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連載

櫛木理宇「虜囚の犬」 vol.37

殴る蹴る、犬の糞を口に入れる……。壮絶ないじめが生んだものとは? 胸を抉るラストが待ち受ける、衝撃のミステリ。櫛木理宇「虜囚の犬」#8-1

櫛木理宇「虜囚の犬」


前回までのあらすじ

ビジネスホテルで男の死体が発見された。警官が被害者・薩摩治郎の自宅に向かうと、そこには監禁された二十代の女性がいた――。庭から二体の人骨も見つかり、茨城県警刑事部捜査一課の和井田瑛一郎は、過去の薩摩を知る元家裁調査官・白石洛に捜査協力を求める。一方、自宅に居場所のない國広海斗は中性的な美少年・三橋未尋と出会う。海斗はビジネスホテル殺人事件のことで異様に取り乱す未尋の様子が気になるが⋯⋯。

詳しくは 「この連載の一覧
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      2

 数日ったが、から連絡はなかった。
 しらいしはじりじりと待った。ゆくが気になる。ほんとうにおおひろしに誘拐されたのか、無事なのか──。
 しかし、できることはなかった。彼はただ粛々と家事をし、しらせを待った。
 その日は平日だった。白石は掃除と洗濯を終え、自室でレシピのスクラップブックを整理した。パソコンから流れるIPサーマルラジオサービスが、政府の対米姿勢をさかんに批判し、中国で起こった地震への募金を呼びかけている。
 パソコンが着信音を鳴らした。メールだ。
 白石は慌てて腰を浮かせ、送信者を見た。しかし和井田からではなかった。
 ──なんだ、市の『安心メール』か。
 火災の発生や、不審者の情報を逐一教えてくれるメールサービスである。「また児童への声かけ事案かな」と思いながらひらいて、白石はどうもくした。
『本日午前十一時、づかひがしはくさん町二丁目の住宅街において、刃物を持った男が暴れていると通報がありました。現在、警察が出動中。近隣住民のかたは戸締まりをし、無用な外出を避けてください』
 ──古塚市東白山町二丁目。
 さつていがある住所だ。
 白石は迷った。安心メールには『警察が出動中』とある。まずは最寄りの交番から巡査が駆けつけただろうが、和井田も向かったかもしれない。
 迷った末、白石は固定電話から和井田のスマホにかけた。十回コール音が鳴り、不機嫌そうな声が応答する。
「かけてくるな。おれは忙しいんだ、切るぞ」
 白石は飛びつくように言った。「待て。これだけ教えてくれ」
 誰も聞いていないとわかっていたが、声を押しころす。
「東白山町で暴れているという男は、薩摩家と関係があるのか」
 数秒、沈黙があった。
 ややあって、ちいさな舌打ちが聞こえた。白石は息を詰めて待った。
 和井田が低く言う。
「──大須賀弘だ」
 それきり通話は切れた。

 二度目の『安心メール』が届いたのは約二時間後だった。男が警察に制圧され、身柄を確保されたという内容である。
 十分後、白石はバスに乗っていた。短く息を吐き、シートに背を預ける。東白山町二丁目へ向かう循環バスのシートであった。
 停留所で降りてすぐ、人だかりが目に入った。イエローテープで区切られた一画に、二十人近い野次馬が群がっている。一様に携帯電話やスマートフォンをかざして動画を撮っている。
「ちょっとすみません、すみません」
 白石は野次馬をかき分け、イエローテープの際に立った。
 薩摩邸の真ん前だ。紺の制服をまとった捜査員たちが忙しそうに立ち働いている。何人か、私服刑事の姿も見える。その中にひときわ長身きよの男がいた。和井田だ。
 手を上げるべきか悩んだ。だが合図するまでもなかった。和井田のほうで目ざとく白石を見つけ、大股で歩み寄ってくる。
「なんで来た。帰れ、民間人」
 白石はそれを無視し、「大須賀は確保されたんだな。志津さんは? 連れていたのか。無事か」と小声でいた。
 和井田は肩越しにちらりと捜査員たちを見やった。白石の耳に口を寄せる。
「あとで電話するから、帰れ」
 きびすを返す。振りかえりもせず離れていく。
 白石はなすすべなくその背を見送った。

