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連載

櫛木理宇「虜囚の犬」 vol.1

【新連載 櫛木理宇「虜囚の犬」】史上最悪の監禁犯を殺したのは、誰? 怒濤のどんでん返しが待ち受ける、衝撃のミステリー!

櫛木理宇「虜囚の犬」

 プロローグ

 扉がひらいた。
 しこむ光を背に、黒い影が眼前に立ちはだかる。逆光ゆえ、その表情はまったく見えない。
 閉じ込められてから、いったいどれほどの時間がったのだろう。
 部屋はひどく蒸し暑かった。
 き出しの肌に浮いた汗は、とうに塩の粒になってしまった。手の爪は両手を合わせて三枚が剝がれ、膝からは血がにじんでいた。
 膝の皮膚が擦れて傷ついたのは、幾度となくひざまずかされてきたからだ。しかし爪は剝がされたのではなかった。影が去ったあと、昼夜を問わず、自分で壁や床をきむしったせいだ。
 人間の爪でコンクリの壁が壊せるわけがない。わかっていた。わかっていても、そうせずにはいられなかった。から、逃げたかった。
 思わずうなだれる。絶望で、自然とこうべを垂れてしまう。
 影の視線を感じた。
 冷えきった軽蔑のまなしであった。
 垂れた頭をめがけて、侮蔑の言葉が雨のように降りそそぐ。聞くに堪えない罵言。嘲笑。そのすべてが胸をえぐる。浴びせかけられるどす黒い悪意に、身がすくむ。
 影が飽きるまで、あざけりの儀式はつづいた。
 やがて影は、手にしていた缶詰を開けた。バタくさい犬のイラストが印刷された、外国製の缶詰である。
 べちゃり、と音がした。
 目の前の皿に、湿った肉塊が投げこまれた音だった。まつが床に飛び散る。独特の臭気が鼻を突く。
 食え──。影は命じた。いつくばったまま、餌皿に口を付けて食うのだ、と。
 ふたたびの嘲笑が湧いた。
 屈辱が、胸を深く刺し貫く。何度味わわされても、この恥辱はすこしも薄れない。心臓が早鐘を打つ。耳鳴りが、鼓膜を裂く。
 だが食うしかなかった。
 食わねば生きて行けない。それ以上に、命令には逆らえない。かたちだけでも服従してみせねば、次になにをされるかわからない。
 諦めの息を吐き、四つん這いの姿勢で、顔を餌皿に近づけた。
 舌先で肉塊をめる。
 すでに何度も口にしてきた肉だ。ウエットタイプのドッグフード。どこの国で製造されたかも不明な、生臭くて味のないぐちゃぐちゃの肉。
 皿に顔をうずめた。
 食う。餌皿に鼻づらを突っこむようにして、餌にがっつく。施しに喜ぶ演技をしながら、感謝を装いながら、必死でむさぼる。
 ──おまえは犬だ。
 影が言う。
 ──いい格好だ。犬にお似合いの無様さだ。
 ふたたびの侮蔑。罵言。嘲笑。
 いっそほんとうに犬だったなら、と思う。
 から逃げることがかなわないなら、せめて死にたい。死んで生まれ変わりたい。ああそうだ、次に生まれるときは犬がいい。飼い主にわいがられて、愛されて、家族の笑い声に囲まれて暮らせる、幸福な犬に──。
 口内で、臭い肉が粘った。
 一瞬、おうが突きあげる。しかし意志の力で飲みこんだ。食道から胃へ、ろくにめなかった生臭い塊が落ちていく。涙が滲んだ。
 皿に顔を伏せたまま、そっと目線だけを上げた。
 明かり取りの窓から、四角く切りとられた空がわずかに見える。
 ひび割れた、鉛いろの空だった。
 

