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連載

一木けい「奈落の踊り場」 vol.3

夢か現実かも分からない世界で、私はあの人に出会い、落ちていった。注目の新鋭がおくる問題作、開幕――。一木けい「奈落の踊り場」#1-3

一木けい「奈落の踊り場」

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    3

 気がつくと真崎のことを考えている。頭から追い出してしまいたいのに。
 あんなほんの数時間の出来事に、どうしてこんなにもがんじがらめになっているのだろう。
 いま道の向こうからあの人が歩いてきたら、会いたかったと言ってしまう。いや、駆け寄って抱きついてしまうかもしれない。怖ろしかった。会いたいのに会いたくなかった。会ったら、はじまってしまう。
 なにかうつくしいもの、驚くものを見ると、これについてどう思うか真崎に訊いてみたいと思うようになった。あの目と、話がしたかった。たくさんたくさん、話したかった。
 くやしくて苛立った。どうしてこんなにもあの目に囚われているのか。
 知りたいと思ったらアウトだから知りたいと思わない努力をした。
 深夜。ベッドに入って電気を消す。暗闇が降りると同時に瞼を閉じて自分に言い聞かせた。
 これでよかったんだ。なにも起こらなくてよかったんだ。
 胃が痛い。眠れない。この感情は間違っている。諦める。もうあの店には行かない。どうやったら連絡先を交換できるかなんて妄想をしてはいけない。
「もう忘れる」
 口に出して言ってみた。行動は舌を簡単に裏切った。
 洗濯したハーフパンツとお礼のお菓子を持って、あのイタリアンレストランを訪れた。
 真崎はいなかった。シフトに入っていないのか、体調をくずしたのか、それとも辞めてしまったのか。知りようがない。尋ねる勇気もない。仕方なくボンゴレを注文した。待っていたら彼が現れるかもと思い、これ以上はむりというくらい時間をかけて食べた。彼は現れなかった。
 会計を担当してくれたスタッフに、真崎に渡してもらうよう紙袋を託した。
「まさきさん?」
 首の太いさんぱくがんの男性は首をかしげた。それから、ああ、と思い出したように目をひらいて、顔をゆっくり私に向けた。
「渡しておきますね」
 にっこりほほ笑んで、彼は紙袋を受け取った。
 翌週、再び行った。またしても彼はいなかった。
 会えなくて苛々した。
 会いたいたったひとりの、その人に会えなくて、気が変になりそうだった。断崖絶壁で脚を踏み外し、片手だけでこの世界にしがみついている私を、すくいあげてほしかった。ほかの誰でもなく、真崎に。
 視界に入るものすべてを、しっかり見るようになった。街も車も人の顔も。どこに彼が潜んでいるかわからない。
 この角度は思い出しやすい、という角度があった。何度もよみがえらせた。鋭く険しい眼光。瞬きが少ないせいでとても落ち着いて見える、あの表情も。
 妄想している道の先から夫が歩いてきたとき、もうだめだ、とつぶやきそうになった。
 私は現実を生きていなかった。記憶のなかでかろうじて呼吸していた。

