実父でなければ、義龍自身が親殺しの代名詞の一つという『范可』の名に改めるようなことはしない」と指摘している。その通りだろう。仮に義龍が土岐頼芸の子だとしたら、『国盗り物語』がそうであったように、「道三は父どころか、実父の仇」「父の仇ならば子として討たねばならぬ」という話になり、「范可」の故事から離れてしまう。
 范可は後に斎藤高政たかまさと改名し、永禄二年(一五五九)には斎藤から一色に改姓している。名前も義龍と改めた。斎藤義龍ならぬ一色義龍である。もし義龍が土岐頼芸の息子であり、土岐家再興を旗印として斎藤道三を討ったのなら、一色ではなく土岐に改姓するはずである。また、道三に追放されて以降、各地を転々としていた頼芸を義龍が引き取ろうとした形跡も見られない。
 前掲の六角承禎条書で、承禎は「これまで土岐頼芸を保護してきた六角氏としては頼芸の美濃帰国に尽力すべきであり、斎藤義龍との同盟などあり得ない」と述べている。加えて、義龍が道三を討ったことを「親の頸を取り候」と非難している。明らかに承禎は、義龍を道三の息子と認識しており、頼芸の息子かもしれないとは露ほども思っていない。
 戦国時代には親子骨肉の争いが珍しくなかったが、伊達だて稙宗たねむね晴宗はるむね親子や武田信虎のぶとら晴信はるのぶ(信玄)親子など、子が親に勝利した場合は、追放・隠居にとどめ、殺害にまで及ぶことはまずない(親が勝った場合はしばしば子を殺す)。儒教的価値観が浸透した江戸時代においては、斎藤義龍が道三を殺したことはなおさら理解しがたかっただろう。木下氏が推測するように、土岐頼芸の子という話は、この不可解さを解消するために創出されたと考えられる。しかも、この説を採れば、代々美濃を支配してきた土岐氏を追放した道三が美濃の人々を心服させたこと、猛将の道三があっけなく滅びたことも、上手く説明できるのである。

道三は先進的な大名だったのか

 美濃一国の支配者となった斎藤道三の政治について、『国盗り物語』は以下のように記す。「城下の楽市の数をふやし、どんどん町人を呼び、かれらのための町割りも庄九郎(筆者注:道三のこと)自身がした。さらに人集めのために、よく流行はやる本尊をもった神社仏閣によびかけ、それらに土地を与え、城下に誘致した。このため、京都以東におけるもっとも繁栄した都会が現出し、人は遠国おんごくからもやってきて、人口は毎日ふえた」。楽市とは、誰でも自由に商売ができる自由市場のことである。次章で詳述するが、中世においては、特定の商人しか取引できない市場が少なくなかった。道三はそうした規制を撤廃したと言うのだから、まさに名君のイメージである。
 実態はどうだったのだろうか。実のところ、斎藤道三が楽市令を出したことを示す史料は存在しない。美濃攻略後に織田信長が岐阜に設けた楽市は、斎藤氏時代からあった楽市の継承(信長による再認可)ではないかという見解も提出されているが、道三の治世まで遡るかどうかは分からない。「京都以東におけるもっとも繁栄した都会」という評価にも何ら史料的根拠はない。
 道三の一生は、美濃内外の敵との戦いに明け暮れたものだった。織田信秀のぶひで(信長の父)をたびたび破るなど戦上手の反面、内政に見るべきものはない。昭和五十五年(一九八〇)に刊行された『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』で、歴史学者の勝俣かつまた鎮夫しずお氏は「道三時代、当時他の戦国大名がつぎつぎにうちだしている民政の新しい施策に匹敵するものは、現在のところ、その片鱗へんりんすらうかがえないのである」と述べている。
 一例を挙げよう。当時、戦国大名が多く発給した文書様式に印判状がある。文字通り、印判(印章)をした文書である。従来、大名家が出す発給文書の中心は、大名当主が花押(サイン)を据える判物であった。しかし次第に、同内容の文書を短期間に大量に発給するため、日常的な行政命令などは印判状で行うようになった。日本史学界では、印判状の発給は戦国大名の行政機構の成熟を測る指標の一つと考えられている。
 ところが、斎藤道三が印判状を用いた徴証はない。史料から検出できる側近の数も少ない。謀略によって美濃を奪った道三には、信頼できる家臣が少なかったのだろう。独裁色が強く、統治システムは未整備だった。これに対し、父道三を討った義龍は、六人衆と呼ばれる重臣たちを通じて安定的な美濃統治を実現した。印判状も用いている。道三・義龍親子の争いで、義龍に味方する者が多かった事実は、道三の独裁への強い反感を物語る。
 『国盗り物語』を読んでいると、斎藤道三の改革に対する“抵抗勢力”の反発が義龍の挙兵に結実したように思えてくる。だが、道三が革新者だったという前提が実は危うい。司馬が道三の先進性を強調したのは、信長の師匠という設定に基づく。いわば作劇上の都合である。油売りという道三の出自伝承も活かしつつ、「経済制度の革命の必要を信長におしえたのは、道三である」と断言したのだ。
 司馬の「革新者道三」のイメージは、今回の『麒麟がくる』でいくぶん相対化されたように感じる。今後どのような道三像が生み出されるか、楽しみである。

(第三章へつづく)


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