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連載

増田俊也「眠るソヴィエト」 vol.10

山奥でヤマビトと暮らし始めた当麻は――。 未知を求めて山奥へ進む異界冒険記! 増田俊也「眠るソヴィエト」#5-3

増田俊也「眠るソヴィエト」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。

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 小さな鼻歌が聞こえてきた。
 どきりとして振り返ると、美冬が歩いてくる。私のほうは驚いたが、美冬は眼を輝かせて小走りに来た。
「どうしたの?」
「顔を洗ってた」
「顔を洗うならあっちなのに」
 美冬が指さした。おそらくその方向に洗面ができる設備のようなものがあるにちがいない。
「もう洗ったからいいよ」
 私は桶を引っ繰り返し、なかの水を地面に空けた。
 美冬はそれを見てから私の顔に視線を戻した。
「朝御飯食べれるよ。呼んできてってママが言ってた」
「ありがとう。行くよ。今日の朝御飯は何?」
「いつものお肉だよ」
 美冬が言って、広場のほうへスキップしていった。その背中を見送ってから私は小屋に入った。棚に置いてあるタオルを借りて顔から首、腕などを拭いた。そして深呼吸してから小屋を出た。
 広場へ行くと、昨夜集まっていたメンバーが焚火のまわりで車座になっていた。昼間見るとよくわかるが、焚火のあたりの上部のよしは何重にも複雑に張られており、どこでどのような仕組みになっているのか煙は葦簀のなかで消えてしまっているようだ。斜めに設置されているので、もしかしたら森のなかのほうへ流れるようにしてあるのかもしれない。
 鍵谷が右手を上げた。
「おお当麻、来たか。ここに座れ」
 言われるまま近づくと、リサコが布を敷いてくれた。その上にあぐらをかいた。腕時計を見ると七時半過ぎだった。かなり寒く、焚火の火はありがたかった。
 リサコが木製ボウルを持ってやってきて私に差しだした。受け取ると、なかにはごろりとした肉塊と植物の茎の煮物が入っていた。茎は蕗だろう。全体にどろりとした何かをかけてある。匂いをたしかめるとのようだ。リサコがもういちど来て、今度は汁椀を私の前に置いた。いつもの干肉スープが入っていた。朝食はこのふたつのようで、みな黙って食べている。私も肉塊の煮物を口にしてみた。湯に入った干肉と同じ肉のようだ。ただ干肉ほどのしよっぱさはないので、肉塊のほうは塩抜きしてあるのだろう。
「俺たちは米やらパンやらっていうのは食わないんだ」
 鍵谷が肉を頰張りながら私に言った。
 たしかに黒彦と山中にいるときも、ここへ来てからも肉ばかり供される。
「肉だけ、ですか」
「そうだ。その肉も狩猟した肉だけだ。牧畜と農業を絶対的に否定するのが俺たちのルールだ」
「どうして?」
「牧畜と農業が地球破壊のはじまりだからさ。そもそも人間が一カ所に定住しての牧畜と農業ができたのは、せいぜい二千年前だ。それによって西洋では小麦、東洋では米の生産量を高め、人口が増え、人類は幸福になったように見える」
「そうじゃないんですか」
「よく考えてみろ。実際には麦や米のために土地を耕し、麦や米のためにをし、麦や米のために水を引く水路を掘ってんだ。麦や米がなければ人は増えない。人が増えないと麦や米は作らない。つまりな、こいつは麦や米の奴隷となって人間が働いている状態なんだ」
「なるほど……」
「狩猟と採取だけで二百万年ものあいだ人類は生きてきたんだよ。牧畜や農業をするようになって数百年から二千年しかたないのに、人類は地球を壊し、絶滅への秒読みまで始まってるじゃねえか。いまからでも遅くはない。狩猟と採取の生活にかえることが唯一、人間が生き残る道だ」
 鍵谷の強い意志を感じた。昨日の暴力性を差し引いてもしやべりは魅力的だった。
 眼をけいけいと光らせて続ける。
「このコミュニティはほんとに小さなもんさ。でもな。ここには私有財産もなけりゃ階級もねえ。そもそも下界には人間が増えすぎたのさ。狩猟や採取をもとに生活すれば日本だって数百万人しか住めないはずだ。そこに一億人以上が住んでいる。ここに問題の原因があるんだ」
 食べ終えた者は寝そべって文庫本を開いたり、女は編み物のようなことを始めた。彼らはときどきちらりと顔を上げて食事を続ける者たちを見ている。どうやらみなが朝食を終えるのを待っているようだ。
 全員が食べ終えると、鍵谷が手を合わせ、何かぶつぶつ言っている。
 と、静かに歌をうたいはじめた。
 それに合わせ、全員が歌っていく。信州大学のせい寮の友人が酔うとときどき歌っていた歌に似ている。じっと聞いていると、やはりそうだ。たしか原曲はソ連の労働歌で、日本では学生運動が盛んなころ、各大学の自治寮で広がったと聞いている。その出自からか、日本語で始まった歌が途中で英語になったりロシア語らしき言葉になったりドイツ語になったり、さまざまな外国語が交じった。黒彦が「ソヴィエトが好きならおさが喜ぶ」と言っていた言葉の意味がわかった。ここは労働コミュニティなのだ。そう思うと少し気が楽になった。
 歌が終わるとそれぞれ食器を手に立ち上がり、広場の脇へ歩いていく。ついていくとみなそこへ屈み込んだ。のぞくと、小さな川があった。いや、幅三〇センチほどの人工水路のようで透明な水がすばしっこく走っていた。そこで食器を洗っているのだ。水路は石組みで左右をはさみ、底にも石が敷き詰めてある。前の者たちがいなくなったところで私も屈み、食器を浸した。氷のように冷たい水だった。両手で丁寧に食器を洗い、立ち上がった。皆についていき、神殿横の小さな小屋へ入った。そこには大小の食器や鍋などが棚に整頓されて並んでいた。床には大小さまざまなたるが並んでいるが、漬物の類いか。廊下のようなものでつながった奥の暗い部屋にもそういった樽が積んであるのが見えた。
「今日の午前はひきものだ」
 鍵谷が声をあげ、歩いていく。それに旭と黒彦が続いていく。見ると女たちは神殿のなかへ入っていく。挽物は男だけでやる仕事なのだろう。
 小道を通って神殿の裏にある建物の前に着いた。
 四隅となかのところどころに木製の太い柱が立てられ、その上から帆布のテント地で大きく覆われている。その帆布は緑色の迷彩に塗られ、上から建物だと判別できないような工夫がしてあった。帆布の下には切り倒された原木が積んであり、皮を剝いで製材した木材も転がっている。大きなのこぎりのほか、種々ののみやナイフなどが作業テーブルの上に整頓してあった。そこここに作りかけの食器や椅子、テーブルなどが置いてある。
「当麻は神殿でくつろいでろ」
 鍵谷が言ってポケットから出した何かを口に放り込んだ。茶の葉だろう。
「いや、それでは申し訳ないんで」
「いたって何もできないさ」
「それはそうですが……」
「午後からは別の仕事だ。そのときは手伝ってくれ。午前中は神殿のなかで女たちと自己紹介しあっておいてくれ。な」
 瞳のなかに悠々たる余裕があった。リーダーでまつられてこそ、力を発揮するタイプだ。
「わかりました」
 私は肯いて、神殿へ歩いた。