 やっと真崎を発見した瞬間、よろこびが脳内でスパークした。
 真崎はスーツ姿で、レストランの入口脇の、薄暗い路地へ続く道の壁にもたれて、コンビニのおにぎりを食べていた。満月に照らされ発光しているように見える。細身の青系のスーツは真崎の引き締まった肉体によく似合った。頭脳めいせきでタフな、スパイ映画のエージェントみたいだった。
 悦びと罪悪感が同時に沸き起こる。悦びは罪悪感を容易たやすりようする。
 冷静沈着なたたずまいでおにぎりをむしゃむしゃ食べているから、色気があふれて、いますぐそのあしもとひざまずきたくなった。
 真崎がこちらを向いた。
「あれ? うちにいらっしゃった方ですよね」
 激しく落胆した。彼は私のことなど思い出しもしなかった。
 彼は私のなかのほとんど。
 私は彼のなかの0・01%。
おぼえていらっしゃらないかと思いました」
 会ったら何を言ってしまうかわからない、そう思っていたのに、いざ顔を見たらちゃんと社会人としての対応をとることができた。
「いやいや、家に入れた人忘れてたらやばいですよね」
「これからお店ですか」
「いいえ、もう上がりです」
「おにぎり、お好きなんですか」
「今日は米の気分だったんです。パスタとかピザとかじゃなくて。車酔いしたから梅も食いたかったし」
 自分で運転してここまで来たのだろうか。どんな車に乗っているのだろう。どんなふうにハンドルをさばくのだろう。
「これから彼女とデートですか」
「彼女なんていませんよ」
「真崎さん、三十一歳なんですよね?」
 ほんとうに彼女はいないのかという意味を込めて尋ねると、
「来月、三十二歳になります」と返ってきた。
「私も来月、誕生日です」
「え、いつですか?」
 私と真崎の誕生日は同じ日だった。
「すごいな、こんな偶然あるんだ」
「私、同じ誕生日の人、はじめて出会いました」
「俺もです」
「彼女がケーキ焼いてくれるんですか?」
「だからいないって言ってるのに」
「別れたばかりとか」
「まあそういう感じです。俺、執着しないから」
「そういう雰囲気ありますよね」
「しつこいの、だめなんですよ。電話も出るまでかけてくる人とか苦手で。そうか、ユリさん誕生日同じなのか。いっしょにお祝いできたらいいですね。まあ難しいでしょうけど」
「え?」
「旦那さんはなんのお仕事をしてらっしゃるんですか」
 車関係です、と左手を右手で覆うようにして答えた。
「門限はあるんですか」
「ないです」
 上品な角形の時計を確認して、真崎は言った。
「ならまだ話していられますね」
 麗しい横顔と、ほんの少しの思わせぶりな会話。それだけで満足だった。
「恰好いい時計」
「ありがとうございます。亡くなった祖父の形見なんです。ベルトだけ付け替えました」
「お洒落なおさまだったんですね」
「そうですね。銀行員っていう堅い仕事だったけど、持ち物にはこだわっていて、孫の目から見てもすごく洒落てたな。女性にも確実にもてたと思う。父も銀行なんですけど、父はぜんぜんそういう感じじゃないんですよ。生真面目で、服も母が買ってきたものを文句も言わず着る。酒も煙草もやらない。内気で口数が少なくて、女遊びとか一切しない」
「真崎さんはお祖父さまに似たんですね」
 どういう意味ですか、と真崎が笑い、笑いやんだとき、視線が絡まり合った。その眼差しの強さに、社会とか常識とか家族の顔とか、あっさり吹き飛ばされる。数え切れないほど問い続けてきた「どうして?」が口からあふれ出てしまう。
「どうしてあんな目で見たんですか?」
 真崎は月の裏側を見るような目をして首を傾げた。革靴が砂利を踏む音がした。彼が数歩、路地裏に下がる。背中が闇に溶け、肩、腕、腰、と順に暗がりに染まっていく。彼の声が内耳の底にそっと降りた。
「どうしてそんな目で見るのって、それは、俺が思ってましたよ」
 見えない糸に肉体を縛られ手繰り寄せられるように、私も彼と同じ闇に脚を踏み入れた。指先が指先にかすり、電流が走った。囁くように彼が言った。
「反則していいですか?」
 理性の失われる音がした。
 だめです、ようやく喉から声を絞り出したときには唇と唇がふれている。見た目よりやわらかく、厚みのある唇だった。吸いついてふっと離れる。隙間ができた瞬間、心細さと強烈な飢えが込み上げてくる。もっと、と心のなかで叫ぶより速く、舌が進入してくる。はじめは控えめに、それから徐々に躍動するように。脳がしびれる。唾液が細い糸を引いた。

 気づいたら朝で、目覚まし時計が鳴っている。
 白い光のなかで私は感動にふるえる。朝まで一度も目を覚まさなかったのはいつぶりだろう。胃痛も消滅した。トーストとサラダの朝食を用意しながら考える。
 ゆうべの出来事はほんとうにあったことなのだろうか。
 起きてからも何時間も幸福な気分に浸れる夢みたいだ。夢かもしれない。あんなこと、現実味がなさすぎる。私たちはキスをしながらどんどん闇の奥へ進み、互いの髪や頰に触れた。熱い息のかたまりがそこここに立ち昇った。分厚い掌に耳をふさがれ、口内の音が頭蓋骨にこもって大きく響いた。どこからか香ってくるきんもくせいと、彼の香水が混ざり合う。この一瞬だけの匂いだと思って脳に刻み付けた。
 どれくらいの時間が経ったのか、まったくわからなかった。
 街灯の下に戻ったとき、彼のしようひげに気づいた。
「伸びてますね」
「夜だから」
 低く笑う彼は、どこまでもオスっぽかった。
 彼と交わした会話、視線、唇にあたる無精髭の感触。何度も取り出して愉しむ。たったあれだけの時間で、彼は私にたくさんのフックを作った。梅干し。角形の腕時計。銀行。何かを目にする度、真崎のことを考えてしまう。白いシャツ。反則。
 ごみを出して戻ってくるとスマホをひらいた。真崎からメールが届いていた。
 文意はもちろん、彼が考えて打ってくれた文字が残っている、ということが無性にうれしかった。私のために時間と脳の一部を割いてくれた。暗記するくらい何度も彼の文章を読む。世界が輝いて見える。
 夕方にはその魔法はとけてしまう。自分で自分にあきれる。どうしてこのどう読んだってなんの感情も込められていない文章にそこまで悦べたのだろう。

