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連載

櫛木理宇「虜囚の犬」 vol.8

残虐な殺人鬼の、少年期の心の闇。怒濤のどんでん返しが待ち受ける、衝撃のミステリー! 櫛木理宇「虜囚の犬」#2-3

櫛木理宇「虜囚の犬」

 そうして白石はいま、づか市の『メンタルクリニックはや』にいる。
 ひさしぶりに締めたネクタイのせいで、喉もとが窮屈だ。体形を保っておいてよかった、と白石はひそかにあんした。身に合わないスーツでは、「着慣れていないな」とすぐに見破られてしまう。
 院長の早瀬医師は、六十代後半とおぼしい。七年前よりいくらか瘦せ、いくらか白髪が増えたようだ。彼は縁なしの眼鏡をずりあげて、
「担当の少年が成人になっても、調査官のお仕事は終わらないんですね。このたびのことは、わたくしどもにとっても悔やまれます。まことにご苦労さまです」
 と生真面目に言った。
 白石の良心がずくりとうずく。しかし押し殺して、
「検察は、あらゆる材料を欲しがりますから」
 と答えた。
 この返答だけなら、すくなくともうそではない。無表情を装って言葉を継いだ。
「治郎くんの試験観察を終える際、こちらでの診療の継続を条件にしたかと記憶しております。あれ以後の彼について、おうかがいしてよろしいでしょうか」
「それが……」
 目に見えて、早瀬医師の顔が曇る。
「あまり、ご期待に添える情報はないかと」
「通院はつづかなかったのですか?」
 白石の問いに、医師は眉根を寄せた。
「一箇月ほどは、約束どおり毎週通ってくれました。しかし二箇月目から、二週に一回になり、一月に一回になり……。かすのはプレッシャーになるかと、様子見していたのがまずかったようです。気づけば、彼は高校を辞めて引きこもっていた」
 ため息をついて、
「お父さんの葬儀には、わたしも参列しましたよ。治郎くんに『なにかあったら、いつでもクリニックに来てくれ』と声をかけたんですがね。うつむいたまま、一言も応えてくれませんでした」
「お父さんは──伊知郎さんは、いつ亡くなられたんです」
「四年前ですかね。不幸な事故でした。松の枝ぶりを見ようとしたらしく、脚立から落ちて庭石に頭をぶつけたんです。お抱えの庭師が、早朝に来て発見しました。すでに伊知郎さんはこんすい状態で、異常ないびきをかいていたそうです。救急車で搬送されたものの、意識が回復しないまま亡くなりました」
 頭蓋内出血か脳挫傷かな、と白石は思った。四年前ということは、死亡時の年齢は七十七歳か。
 ──ということは、当時の治郎くんは二十歳だ。
 すでに成人していた彼は、父親の死をどう受けとめたのだろう。
「こういう訊きかたは、よくないでしょうが」
 白石はためらいがちに問うた。
「伊知郎さんは、その……亡くなるまで、お変わりなかったですか。つまり、治郎くんとの関係は」
「大きな変化はなかったようですね」
 早瀬医師は答えた。
「まあ、あの人のことはしかたがない。伊知郎さんはすでに七十を過ぎて、人格が形成されきっていました。それにわたしどもの患者は、あくまで治郎くんです。彼のほうから、父親との距離を変えてほしかった。勝手を承知で言えば、彼は十八を過ぎた時点で家を出るべきだった、と思っています」
「当時も薩摩家の親子関係について、先生と何度かお話ししましたね」
 白石はしんみりと言った。
 早瀬医師と白石の意見は一致していた。薩摩治郎の無気力さや自尊心の低さは、親からの過度の抑圧によるものだ。物理的にも精神的にも離れるべきだ、と。
 伊知郎は幼いときから治郎を支配してきた。頭から押さえつけ、自我の芽を徹底的に摘みとってきた。
「ライウスコンプレックスだったのかもしれません」
 早瀬医師は言った。
 ライウスとは、ギリシア悲劇の主人公エディプス王の実父である。
 テーバイの王ライウスは「なんじの息子は父である汝を殺し、母をめとるだろう」との神託を受け、わが子を恐れて山に捨ててしまう。しかし息子エディプスは羊飼いに助けられて生き延び、やがて神託どおり父を殺し、母と婚姻することとなる。
 有名なエディプスコンプレックスは『父と同一化を望みながら対抗する』という、男児のアンビヴァレントな心理を指す。
 それに対し、ライウスコンプレックスは『いずれ自分を追い抜き、越えていく息子への恐れと反感』である。息子に権力を奪われまいと、支配力を強めることで息子の成長を阻むのだ。
「気持ちはわからなくもないんですよ。わたしにも、息子がいますからね」
 早瀬医師は慨嘆した。
「息子の成長はうれしい。しかし同時に自分の老いを気づかされて寂しい。そんな心理は、わたしにもあります。しかし伊知郎さんは……きっと、我が強すぎたんでしょうな」
「資産家の生まれで、甘やかされて育ったそうですから」
 白石はうなずいた。
 早瀬ははずした眼鏡を拭いて、
「あの人は、祖父母に育てられたんですよ。いわゆる『年寄りっ子は三文安い』ってやつですな。わいがられるばかりで、ほとんど叱られないからわがまま放題に育ってしまった。わたしは伊知郎さんより十五歳下で、一世代違うんですが、それでも悪評はよく耳にしましたねえ」
 と言ってから、「いや、すみません。故人の悪口はいけませんな」とかぶりを振る。
「では治郎くんの話に戻しましょう」
 白石は言った。
「この七年、彼はまれにコンビニやレンタルショップへ行くほかは、引きこもり同然の生活を送っていたそうですね。ほとんど外界とは交わらず過ごしてきた」
