menu
menu

連載

櫛木理宇「虜囚の犬」 vol.10

残虐な殺人鬼の、少年期の心の闇。怒濤のどんでん返しが待ち受ける、衝撃のミステリー! 櫛木理宇「虜囚の犬」#2-5

櫛木理宇「虜囚の犬」

   第二章

      1

 薄くまぶたを開いただけで、視界がいっぱいの光で満たされた。
 カーテン越しにも、文句なしの晴天だとわかる。同時に寝坊したことも悟る。朝の九時に、太陽がこの角度でしこむわけがない。
 白石はリヴィングに入った。
 テーブルに残された果子のメモには、
〝お兄ちゃん、お米炊くの失敗してたよ。具合悪いの? だったら無理しないで〟
 とある。
 慌てて炊飯器を開けた。がっくりと肩を落とす。
 昨夜研いでセットした米は、つやつやの炊きたて白飯ではなく、ぐちゃぐちゃのかゆ状になり果てていた。
 どうやら二合の米に対し、三合分の水で炊飯してしまったらしい。なんという初歩的な失敗か。専業主夫も四年目だというのに、なさに身が縮む。
 白石は反省しながら、各部屋に掃除機をかけ、昨日さぼった洗濯をした。せっかくの晴天だからとシーツや綿毛布を洗い、布団を干した。窓ガラスを拭き、ベランダ菜園の手入れをした。
 BGM代わりのテレビを横目に、果子のシャツにアイロンをかける。
 昼のワイドショウがはじまった。
 いつもなら消すか、チャンネルを替えるところだ。だがその日はあえてけっぱなしにしておいた。目はアイロン台に据えたまま、耳だけをそばだてる。
 トップニュースはおきなわの基地移転問題だった。つづいてメインキャスターとコメンテーターが、イギリスの総選挙がどうの、EUがどうのと意見を交わし合いながら進行していく。
 しかし薩摩治郎の名は出されなかった。とくに事件の続報がないせいだろうか、監禁事件のかの字も流れない。
 CMを挟んで、番組は薬物使用で捕まった元アイドルの話題に切り替わった。
 ──とうに飽きられた話題なのかもしれない。
 そう思った。
 治郎が殺され、あやが発見されたのが今月の十二日。二体の人骨が掘り起こされたのが翌々日だ。すでに十日近くが経っている。無関係の人びとにとっては、とっくに消費し尽くされたニュースなのだろうか。
 そういうものか。白石は口の中でつぶやいた。忘れることができないのは、いつだって直接かかわった者たちだけか。
 ──そして当事者は、傷を癒やせぬまま取り残される。
 白石はアイロンを置いた。