 あいたいなんて連絡をしてしまわぬよう細心の注意を払う日々がはじまった。
 ほろ酔いのときは危険だった。これくらいの内容なら送っていいんじゃないか、とゆるんだ脳で考えてしまう。いま彼は、美しい女の人とお酒を吞んでいるかもしれない。私といるときなんかより百倍リラックスして、千倍興奮して。
 日々の希望の濃度が濃くなった。彼から連絡が来る可能性があるという希望。
 メールの返信が遅いと不安になった。変なことを書いてしまったのかもしれない。うつとうしいと思われた。警戒されている可能性だってある。いや、単に忙しくてメールを返せないだけだ。それは結局、私の優先順位が低いということ。ここまででもう満足、そう思っても心のどこかではキスのその先を欲している自分。みっともない。こんな私をあの男が求めるわけがない。再会したときに思い知ったじゃないか。彼の日常において私の占める割合がいかに低いか。もうメールはこない。前回のあれが最後。
 そうやってもやもやと考え続けた果てに届くメールに、狂喜した。たった一行で天にも昇る心地がした。
 携帯が光っても、もう「彼からかも」なんて期待もしなくなったころ届くメールの威力はすさまじかった。諦めとの落差で、歓喜はよりいっそう跳ね上がった。日常で閉塞感に押し潰されそうになったら彼がくれた文字を読んで息をした。

 時々家族で外食をした。大量に酒を吞む夫の食事は果てしなく長い。私は乾杯だけ付き合う。
 夫の返事はいつもワンテンポ早い。まだ話し終わっていないのに「うん」と言う。大事な話を大声で覆いかぶせるように遮られることもあった。覆われてしまった会話は窒息してそのまま蘇ることはない。
 食事の後半はひたすら飲まず食わずでじっと終わりを待つ。どうして私が何も口にしていないことに気づかず喋り続けるのか。セックスと同じだ。夫が仕事の愚痴を言い始める。郁也に聞かせたくないような汚い単語を口にし始めたら極めて赤に近い黄色信号。黄色から赤までは一瞬。夫は年々短気になっているような気がする。脳がアルコールにやられているのかもしれない。
「タウン情報誌なんかさ、みんなが愉しく読める本であるべきなんだよ」
 夫がそう言い放った。私が郁也をお手洗いへ連れて行っているあいだに、手持無沙汰になってレジ横のラックからその冊子を持ってきて読んでいたらしい。
「ほらここ、見てみろよ」
 芋虫のような指が示すそこには、夫のかんに障るフレーズがあった。私が細心の注意をはらって使わないようにしている単語だった。夫はその記事を書いた人物がいかに幼稚で浅はかで、論理性を欠いた者であるかを語り、そうだろ? と念押しするように言った。
 みんなが愉しめる本。私は心のなかでつぶやく。そんなもの、この世に存在するだろうか? どんなに当たり障りのないことが書かれてあっても、その文章に傷つく人はいるだろう。むしろその当たり障りのなさに苛立つかもしれない。
 夫をちらりと見る。
 浮かんだ言葉を、目の前にいる人にそのままぶつけられたらどんなにいいだろう。
 素朴な疑問を口にしただけで夫は「いま俺は文句を言われている」と身構え戦闘モードに入ってしまう。知識で私を言い負かそうとして、話題がどんどん本筋から逸れていく。時間と体力の浪費。だから私はほんとうに思ったことではなく、夫の気分を害さない言葉を喉の奥から絞り出す。
 つまりこの人との会話は、にこにこ同意する以外、手立てがない。