 第一章

    1

 しらいしは審判の場に立っていた。
 とはいえ裁判官は、黒の法服をまとってはいない。グレイのスーツにネクタイという平服だ。高みの法壇に座ってもいない。まわりには弁護士も検察官も、はたまた傍聴人の姿もない。
 白石は裁判官の隣に、そして書記官の向かいにいる。
 裁判官と向きあって立つのは、十四、五歳の少年だ。頰と額に、んだにきびが散っている。背ばかり高いが骨格が出来上がっておらず、ひょろりと瘦せている。
 どこかに犬がいるようだ、と白石は思った。
 さかんにえている。やかましい。誰かがペットを連れ込んだのだろうか。規則違反だ。それにしても、なんてうるさい。鼓膜に突き刺さる。
 だが吠え声など意に介さぬように、
 ──処分を言いわたします。
 冷徹に裁判官は言う。
 ──これからきみを、少年院に送致します。
 幼さを残した頰がこわる。のぼった血で一瞬、顔全体がこうちようする。
 少年は視線を泳がせた。助けを求めるように白石を見つめる。
 れて潤んだ瞳だった。
 まだ犬の吠え声はやまない。まるで耳鳴りのようだ。すこしもやむ気配がない。耳を覆いたい、と白石は思う。
 少年の瞳が白石をとらえた。
 犬の目だった。黒く、まるく、濡れ濡れとして涙で揺らいでいた。
 そのそうぼうがどうして、と問う。
 どうして。いやだ。なぜおれがこんな目に。
 なんで助けてくれなかったんだ。少年院なんて行きたくない。おれを、おれたちを助けるのがあんたの仕事だろう。なのにどうして。どうしてどうしてどうして──。

