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連載

櫛木理宇「虜囚の犬」 vol.33

心理学のプロは、証言者の「嘘」を見破れるか? 怒濤のどんでん返しが待ち受ける、衝撃のミステリー! 櫛木理宇「虜囚の犬」#7-4

櫛木理宇「虜囚の犬」

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      7

 たゆたう眠りの波は、電車の揺れの記憶に夢をさらっていく。
 白石はかわに摑まり、夜の電車に揺られていた。すぐそばでは、こんが同じく吊り革を摑んで立っていた。
 彼女のほんのり染まった目のふち。漂ってくる、かすかなアルコール混じりの甘い香り。これはシャンプーだろうか、それとも香水か。
 座席は埋まっているものの、電車は混んでいなかった。白石はふと、人波の中に知った顔を見つけた。
 反射的に片手を上げる。確かに目が合ったと思った──が、相手は顔をそむけて隣の車両へ移っていった。
 上げた手の行き場を失い、白石は目をしばたたいた。
 車内アナウンスがゆったりと流れる。
「この電車は区間準急、きたかす行きです。……お客さまにお願いいたします。座席はお互いに譲りあってお掛けください。……次は、業平──」

「……お兄ちゃん?」
 まぶたをひらくと、が真上からのぞきこんでいた。
 白石はうなりながら、緩慢に上体を起こした。頭を振る。どうやらソファでうたた寝してしまったらしい。手から落ちたらしい読みさしの本が、床でページなかばで伏せられている。
「おまえ、どうしたんだ、仕事は……」
「なに言ってるの。今日は日曜よ」
 あきれ顔で果子が言う。
「さすがのわたしでも、休みなしじゃ働けないってば。それよりお兄ちゃんが、こんな半端な時間に昼寝なんてめずらしいね」
「ああ……最近、よく眠れなくてな。夕方あたりに眠くなるんだ」
 白石は生あくびをみころした。眠気を追い落とすようにふたたび頭を振って、
「今夜はたらのアクアパッツァにしようと思うが、いいか? それから大根と帆立の照り煮。わかめのえもつくるかな……。ビールはどうする?」
「ん、今日はワインにしようかな。白のいいのをもらったの」
 と応えてから、果子は笑った。
「最近、献立に魚が多くなったよね」
「そうか?」
「前は『魚は高いから、安売りのときしか食卓に出さない』って言ってたじゃない。ヘルシー志向になった? それとも、そろそろお肉と脂がつらい歳かな?」
 冗談だとわかっていた。しかし白石は、思わずひやりとした。
 肉。ひきにく。ドッグフード。ミンチ。
 ──肉。
 こみあげた苦いつばを飲みこむ。軽い口調をつくって、白石は言った。
「そりゃあ、中年の坂にさしかかってるからな。でもおまえはぼくと一歳しか違わないんだぞ。その言葉、全部自分に振りかかってくるのを忘れるな」

 和井田が訪れたのは午後九時過ぎだった。
 果子を見るなり、目じりを下げてまくしたてる。
「やあ果子ちゃん、ひさしぶり。そうか、今日は日曜だったか。忙しいせいで曜日の感覚が狂って、手土産を買うのを忘れちまったよ。ごめんごめん。埋めあわせに、今度二人きりで食事に行こう」
 二人きりで、の部分を強調してから、「それはそうと」と、はじめて存在に気づいたように白石を振りかえる。
「おまえ、いま時間はあるか」
「ああ」
 腰を浮かそうとした白石を、いち早く果子が制した。
「いいよ。お兄ちゃんたちはリヴィングにいて。わたしは持ち帰りの仕事があるから、部屋に行くね」
 ルームシューズの音をさせて、部屋を出ていく。
「残念」
 和井田はため息をつき、ソファにどっかり腰を下ろした。
 白石が差しだすおしぼりで、彼は顔とうなじを拭いて、
「おい、やっと捜査線上に〝アズサ〟の名が出てきたぞ。『東あがつま不動産』のおやが、いま頃になって思いだしやがった」と言った。
 白石が善吉と幸恵から得た〝アズサ〟の情報は、すでにメールで伝えてあった。和井田はおしぼりで指の股を一本一本ぬぐった。
「『ライラック』というキャバレーのホステスだそうだ。むろん源氏名だろうな。問題はその店が二十年以上前に潰れていることだ」
「薩摩父子の言い争いは、四年前だ」
 白石は言った。
「店が潰れてからも、伊知郎と彼女はつづいていたってことか。つまり、彼女をどこかに囲っていたのかな」
「だとしたら、うまくやったもんだ。伊知郎が女にマンションを借りてやっただの、生活費を振りこんでいた形跡はまだ摑めていない」
「〝アズサ〟の本名は? まだ不明か」
「ああ。『ライラック』の登記簿や風営許可申請書を確認した。しかし所有者はとっくに故人で、雇われ店長は居所不明だ。あの頃のキャバレーが、従業員の福利厚生なんぞに気を遣うはずもないしな。社会保険どころか、労働者名簿も源泉徴収簿もない。さすがに法人税はおさめていたようだが、提出書類はごまかしだらけだった」
「その『ライラック』という店名は確かなのか?」
「応と言いたいとこだが、無理だ。『東あがつま不動産』の親父は伊知郎よりさらに年上で、アルツハイマーに片足を突っこんでいる。支離滅裂というほどではないが、記憶の細部はあやしい」
 和井田はおしぼりをテーブルに置いた。
「ところで、大須賀みつの行方がわかったぜ」
「生きていたのか」
「残念ながら否だ。末の娘が十八になった直後、光男は失踪した。その後は各地を転々としながら、日雇いの仕事で暮らしていたようだ。そして五十の坂を越えた頃、東京でホームレスになった。五年前に支援団体に保護されたものの、三年前に肺炎で死亡。享年六十三だった」
「気の毒に」
 白石はまぶたを伏せた。
 人づてに聞いただけでも、大須賀光男の人生は波乱つづきだった。すべてを失い、石もて追われるように故郷を出た彼は、死の間際になにを思っただろう。

#7-5へつづく
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「カドブンノベル」2020年2月号

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