「真実なんて相対的なものですから」
 みんなが愉しめる本とはどんなものか、尋ねた私の視線をしっかり受け止めて真崎はそう答えた。
「どういうこと?」
「学生時代シアトルに留学してたとき、日本史の講義を受けたんですよ。講義って言っても日本みたいに先生が話すことを一方的に聴くんじゃなくて、教師と生徒、もしくは生徒同士でディスカッションして作り上げていく感じなんですけど、ともかくそこで、アメリカで学ぶ日本史と、日本で学ぶ日本史の違いを、思い知ったんです」
「そんなに違うの?」
「もう、ぜんぜん違います。アメリカから見るとそうなるのか、ってきようがくしました。だから極端な話、誰かが誰かを殺したって、視点ひとつで受け止め方は正反対になるんですよね。悪いのはこの人、なんて言いきれないって言うか」
「もしそこで殺されたのが自分の大切な人だったとしても、そんなふうに思えるかな」
 私の問いをゆっくり自分のなかでしやくして、真崎は次の言葉を紡ぎ出す。
「確かに、それは難しいでしょうね。うん、ユリさんにもしも何かあったらって思うと、さっきの発言はずいぶん恰好つけだ」
「そんなことはないけど」
「でも、『本』ということでいえば、まさに相対的な真実の究極だと思うんです。みんながいい気分になる本なんてむしろ怖ろしいですよ。ある文章がひとりの人間を死に追いやり、また別のひとりを死のふちから救う。それが本というものだと思いませんか」
 コミュニケーションをしている、と思った。それは泣きたくなるくらいうれしく、生きているという実感を伴う悦びだった。
 真崎はいつも私の言うことに耳を傾けてくれた。考え、深く理解してくれた。
 時々、仕事のあいまに電話をかけてきてくれることもあった。
「あと十五分で電話会議なんですけど、ユリさんの声が聴きたくて」
 ありがとう、と言ったら彼はげんな声を出した。
「何かあったんですか。声がいつもと違う」
「大したことじゃないの。電話会議ってどんなの?」
「イギリス本社の広報と、スカイプでやるんです。それで、どうしたんですか」
「ううん、いい。あとにする。そんな大事なときに話すような内容でもないから」
「いや大丈夫です。話してください」
 数秒考えて、私は真崎に今朝の出来事を話した。
「息子が、学校に行きたくないって言ったの」
「原因に心当たりはあるんですか」
「先生が怖いんだって」
「怖いって、どんな風に?」
「叩くとかはないけど、言葉や態度がものすごく怖いらしいの。息子が作った学級新聞見てため息つくし、舌打ちもする」
「それでユリさんはどう思うんですか?」
「先生に対してはどうしてその職を選んだのかなって。息子には、それも勉強かなって思ったりする」
「なんの?」
「社会に出たら変な人っていっぱいいるでしょう。しんじられない大噓つきも、不機嫌をまき散らす人も、自分のプライド最優先の人も、とにかくちやほやされたい人も。その予行演習にはなるから、クラス替えまで辛抱しようねって話したの。その代わり学校がないときは愉しいことして過ごそうって」
「それは違うんじゃないですか」
 真崎はきっぱり言った。
「子どもの頃の変な先生は人間不信につながりますよ。厳しい環境に生きている子たちもいるんだから。家庭もだめ、先生もだめだったら、もう、生きていくのがつらくなる」
 私はこういうことを言われたかったのだと思った。

