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連載

櫛木理宇「虜囚の犬」 vol.34

心理学のプロは、証言者の「嘘」を見破れるか? 怒濤のどんでん返しが待ち受ける、衝撃のミステリー! 櫛木理宇「虜囚の犬」#7-5

櫛木理宇「虜囚の犬」

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 ひがしむこうじま駅で二人は下車し、美和のアパートへと歩いていた。
 Y字路を左に行くと、街灯がぐっとすくなくなった。コンビニもなく、つづく道はひたすらに暗い。
 いま思えば、このあたりで黒のハイエースに追い抜かれたのだと思う。
 しかし白石は気づかなかった。美和も同様だった。
 彼らは酔っていた。そして高揚していた。白石は常になくおしゃべりで、美和を楽しませようと躍起だった。美和もよく笑ってくれた。
 お互いの注意は、お互いにのみ集中していた。一人ではない、という油断もあっただろう。路肩に停まっていたハイエースは視界に入っていたが、気にも留めなかった。二人はごく自然にハイエースの脇を通り過ぎようとした。
 スライドドアが開いた、と気づいたときにはもう遅かった。
 後部座席から数人が降りてきた。
 白石は彼らの影すら見なかった。気配を察したのみだ。声を上げる間もなく、後頭部に重い衝撃を受けていた。
 薄れていく意識の中、白石は美和のくぐもった悲鳴と、少年たちの笑い声を聞いた。
 ──見ろよ、ババアのわりにいけるぜ。
 ──暴れんなって、ははは。
 ──おとなしくケツをこっちに向けろよ、雌犬ビツチ
 白石はその後、通行人に助け起こされるまで道路で気を失っていた。
 もつれる舌で白石は「連れがさらわれた」、「一一〇番通報してくれ」と訴え、ふたたび失神した。
 だが通信指令センターが通報を受けた時刻、黒のハイエースはすでにパトカーに追われていたという。その五分前、公園脇に路駐しているハイエースをけい中の警官が見とがめたためだ。
 警官はハイエースの窓を指で叩いた。フルスモークの窓だった。ハイエースは応えるどころか、突然走りだした。警官は慌ててパトカーに戻り、逃げた車両を追った。
 約十キロの逃走劇の末、ハイエースはガードレールに激突して止まった。
 救出された美和は重傷だった。殴打で頰骨と鼻を折られていた。激しく抵抗したせいだろう、両手合わせて指を三本骨折していた。鎖骨と顎の骨にひびが入り、ぞうに損傷を負っていた。
 不幸中のさいわいで性的暴行はまぬがれた。しかし衣服をがされ、よってたかってスマートフォンで撮影されたという。
 スマートフォンは警察が押収し、画像データは消された。少年たちは「ネットに上げようと思って撮った」、「拡散してやろうと思った」と供述した。
 白石が担当していた少年は、取調官に向かってこう吐き捨てた。
「家裁調査官のやつ、おれが女とまずったのを知ってるくせに、女連れなのを見せびらかしてきやがった。ムカついたから仲間に速攻で車で来させて、駅からあとをけた。あの調査官は以前から気に食わないと思っていた」
 白石は脳波に異状なしと診断され、翌日には退院できた。
 一方、美和は長期入院となった。見舞いに行きたかったが、「いまは行くな」と先輩に止められた。
 白石は一週間の有休をとったあと、仕事に復帰した。
 だが登庁して三時間で「駄目だ」とわかった。駄目だ、いまの自分は使いものにならない──と。
 担当する少年と、たいできないのだ。
 目が合わせられない。顔を真正面から見ることができない。
 相手がいい関係を築いてきた少年でも同じだった。心臓がばくばくと激しく鳴り、脂汗が噴きだした。指さきが震え、ひどいときは過呼吸を起こした。
 白石は心療内科に通いはじめた。
 投薬でいったんは落ちついた。しかし「紺野美和が退職する」と聞かされた日から、症状はふたたび悪化した。
 美和の退職理由は「精神状態が不安定なため」。精神科医の診断書も添付されていた。事件後、一度も登庁することなく、彼女は両親に連れられて故郷へ帰った。
 白石は出勤すらできなくなった。
 朝起きられなくなり、全身のけんたい感と頭痛に悩まされた。絶えず自己嫌悪にさいなまれ、死ぬことばかり考えるようになった。わけもなく涙が出て、止まらない夜もしょっちゅうだった。医師の診断を仰ぐまでもない、重度の鬱症状であった。
 白石は退職を決めた。
 事情を知らない親戚たちは「国家公務員の座を、もったいない」と止めた。しかし果子と和井田が味方してくれた。
 和井田は、白石がなんらかのかたちで傷害事件にかかわったと察していたようだ。だが重大事件でもない限り、警視庁管轄の事件が茨城県警に知られることはない。また和井田のほうから尋ねてくるでもなかった。