 そこで、目が覚めた。
 うなりながら、白石は寝返りを打った。まぶたをこする。
 夢から覚めてみれば、むろんそこは審判の席などではなかった。自宅の寝室だ。
 見慣れた天井。寝慣れたベッド。枕もとの時計は八時四十三分を指し、遮光カーテンの隙間から朝日が白く射しこんでいる。予定の起床時間より、約二十分早い。
 しらいしらくは、耳栓をはずしてベッドから起きあがった。
 目覚ましのアラームはかけていない。
 うるさい音で起こされるのは嫌いだった。体内時計でおおよそ九時に起きられるし、よしんば起きなかったとしてもとくに問題はない。
 なぜっていまの彼は、専業しゆの身だからだ。
 独身ゆえ、正確に言えば『主夫』ではないかもしれない。しかし『家事手伝い』と称するのも違う。手伝いでなく、完全にメインで家事をしているからだ。
 また『家政夫』と名乗るほど家主とドライな関係でもなかった。『自宅警備員』とまで卑下する必要もないはずだ。以上の事情から総合的に、彼は己を広義の専業主夫だと認定していた。
 寝間着代わりのスウェットのまま、キッチンへ向かう。
 昨夜のうちに用意しておいた朝食は冷蔵庫から消え、空っぽの皿がシンクに置かれていた。テーブルには、
〝ごちそうさま。
 のメモ書きが残されている。このマンションの家主であり、年子の妹でもある白石果子の走り書きだ。
 きれいに食べ尽くされた皿を見て、白石は満足感を覚えた。
 昨日と一昨日おとといは和朝食だったから、今朝はサンドイッチにしてみたのだ。果子の好きな関東ふうのたまごサンドに加え、関西ふうも用意した。
 関東ふうは、半熟のでたまごをつぶして塩しようと辛子マヨネーズでえたものを、バターを塗った薄切りのパンに挟む。一方関西ふうは、片側に辛子マヨネーズ、片側にデミグラスソースを塗ったパンに、ふんわり焼いた厚いきたまごを挟むのである。
 ──主夫の仕事は、誰にめられるでもないし、達成感を得にくいからな。
 だからこうして「家人に残さず食べてもらえる食事」を、白石は一つの目標としている。
 果子は好き嫌いはないけれど、口に入ればなんでもいいというタイプではない。くなければ遠慮なく残していく。そのシビアさがいい。
 白石は、保温サーバのコーヒーをマグカップにそそいだ。砂糖は入れない。冷蔵庫から取り出した冷たい牛乳を、少量足す。
 コーヒーを飲みつつ、鼻歌まじりに皿を洗った。彼自身は朝食をとる習慣がない。朝はいつもミルク入りのコーヒーだけだ。
 幼い頃から妹の果子とは、
「双子ちゃん?」
「まあ、よく似てるのねえ」
 と言われてきた。しかし中身は正反対と言ってよかった。
 果子は起きてすぐジョギングし、筋トレをし、朝からもりもりとよく食べる女だ。現在は外資系医療機器メーカーの開発営業部で、毎日夜中まで働いている。
 しかし苦ではないようだった。幼い頃からショートスリーパーの果子は、
「五時間以上寝ると、かえって頭痛がするのよ」
 といつも言っている。元気とがんけんさがの妹だった。
 かたや兄の白石は、胃弱のインドア派だ。一人で過ごすのを好み、趣味は読書と音楽ならびに映画鑑賞。
 幼少時から喉が弱く、よくを引いた。三半規管が弱いのか車酔いしやすく、満員電車に乗れば必ず人酔いした。そしてロングスリーパーで、最低八時間、常なら十時間寝ないと体調を崩す。
 ──というわけで、習慣も生活サイクルも合わない。
 白石きようだいが同居をはじめて約三年。
 その間、彼らはお互いほとんど顔を合わせぬ生活を送っていた。
 妹が帰宅して夕飯をとる時刻に白石はすでに寝ているし、起床する時間にも眠っているからだ。
 果子は毎日二時に寝て六時に起きる。ジョギングと筋トレののち、兄が前夜に用意した朝食を食べ、八時にマンションを出ていく。
 一方、白石の起床は九時だ。朝食代わりのコーヒーを飲みながら皿を洗う。洗濯機をまわし、掃除をし、洗濯物を干す。
 ベランダ栽培しているプチトマトやラディッシュの世話を終えたら、次はインターネットでスーパーの特売品をチェックする。
 節約は、現在の白石の生きと言っていい。べつだん果子の年収は低くないし、切り詰めてくれとも言われていないが、「食費や雑費を月いくらに抑える」という目標設定は大事だ。先にも書いたとおり、成果が数字にあらわれにくい主夫のモチベーションを保つには、張り合いや達成感が必要なのだ。
 さて特売品のチェックを終えたなら、昼食である。
 たいていは夕飯の余りものか、お茶漬けで簡単に済ませる。
 食後は十五分かけて、ベランダで景色を眺めつつ歯を磨くのが習慣だ。デンタルリンスも忘れない。歯間にフロスもほどこす。
 その後は食後の血糖値対策のため、腹筋三十回、腕立て伏せ三十回、スクワット三十回。ネット配信でレンタルした映画をながら、ランニングマシンで四十分走る。果子が通販で買ったはいいが「やっぱり外で走るほうが性に合うわ」と、ほこりをかぶらせていたマシンである。
 午後一時からはスーパーの特売タイムだ。愛用の折りたたみ自転車で、約八分の距離を走る。
 今日はキャベツ、さけ、ブロッコリー、食用油、上白糖が安かった。酒類は買わない。果子が小遣いで、月末にまとめ買いする約束だからだ。
 ただし甘味のたぐいは、特売のときだけ買ってやることにしていた。今月は繁忙期だし、ストレス解消が必要だろうとアイスクリームの『期間限定・リッチショコラ味』を購入した。兄とは違い、果子は『期間限定』のうたい文句に弱いのだ。
 帰宅して夕飯の仕込みを終え、時計を見上げれば、午後四時を過ぎていた。
 これ以後は専業主夫のフリータイムである。
 本を読もうが映画のつづきを観ようが自由だ。
 さてどうしよう、と白石は考えた。映画のつづきも魅力的だが、そろそろ読む本も乏しい。いまのうち書店へ行っておこうか、それとも図書館がいいか。いやせっかく市民税を払っているのだから、やはり図書館──と膝を打ちかけたとき。
 チャイムが鳴った。
 白石は素早くインターフォンのモニタをのぞいた。
 こんな半端な時間に来るやつは、警戒せねばならない。はたして宅配業者か郵便配達員か、それとも新聞勧誘員か宗教か押し売りか──。
 しかし、訪問者はそのどれでもなかった。

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「文芸カドカワ」2019年8月号収録「虜囚の犬」第 1 回より


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