 東白山町二丁目で起こった白昼の襲撃事件は、翌日の朝刊に載った。
 数行のべた記事であった。見出しは『男が刃物を持って暴れる・古塚』。
 県警の判断か、大須賀弘の名は伏せられていた。記事によれば大須賀は、したたかに酔って薩摩邸へ侵入しようとしたらしい。塀を乗り越えて窓を壊そうとしたところ、防犯センサーが作動し、民間警備会社の社員二人が駆けつけた。大須賀は刃物を振るい、社員の腕などに数箇所の軽傷を負わせたという。アスファルトに落ちていた血痕は、そのときのものだろう。
 事件は夕方の県内ニュースでも、七時のニュースでも報道された。どちらも〝四十代の男〟としか発表はなかった。
「最近、物騒ねえ」
 めずらしく早めに帰ってきたは、ニュースを観て眉根を寄せた。
「あれ、ここに映ってるのえいいちくんじゃない? さすがに大きいから目立つね。お兄ちゃん、瑛一くんからこの事件のこと聞いた?」
「いや」白石はかぶりを振った。
「とくになにも」
 皿を洗い終えて、白石は自室にこもった。パソコンを立ち上げ、スタートメニューからテキストエディタを選択する。
 事件概要を自分なりにまとめたテキストデータだ。大須賀弘の薩摩邸襲撃事件を、新たに書きくわえておいた。まだ実名報道はないこと、薩摩志津の行方がいまだわからないことも書き添える。
 さらに白石は〝薩摩ろうを幼少期から知る人物。影響を与え得た人物〟の欄にはや医師の名を追加した。両親、庭師のぜんきち、家政婦のさち。そして薩摩邸に往診していた早瀬医師。これでリストは五人になった。
 ──ぼくは犬だ。
 記憶の底で、治郎の声がリフレインする。
 ──ぼくは犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ……。
 かつて白石の前で、治郎はそう叫んで壁に頭を打ちつけた。額が割れ、血が流れても彼はやめなかった。いや、己の意思ではように見えた。
 治郎を犬として扱ったのは、ほんとうにろうだったのだろうか。
 白石は疑問を抱きはじめていた。
 薩摩伊知郎は幼少期から犬神きの家系だと疎まれ、蔑まれていたという。主婦たちはこう語った。
「薩摩さんのとこは、やっぱり呪われてるのよ」、「わたしらの祖母の世代は、あの家とは絶対にお付き合いしなかったらしいわ」
 一方、不動産屋の社員はこう語っている。
「接待でべろべろに泥酔したとき、薩摩さんが何度か愚痴ってました。遊びの輪に入れないのは当たりまえとして、殴る蹴る、顔めがけて石を投げつける。犬のふんを口に押しこまれたことさえあったそうです」
 要するに〝犬〟は伊知郎自身のトラウマでもあるのだ。
 被虐待児が、長じて己の傷をより弱いものへ──多くはわが子へ──ぶつけるケースはすくなくない。いわゆる『虐待の連鎖』だ。白石自身も和井田へ、
「自分が与えられたトラウマを再現し、他人に与えることによって、『いまのおれは弱くない』、『強くなった。強者側にまわった』と確認したいんだ」
 と説明した。
 ──でも、なんだろう。なにか違和感がある。
 伊知郎は『自分がいじめられてきたから、子供は苦手だ。それに自分の息子や娘に同じ思いをさせたくない』とこぼしたという。
 しかし伊知郎は、志津に治郎を産ませた。ろせとは言わず産ませたのだ。
 伊知郎の気を変えさせたのは、いったい誰だったのだろう。伊知郎自身の子供嫌いは終生変わらなかったというのに、だ。
 また白石は、治郎の口から一度も『犬神憑き』および『憑きもの筋』の言葉を聞いていない。治郎がらす単語はつねに『犬』だった。『犬神』でも『犬神筋』でもなく、ただの『犬』である。
 白石はテキストをさかのぼった。そして、最初から順に読みはじめた。

#8-2へつづく
◎第 8 回全文は「カドブンノベル」2020年3月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年3月号

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