 それをいいことに、白石は沈黙を守った。守ったまま郷里へ引っこみ、妹のマンションで専業主夫として暮らしてきた。
 ──薩摩治郎が、殺されるまでは。
 白石は自分のグラスに、手酌でワインを注いだ。
「わからなくなったんだ」
 ぽつりと言う。
「ぼくは紺野美和が襲われたあの日まで、非行少年は社会と親の犠牲者だと思っていた。環境に押しつぶされてひずんでしまっただけだ、大人の手で救わねばならない被害者だ──と。でも、わからなくなってしまった」
「よかったな。ひとつ大人になったじゃねえか」
 和井田がワインをあおって言う。
「自分は物ごとをわかってる、なんて思うのは傲慢だ。なにもわかっちゃいない、と認めたときにこそ人間は成長する。〝無知の知〟ってやつだ」
「だな。おまえの言うとおりだ」
 白石は苦笑した。
 粗野を装ってはいるが、本来の和井田は知的な読書家である。俗に「人は酒が入ると地が洩れ出てくる」と言う。和井田はそれが顕著で、しらふのほうが騒々しい。
「……ぼくは、なにをしてるんだろうな」
 白石はため息をついた。
「家裁調査官はつづけられなかった。二度と少年事件にはかかわれないと思った。いや、事件一般にだ。なのにいまこうして、治郎くん殺しに自分から首を突っこんで、柄にもなく捜査の真似ごとなんかしている」
 ワインを一口含んだ。辛口の、いい白だった。
「これは代償行為なのかな。ぼくは警察に協力することで、紺野さんを守れなかった罪悪感を薄めようとしているんだろうか。それとも自分自身に対する信頼を、取りもどしたいのか」
「さあな」
 和井田は肴のクラッカーを嚙みくだいた。
「一つだけはっきりしてるのは、おまえがここに閉じこもろうが出ていこうが、誰もたいして困りゃしねえってことだ。ここにいるなら果子ちゃんは家事をしてもらえる。おれは無料のコーヒーを飲みに通える。逆に出ていって一人暮らしをするなら、果子ちゃんはそのぶん生活費が浮く。おれはおまえの部屋を無料の宿泊場にできる」
 なかば開いたカーテンから、下弦の月がのぞいていた。
「おまえの人生だからな、おまえの好きにすりゃあいい。時間を止めたまま生きるも、新たな方向へ歩くも自由だ。……だが一つだけ助言するぞ。乗りかかった船には、最後まで乗っていけ。半端なところで下船しても、悪夢の種が増えるだけだ」
「それは言えてる」
 白石は笑った。
「おかしいな。今日の和井田は、言うことにいちいち含蓄がある」
か、逆だ。今日は聞く側のおまえがしおらしいんだ。いつもそういう態度でいろ。おれという友人の有難みを思い知れ」
「その恩着せがましさがなけりゃ、もっといいんだが……」
 会話をさえぎるように、着信音が鳴った。
 和井田の胸ポケットからだ。iPhoneではなく、警察支給の携帯電話の着信音であった。和井田が頰を引き締め、即座に応答する。
「おれだ、どうした。……あ? 確かか」
 声のトーンが変わった。目の端が引きる。アルコールで緩んでいた顔が一気に険しくなる。
 和井田は通話を切った。
「どうした?」
「──薩摩志津が、隠れ家からいなくなった」
 和井田が唸るように答える。
 白石は思わず腰を浮かせた。
「どういうことだ。自主的に失踪したのか」
「いや、彼女は伊知郎がのこした郊外の別荘にいた。連絡がつかないので捜査員が急行したところ、家内に荒らされた形跡があり、志津が消えていたそうだ。玄関の鍵も、外から壊されていた」
「そんな──。見張りは付けていなかったのか」
「薩摩志津は容疑者じゃない。逃亡のおそれもない。最初の一週間は泊まり込みで女警を付けたが、いまは二時間ごとに安否確認し、食料などを差し入れるにとどめていた。なかば以上は自殺を防ぐためだった。……まさかいまになって、かっさらわれるとはな、畜生」
「いったい、誰が」
 白石はつぶやいた。和井田がつづける。
「くわしくは鑑識の報告を待たなきゃならん。だが室内には、泥靴の足跡が複数残っていたらしい。おそらく作業靴で、サイズは二十六センチだそうだ。これは大須賀弘の靴のサイズと一致する」
 言いながら和井田は立ちあがり、ソファにかけていたジャケットを摑んだ。
「すまんが今夜はここまでだ。おれは署に戻る。……くそったれが。この事件はどこまでも振りまわしてくれるぜ」
 言い捨てた語尾に、怒気がこもっていた。

#7-6へつづく
◎第 7 回全文は「カドブンノベル」2020年2月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年2月号

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