「ええ」
 早瀬医師は同意した。
「てっきり鬱状態にあるのだと思っていました。過去の症状から見て、社会不安障害やパニック障害も併発しているかもしれないと」
「しかし鬱状態にある人間は、普通はあんな殺人を犯しません」
「ですね」
 医師は顔をしかめた。
「失礼ですが、殺人でなく心中ならば驚きませんでした。心中は、一種の拡大自殺です。鬱症状は往々にして自殺願望を引き起こしますからね。しかし複数の女性を監禁し、さらに殺害したとなると──」
 言葉を切る。
 不可解だと言いたいのだろう。白石も同意だった。
「それはそうと、あの伊知郎さんが、よく息子の退学を許しましたね」
「いや、伊知郎さんが辞めさせたんだそうですよ」
「へえ」白石は驚いた。
 薩摩伊知郎は見栄っ張りだ。一人息子が高校を中退したなんて、『世間体が悪い』と激怒したに違いないと思っていた。
 早瀬医師が腕組みして、
「あの人はほら、衝動で動くかたでしたから。ある日『薩摩家から縄付きを出したなんて一族の恥だ。二度と表を出歩くな。学校も辞めさせる』と怒鳴りちらしたそうです。まあこれも、彼のライウスコンプレックスから出た言動かもしれませんね。伊知郎さんは、治郎くんを孤独にさせておくのが好きだった」
「子供の頃からそうだったとお聞きしました。治郎くんが学校のともだちを家に呼んだり、遊びに行くのを許さなかったとか」
 白石はあいづちを打った。
 小学生の息子から友達を遠ざけたことを、薩摩伊知郎は恥じるどころか誇らしげに語ったものだ。ガキの好きなようにさせるなんて、馬鹿のやることだ。やつらはまだ右も左もわかってやしないんだから、親が導いてやるのは当然だ──と。
「目を盗んで、志津さんが遊ばせてやっていましたがね」と早瀬医師。
「とはいえ限度がありました。白石さんは、治郎くんから〝仲良しグループ〟の話を聞かされましたか?」
「いえ」
「彼にも小学校の五、六年生までは、人並みに仲のいい〝仲良しグループ〟たちがいたんですよ。その頃は伊知郎さんが海釣りにはまって、朝から晩まで家を留守にしていましたしね。でも飽きて家にいるようになってからは……あの調子で、息子の友人関係を引き裂いてしまった」
「引き裂いた、ですか」
 白石は言った。
〝仲良しグループ〟とやらの話は初耳だ。だが当然かもしれない。治郎はろくにものを言わなかった。七年前の白石は、早瀬医師と親子関係のいびつさばかり話し合っていた。
「伊知郎さんは、子供全般が嫌いでした」
 医師は机を指で叩いた。
「とくに男児を忌み嫌っていましたね。たとえば薩摩家の塀から、松の枝が突き出ていたとしましょう。その枝を外から男の子が見上げていただけで、伊知郎さんは真っ赤になって怒鳴るんですよ。白石さんもご存じでしょう。ほら、例の『馬鹿ガキがっ、糞ガキっ!』です」
 と苦笑した。
 白石も同じく苦い笑みを返す。
 あの屋敷に通っていた間、何度も聞かされたフレーズだ。なにかと言えば『この馬鹿がっ! 馬鹿ガキ!』、『くそアマ!』だった。
 息子を『馬鹿ガキ』と怒鳴り、妻を『糞アマ』と罵りつづけた伊知郎の目には、自分以外のすべてが愚鈍に見えていたのだろうか。
「馬鹿だガキだと罵倒されながら、遊んでやる義理は子供たちにはないですからね」
 白石は言った。
「嫌気がさした友人たちは、治郎くんから離れていった。……彼はその件で、父親を恨んだでしょうか」
「一気に無気力化したのは間違いないですね。しかし去っていった子供たちを責めることはできません。伊知郎さんは暴君でした。犬ころでも追い立てるかのように、彼らを家から叩き出した」
 瞬間、白石はぎくりとした。
 ──犬。
 脳内で少年の声がする。
 ぼくは犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ……。
「そういえば、あの頃の治郎くんが言っていましたよ。『ぼくは犬だ』と」
「ああ、わたしも何度か聞きました」
 早瀬医師は首肯した。
「自分の無力さをあらわす言葉として使っていたようですね。『犬だからなにもできない』だの、『犬はおりで死んでいくしかない』といったふうに」
「檻で……」
 白石は言葉を失った。
 早瀬医師が、はっと口をつぐむ。監禁事件との相似に思いあたったのだろう。犬。檻。死。無力感。そして監禁──。
 ノックの音がした。
 扉が薄く開く。
「先生、そろそろ午後の診察です」
 顔を覗かせたのは、年かさの看護師だった。早瀬医師が片手を挙げ、「ああ、いま行く」と応える。
「すみません。長々とお時間を取らせてしまって」
 白石は頭を深ぶかと下げた。「いやいや」と早瀬医師が手を振る。
 医師は数秒の沈黙ののち、
「彼の名誉のためにというか……最後に一つだけ。治郎くん自身は、けして動物嫌いじゃありませんでしたよ」
 と付けくわえた。
「ほんの一時期ですがね、アニマルセラピーで、猫と触れ合わせたことがあるんです。猫を抱いた彼は、じつにいい顔で笑っていました。ああいった診療を長くつづけていたなら、彼の未来は変わっていたかもしれませんな」

>>#2-4

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「カドブンノベル」2019年9月号収録「虜囚の犬」第 2 回より


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