      3

 神殿にはリサコと亜希、そして美冬の三人がいて、本を読んだり裁縫仕事をしたりしていた。美冬が読んでいる文庫本を見せてもらうと、ドストエフスキーだったので驚いた。しかも中身は英語である。リサコが英語を、旭が歴史や数学を教えているという。
 リサコは私の英会話はネイティブ並みだと言った。
「子供のころ以来会ってないけど父はアメリカ人だったから発音は綺麗だって言われる」
 外国の血が入っているからか二十代後半に見えていたが二十三歳だという。逆に美冬は幼くみえたが実は十二歳で、下界でいえば中学一年生の年齢だが、一度も学校へ行ったことはないという。亜希は苦笑いして年齢を言わなかった。
 リサコも亜希もなぜここにいるのかなど肝心なことになると話をそらすので、私も自分の話をすることを警戒しはじめた。そもそもこのグループはいったい何なのかと聞いただけで話しづらそうにした。労働コミュニティとしての顔があったとしても、それだけでこうして共同生活を続けるには何かが足りないように私は感じた。女だけだからねずみのことをこっそり聞いてみようかと迷ったが、もし彼女らが何らかの反応をしたら騒動になるかもしれないと思い、それは我慢した。そうやってしばらくみんなと話したあと、少し横になっっていたら、気づかぬうちに一時間半も眠ってしまっていた。まだまだ疲れが残っていた。
 昼食はまたしても肉であった。それを食べてから、男三人に連れられて奥山へ入った。イワナの群れる場所があるという。ウナギ針も仕掛けてあるのでそれも楽しみだと言った。
 道なき道を、鍵谷と旭は確実な足取りで進んでいく。その後ろから行く黒彦はまるで猿だった。前の二人が難儀している岩場を、黒彦は横見しながら跳ねるように歩いた。ときどき振り返って私がついてきているのか心配してくれた。数日前まで私と山を行ったときは遠慮して歩いていたのだということがわかった。猿に見えるのは頭にいのししらしき毛皮の帽子をかぶり、腰にも毛皮を巻いていることもあった。
 一時間ほど歩いたところで川の岸へ入り、そこを上流方向へ歩いた。幅は一〇メートルくらいだが、深さがかなりあり、流量の多い堂々たる川だった。カワガラスがたくさんいた。そこにセキレイやカワセミがときどき交じった。魚影が濃いからこその鳥たちだろう。
 途中で何度か五分ほどの休憩をとった。
 鍵谷と旭はそのあいだ岩に腰を下ろして水筒の水を飲んでいたが、黒彦は川に入ってイワナの餌の川虫を採取していた。それを見ながら鍵谷と旭は苦笑いしていた。
 黒彦はこの釣行にも日本刀を背負っていた。休憩時に触らせてもらったが、かなり重いものだった。こんなものをずっと持って生活していたら大変だろうと思った。今回はその日本刀に加え、網などの釣り道具、弓矢一式などを持っていた。
 黒彦が日本刀なら鍵谷は散弾銃である。革ベルトで背中に担いだその銃は、旭の所有物だという。七年前からこの山に入って、それ以来、警察への届けは更新していないので違法ということになる。しかし「でももう下りるつもりないから関係ないですけどね」と笑った。

#5-4へつづく
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