 その日私は、待ち合わせのカフェに新品のスニーカーを履いていった。
 先に来てカウンター席に座っていた真崎が振り向く。視線がぶつかった瞬間、立ちすくんでしまう。ほかのどんな思考も進ませてくれない強烈な目。
 その目が私の顔から足許へ、すとんと落ちた。
「それ、どうしたんですか」
 スニーカーに視線を据えたまま彼は低く言った。
「誕生日にもらったの」
「誰から」
 詰責するような口調にひるむ。夫から、と言ったらだめなのだろうか。
「誰から」
 もう一度訊かれて正直に答えた途端、真崎はスツールを降りた。手首を摑まれる。強く引かれながら店を出て、大股で歩く彼の歩幅に合わせ飛ぶように歩いた。
 大通りの交差点で真崎は、左右をゆっくり見た。それから片手を挙げた。空車のタクシーが私たちの目の前で停車するまでのあいだに、真崎は私のスニーカーを踏んだ。
 その重みは甘美だった。
「新品のスニーカーは踏むものなんですよ」
「初耳。誰が言ってたの?」
「高校時代の陸上部の先輩」
 言いながら、右も左も踏まれた。真崎のよく磨かれた革靴は裏もれいで、なんの跡も残さない。そのことが残念だと思う私はたぶんもう狂っている。真崎から汚されたい。痛めつけられたい。真崎のためならなんだってできる。
 車窓をイルミネーションが流れていく。いまが何月だかとつにわからなくなった。思い出すまでのあいだに指と指が絡まり合う。
 繁華街にある、アメリカの都市の名前のついたラブホテルに入った。タクシー代は私が払った。部屋を選ぶ真崎のとなりで、私はずっと顔を伏せていた。それをやってしまったら人間じゃなくなる、と頭のなかで誰かが言った。人間じゃなくなったっていいと思った。笑う息が私の頭のてっぺんに降ってくる。見上げると、真崎はあの怖い目で私をみおろしていた。
「誰かに見られたらそんなに困りますか?」
 顎を摑まれた。顔にかかる甘い息。キスだけで頭が真っ白になった。あの路地裏の夜と同じ、何も考えられなくなる。ぺりぺりとコンドームの包装を剝がす音がした。私は床にぺたりと座り込んでいる。広く薄暗い部屋。入口のところに、スニーカーが転がっている。さっき真崎が踏んで脱がせて投げたスニーカー。大きすぎるベッドと、安っぽい合皮のソファのあいだで、真崎を見上げる。ここでなら思う存分彼の目を見つめられる。人差し指が近づいてきた。深爪気味の大きな爪。先端が唇に接した。侵入してきた指が歯にふれ、水分を唇に塗りたくられる。彼が触ったところすべてに電流が走っていく。吐息をもらした瞬間、指が隙間からぐっと押し入ってくる。その指を、きっと怒るだろうというくらい強く嚙んだのに、彼はまったく意に介さないように笑ってぐるりと回し、私の上顎をなぞった。舌を指に絡ませる。そうしなければいけない気がした。縦にめても横に舐めても彼は冷静だった。野性的な目でずっと私をからかうように見つめていた。
 気づけば口内から指が消えている。ぽっかりと穴があいたような感覚。喪失の埋め方がわからず、同じことをしてみる。近づけた指を、真崎はゆっくりくわえた。
 真崎のやり方は私と違った。私の指紋を確かめるように、そっと舐めた。彼の舌はとても繊細に動いた。
 舌が指から離れ、手首をゆっくり上がっていく。尖らせた舌が、二の腕の内側の柔らかいところをう。首すじや耳を、独立した生き物のように動く。目線をしっかり合わせたまま。
 その舌は、見た目はすずしげなのにとつぜん毒針を突き刺してくる軟体動物のようだった。彼は怖ろしいほど器用で勘がよかった。私の表情をよく観察していた。
「どうしたらもっとユリさんを気持よくできますか?」
 繫がったまま荒い呼吸で問われ、そんなこと一度も訊かれたことがなかったと思った。

 淋しかった。それまでは平気だった淋しさが、急に平気じゃなくなった。
 あの夜、射精の瞬間、真崎は私の名前を呼んだ。そして身体を離すとき、私の太ももの内側にそっと唇をつけた。
 バスルームへ歩いて行く、彼の足首には大きな傷があった。
 ひとり台所にしゃがんで思い出していると真崎と無性に話したくなる。話題はなんでもよかった。好きとか愛してるとか言ってくれなくてよかった。ただ真崎と会話がしたかった。
 彼の声が聴きたい。それ以外のことは何も考えられない。声が欲しい。笑ったり唸ったりからかったりする、あの声が欲しい。
 やるべきに没頭することで紛らわそうとした。紛らわすことの意味のなさを思い知った。
 聴きたい声を聴く。会いたい人に会う。それは、他のことではまったく意味がないのだった。
 時々息が苦しくなった。真崎の声を聴かなければもう呼吸すらできない。電話をかけようとスマホを手に取る。迷惑かもしれない、とちゆうちよする。いったんそう考えだすとそうとしか思えずしゆんじゆんし続け、なるべく手短に話すことを考え、携帯を鳴らす。呼び出し音が鳴る度、喉が乾いていく。
 そうして彼が出ないとほっとした。彼がかけ直してくれる頃には切迫感は遠ざかり、落ち着いていることが多かった。彼の番号が表示された画面を見たときに、落ち着くのかもしれなかった。
 真崎なしでは生きていけなくなった。
 この人なら信じられると思えた。
 真崎は私の浮き輪だった。

▶#1-4へつづく
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