 午後からは、愛用の自転車を駆って図書館へ走った。
 そういえば返却期限が今日だと、はたと気づいたのだ。予約しておいた海外ミステリを含む六冊を借り、帰り道で行きつけのパン屋にさしかかる。
 焼けた小麦とバターの匂いに、胃が鳴った。今日はじめて覚える空腹感だった。ついふらふらと、誘われるように入ってしまう。
 この店は客がセルフサービスでパンを取っていくのではなく、ガラスのディスプレイ越しに注文するケーキ屋形式である。馴染みの店主と挨拶を交わし、お薦めを尋ねているうちに、空腹のせいか買いすぎてしまった。
 キャベツの千切りをたっぷり挟んだカツサンド。ツナとポテトサラダのバゲットサンド。果子の好きなベーコンエピ。さくさくのカレーパンは揚げたてで、袋越しにも温かかった。
 冷めないうちに、と帰途を急ぐ。
 白石は自転車をたたんで玄関にしまい、コーヒーをれなおした。脱いだジャケットをハンガーにかけ、果子のためにベーコンエピを取り分けた。さて温かいうちにパンを──と思ったところで。
 チャイムが鳴った。
 このタイミングはもしや、といぶかる。いやたぶん当たりだ。こういう最悪のタイミングで来訪するやつの心当たりは、一人しかいない。
 インターフォンは確認せず、白石は玄関のドアを開けた。
「やあ和井田」
 予想どおり、立っていたのは和井田えいいちろうだった。
「用が済んだらすぐ帰れよ」
「用はない」
 和井田はむっつりと言った。めずらしく、左手に大きな黒革のバッグを提げている。
「無料のコーヒーを飲みに来ただけだ」
「もっと悪い。帰れ」
 追いはらおうと白石は手を振った。だが、その手を和井田がつかんで止めた。
 顔を近づけ、耳もとでささやく。
「おまえ、薩摩家の元庭師に会っただろう」
 白石はぎくりとした。和井田がせせら笑う。
「好青年ぶって、うまく話を聞き出しやがったようだな。言っとくが、いまのおまえが国家公務員を名乗るのは軽犯罪法一条十五号の資格詐称にあたるぞ」
「名乗ってない」
 白石ははんばくした。
「正直言えば、昔の名刺は持っていった。でも渡していないし、すくなくとも現職だとは言わなかった。それに、なんらの金銭的利益も得ていない」
「大声を出すな。ご近所に与える騒音も静穏妨害罪だぞ」
 和井田は靴を脱ぎ、白石を押しのけるようにして上がりこんだ。リヴィングに入り、湯気のたつコーヒーとパンの袋に目を落とす。
 白石は慌てた。「待て和井田」
「なんだ」
「おまえこそ現役の公務員だろう。いまそれを食ったら、問題になるぞ。ぼくの資格詐称を問うどころか、口封じの賄賂を受けとったと見なされても文句を──」
「うるせえ」
 和井田は一喝した。
 意にも介さずソファに座り、カレーパンにかぶりつく。うまいな、とひとりごちながら、しやくの合間にコーヒーを呷る。
 しかたなく白石はキッチンに向かい、コーヒーを注ぎなおした。バゲットサンドを手に、和井田の斜め前に座る。
「おまえな、人の昼食まで邪魔するなよ」
「なにが昼食だ、もう二時だぞ。生活リズムの遅いおまえが悪い。……とはいえ、おれも今日は昼メシにありつけてなかったんでちょうどよかった。うん、こいつはなかなかいける」
 早くもカレーパンを食べ終えた和井田は、つづけて当然のようにカツサンドの袋を破った。
「それより、元庭師となにを話してきたか吐け。早瀬とかいう精神科医ともだ」
「それが本題か。おまえ、さっき用はないと言わなかったか?」
「噓だ」
 和井田はしれっと言った。白石はため息をついた。
「……早瀬先生と会ったことまで知ってるのか」
「当たりまえだ。ソウイチの情報収集力をめるなよ」
 和井田は白石の鼻先に指を突きつけた。
「おまえはおれに隠しごとなんかできん。いいか。おれが食い終える前に、全部ぶちまけてすっきりしろ」
 観念して、白石は話した。もとより情報を隠す気があったわけではない。早瀬医師と元庭師の両者と交わした会話を、あらいざらい打ちあけた。
「……なるほどな」
 ソファにもたれかかり、和井田はうなずいた。
「元庭師の爺さん、おまえには機嫌よくべらべらしゃべったようだ。調書によれば、警察相手にゃ口が重かったようだが……。よし、よくやった」
「和井田に誉められてもな」
 白石は不機嫌に言った。
「べつに、警察のために訊いてきたわけじゃない」
 和井田はそれを無視して、
「マル対が──マル害つまり薩摩治郎を刺したと見られる男が、ホテルの防犯カメラ映像で特定されたぜ」
 と言った。
「治郎が入室する二十分前に、二階下の客室にチェックインしてやがった。サインした姓名は『なかろう』。間違いなく偽名だわな。バイク用のゴーグルとスキングローヴをはめ、鼻の上までをマスクで隠していた。なのに駐車場および駐輪場のカメラには映っていない。バイクじゃなく、徒歩で来たんだ」
「そんな風体で、よくあやしまれなかったな」
「前にも言ったとおり、ホテルマンは『デリヘルを呼ぶから顔を隠したんだ』と解釈したらしい。この調子だから人相はさっぱりで、上背と体形くらいしかわからん。身長は百七十センチを切るくらいで、瘦せ形。言葉はりゆうちようなまりもなかったそうだから、訪日外国人の線はまずないな。精算は室内の自動精算機で済ませ、無言でフロントに鍵を置いて帰ったと言うから、帰りはほぼ素通りだ。フロント精算と室内精算と、どちらか選べるシステムなんだそうだ」
 和井田はカツサンドの袋を丸めた。
「やつの足どりは、その後不明だ。次の防カメ地点で撮られる前に、ゴーグル、スキングローヴ、マスクをはずして捨てたようだな。ホテルの仕組みも、防カメの位置もきっちり把握した上での犯行だ。完全に計画的だ」
「となると、やはり監禁事件がらみか」と白石。
「その可能性は濃い。だがまだ詳細はわからんし、なにひとつ断定できん。くわしい事情は、捕まえてから聞いたほうが早いかもな」
「やつはそもそも、どうやって治郎くんをホテルまで誘い出したんだ?」
 白石は首をかしげた。
「連絡できたなら、彼の個人的な電話番号やパソコンのアドレスを知る相手ってことになる。そんな人物は、ごく限られていたんじゃないのか」
「そこだ。マル害は携帯通信機器を持っていなかった」
 和井田は言った。
「マル害が持っていた外部との通信手段は、離れにあったデスクトップパソコンでのインターネットだけだ。固定電話すら設置されていなかった。パソコンはむろん押収し、プロバイダからここ一年の通信履歴を取得済みだ」
「それなら……」
「なのに、やつがどうやっておびき出されたのか、いまだ不明なんだ」
 苦りきった顔で和井田は吐き捨てた。
「マル害があの日、誰に、どんな通信手段で、どう言われてホテルまでわざわざ出向いたのか判明していない。マル害は引きこもり同然だった。出歩くのは深夜から明け方まで。せいぜいでコンビニ、もしくは二十四時間営業のレンタルショップだけだ。コンビニ店員によれば『一度も口をきいたことはない。商品をあたためますかと訊いても、うなずくか首を振るだけだった。声を聞いたことすらなかった』そうだ」
 派手に舌打ちする。
「まあ通信履歴を取ったのは、まるきり無駄でもなかったがな。マル害ときたはた彩香、およびいななつとの接触は確認できた。間違いなくマル害が、一連の監禁事件の主犯で単独犯だ」
「……七年前の治郎くんは、女の子とは無縁の少年だった」
 白石はつぶやいた。
「本人が引っ込み思案なのももちろんだが、父の伊知郎さんが許さなかったんだ。彼は治郎くんに、彼女どころか友達さえつくらせなかった」
「そのようだな」
 和井田が同意する。
「だがいまどきはネットで検索すりゃあ、女との基本的な会話マニュアルくらい学べる時代だ。実際、ログを確認するとわかる。マル害はごく一般的な台詞せりふを、彼女たちに毎回送っていた。インプットされた言葉を繰りかえす機械さながらだ」
 ──大丈夫?
 ──つらいことがあったなら、ぼくでいいなら話を聞くよ。
 これが治郎が女たちにかける、お決まりの台詞だったようだ。
 ──車あるし、一時間もあればそっちに着くよ。待ってて。
「それより、本題に入るぞ」
 和井田が前傾姿勢になった。
「白石、おまえは臨床心理学のエキスパートだ。北畠彩香から、いくらか供述が取れた。監禁中に聞き出したという稲葉千夏の生い立ちや記憶についてだ。たまに正気に戻ったとき、千夏がぽつぽつと話したらしい。千夏は家出常習犯で、いわゆる非行少女だと思われていた。だが詳細を知れば、ただの非行じゃあなかったとわかる。それについて、おまえの意見を聞かせろ」
「いや待て、待ってくれ」
 白石は和井田を手で制した。
「言っただろう。ぼくはもうプロじゃない。国家公務員でもなく、警察に協力する義務も権利もない。一線をしりぞいて三年も経ってる」
「だとしても、薩摩治郎に関してはおまえが一番詳しい」
 和井田は遮った。
 バッグを開け、白石の胸に紙束を押しつける。資料の束だった。
「その薩摩治郎に誘拐され、半年以上監禁された挙句、殺されてひきにくにされた少女がいるんだぞ。ごちゃごちゃ言う前に、おまえはその子に申しわけないと思わないのか。おれは思う。捜査員として見つけてやれなかったことにも、一人の大人として助けてやれなかったことにも、心からすまないと思っている。──おまえはどうだ。おれとすこしでも同じ気持ちなら、その資料に目を通してやれ」
 白石は、数秒迷った。
 どうする? と自分への問いが湧いてくる。早瀬医師や善吉に会ってさえ、まだ心のどこかで決めかねていた。いつでも引きかえせると思っていた。
 だがこの資料を見てしまえば、白石は稲葉千夏に対し、責任が生じる。他人の人生を覗き見るということは、対象に対しなんらかの使命を背負うに等しい。
 家裁調査官でいられた頃なら、ためらいなく見ただろう。しかしいまの自分ならどうだ。おまえは殺された少女の人生を背負えるのか。いまの、弱くもろいおまえが。
 手が震えた。しかし彼は、資料をめくった。
 今朝コピーしたばかりなのか、紙から真新しいインクの香りが立ちのぼった。

>>#3-1へつづく ※9/16(月)公開(次週からは、週1回の配信になります)
◎第 3 話が収録された「カドブンノベル」2019年10月号本日よりお買い求めいただけます!


カドブンノベル10月号

カドブンノベル 2019年10月号


※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
「カドブンノベル」2019年9月号収録「虜囚の犬」第 2 回より


関連書籍

カドブンノベル

最新号 2019年10月号

9月9日 配信

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP