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連載

増田俊也「眠るソヴィエト」 vol.1

【増田俊也「眠るソヴィエト」】当麻を助けた男の正体は? 未知を求めて山奥へ進む異界冒険記!#3-1

増田俊也「眠るソヴィエト」


これまでのあらすじ

医学部を卒業するも医者にならず、大学に再入学した29歳の当麻一郎は、『山岳ジャーナル』の謎の生物を探すアルバイトに採用された。目撃情報を頼りに山奥を進んだ当麻は、川向こうに上半身裸の男を見つけるが、弓矢を向けられる。敵意のない旨を説明する当麻に一言も返さず男は森の奥へと消えた。目標地点に近づいた当麻は、獣用の落とし穴に落ち、身動きが取れなくなる。穴の中で死にかける当麻を救ったのは、川向うに見かけた男だった。

      1

 寝返りを打とうとして眼が覚めた。
 しばらくどこにいるのか混乱した。カオスの雲が形となってきたのは二十秒ほどたってからだ。高く繁る樹々の隙間から白い陽光が幾筋か差していた。あの男の姿はなかった。
 上半身を起こそうとしたところで右肩がずきんと痛んだ。
 そうだ。脱臼していたのを、男が入れてくれたのだ。仰向けのまま怖々と動かしてみた。痛みはあるが、可動域は七割方ある。親指で強めに押してみた。内出血で腫れてぶかぶかしているが安静にしていればこのまま治っていくだろう。
 獣臭がすると思ったら獣の毛皮の上で寝かされていた。あらためてゆっくりと上半身を起こした。汗まみれの体にたくさんの葉が張り付いている。毛布が掛けられていると思っていたが木の葉だった。その葉を払い落としながら素っ裸だということに気づいた。その裸は張りがなく、腕も脚も腹も、げっそりと筋肉が落ちていた。穴のなかで何日も飲まず食わずだったのだ。
 左太腿にTシャツのようなものが巻いてある。外すと乾いた血がついていた。太腿の裏に傷があり、そこが瘡蓋になっている。穴に落ちたとき竹槍の先端が刺さった場所だ。たいした傷ではないようだ。あたりを見まわした。私のザックは大きな岩の下に立てかけてあり、着ていた衣類は樹のあいだに張ったロープに並べて掛けてある。
 立ち上がろうとしてよろけた。もういちど立とうとしてまたよろけた。頭が朦朧としていた。何度か深呼吸して、傍らの樹の枝を左手でつかみ、ようやく立ち上がれた。素っ裸の体に藪蚊がまとわりついている。
 焚火の跡に古い薬缶が二つかけてあった。薪は熾火になりオレンジ色に光っている。その横の石の上に私の水筒が置いてある。近づき、水筒を手にし、キャップを捻って中を確認した。水ではなく湯のようだ。男が入れてくれたのだ。一口含むと、それほど熱くはない。口のなかで転がして本当にただの湯なのか確認してから飲んでいく。空腹の胃が次第に温まっていく。ひとつゲップをして、さらに二口飲んでキャップを閉めた。
 巨木の根のところに男のものらしきいくつかの荷物が置いてある。その横には高さ一〇センチほどの低い櫓が木の枝で組まれ、上に猪と雉の死体が無造作に置いてある。猪は一〇〇キロはありそうな大物だ。櫓が組まれているのは、おそらく土中に棲む虫たちに食われないようにしているのだ。
 自分の衣類が掛けてあるところまでよろけながら歩き、トランクスとTシャツを手にした。手触りから、ただ干しただけではなく洗ってあることがわかった。鼻を近づけてみると微かに石鹼のにおいがする。トランクスをはき、Tシャツを着た。ジーンズを手にすると、これも洗ってあった。ごわごわとしたそのジーンズをはき、靴を探した。左手の樹の枝に靴下と一緒に吊してある。手にすると、やはり洗って乾かしてあった。靴下を履き、靴を履き、岩の下に立てかけてあるザックを持ってきて座り直した。
 ザックの背中側に二つの穴が空いている。
 穴に落ちたとき、ここに竹槍が刺さったのだ。
 中を検めると、鋭い先端が替えのTシャツやフードパーカーを貫き、干葡萄や干肉の袋を破り、文庫本二冊を貫き、畳んだ地図を突き破っていた。もう一本は飯盒を貫き、マグカップを破壊していた。その竹槍を止めたのは背中側にあてがった樹の幹で作った板だった。川を渡るときに荷物用ボートにしたものである。しかしその板にも竹槍の先が二センチほどめり込んでいた。ぞっとした。一本は心臓の位置、もう一本は肝臓の位置だ。偶然が重なって本当にぎりぎり命が助かったようだ。文庫本と地図を手にするとぼろぼろと崩れてしまった。竹槍が刺さって破れたところに二度の雷雨があり、濡れては乾くのを繰り返して駄目になってしまったようだ。
 カメラは無事だった。あの男が入れてくれたのだろう、はめていた腕時計も入っていた。時計の日付を確認すると森に入ってから九日たっていた。頭のなかで計算していたより一日長い。昼夜眠り続け、日が変わるのに気づかず、どこかで重なっているようだ。腰につけていた折り畳みナイフも革ケースごと入っている。時計を手首に巻き、折り畳みナイフをベルトにつけた。
 ふと思いつき、ザックの脇ポケットを開けて財布を引っ張り出した。手にとって開きながら鼓動が速まった。しかし中身はすべてそのままだった。
 ほっとして、ザックの中にちらばる干葡萄を拾って口に放り込んだ。空腹の胃壁に甘みが染みてチクチクした。その違和感を我慢しながら拾っては口に放り込むことを繰り返し、そのうち食べ尽くしてしまった。今度は干肉を齧った。
 ふと見ると、苔むした岩の上に草の葉が敷いてあり、その上に団子のようなものが三つ並べてあり、蟻がたかっていた。大きさは握り飯ほどあるが粒状の米ではない。小麦粉か何かを練ってかため、茹でたものだろうか。あの男が作ったものだろう。食べていいのかしばらく躊躇したが、飢えがまさった。
 手に取り、においを確認した。小麦粉のにおいではないが、食べ物であるのは間違いない。蟻を手で払い、一口齧ってみた。薄い塩味だけの粉っぽい食べ物である。三口四口と大きく齧り、食べていく。飢えていた。
 後ろで枝が折れる音がした。
 驚いて振り向いた。
 あの男が立っていた。
 ちらりと私を見て、肩に担いでいるものを地面に落とした。ばさりと音がした。二羽の雉だった。矢傷があるのか赤錆に似た血の臭いが漂った。
 男が長靴を脱ぎながら地面の上にあぐらをかいた。あたかも私がここにいないかのようにリラックスしていた。
 肩幅が異様に広いが、かなり小柄である。座り込んだ素足は古い餅のようにひび割れ、真っ黒だった。懐から何かを出して熾火にかざし、口にくわえた。自家製煙草のようだ。薬草のような尖った臭いの煙が浮いた。
 男が長靴の底をつかみ、大きな石にばんばんと叩きつけた。土埃とともに脂と垢の臭いが混じった悪臭が広がった。あまりの悪臭に私は咳きこんだ。男がくわえ煙草のまま何かを差しだした。縁の欠けた茶碗だった。私は手のひらで要らないと制したがそこにぐいと出してきた。しかたなく受け取ると、男は薬缶のひとつを取って何かをそそいだ。そのまま見ているのでひとくち飲んでみた。昨夜の肉スープだった。
 茶碗を地面に置くと、男は黙って石の上に残った二つの団子を鷲づかみにし、私に差しだした。私は今度は遠慮せず左右の手でひとつずつつかみ、かぶりついた。誰かに取られるわけでもないのに野良犬のようにがつがつ食べた。
 その間に男は腰の剣鉈を抜き、ぼろ切れで拭って手入れをはじめた。ひとつひとつの動きが静かで、藪にひそむ小動物のようである。
 私は二つの団子を食べ終え、茶碗の肉スープを飲みながらその横顔に問いかけてみた。
「あなたは誰ですか」
 男が手を止め、こちらを見た。
 黒目がちの小さな眼が碁石のように光り、額や目尻に深い皺が寄っている。鼻の下から頰、顎にかけて生える髭は黒と茶のまだらで縮れていた。この男がビッグフットの正体なのだろうか。しかしビッグフットはもう少し背が高いはずだ。彼は一五〇センチないように見える。
「あなたは誰ですか」
 もう一度聞いてみた。
 男は黙っていた。
 理解できているのだろうか。
 表情からは読み取れない。
 思い立ってザックからカメラを出してみた。男はとくに興味も示さず私を見ている。男に向け、シャッターを切った。それでも静かにこちらを見ていた。カメラを縦に構え直し、もういちどシャッターを押した。男が首を傾げてカメラを見た。
「そいつはなんだす」
 初めて男が口を開いた。
 心臓が高鳴った。イントネーションがかなりおかしいが日本語である。喉がいがらっぽいのは煙草を吸っているからか。
「写真を撮らせていただきました」
 男が眉間に皺を寄せ、鼻をひくつかせた。
 写真を知らないのだろうか。
「カメラです。使ってみますか」
 差しだすと、男は両手で注意深く受け取った。
「写真を作る道具だすか」
「そうです」
「重いだすな。何でできてる」
「金属とプラスチック、それからガラスです」
 男は上に掲げて底を見たあと、顔の前で回しながら観察しはじめた。しかし常に上下も左右も間違っており、正しく持つことがなかった。
「この森に住んでるんですか」
 聞くと、男が視線を上げた。
 小刻みに二度肯いた。
「ここから近いところに?」
「奥だす。ずっと奥だす」
「ここから何時間くらい?」
「二日。二日かかるだす」
 いくら山中とはいえ、二日といえば相当な距離である。
「いつからそこに住んでるんですか」
「ずっとだす。おるが生まれてからずっと」
 男は、「俺」を「おる」と発音した。
「仕事は?」
 猪の死体を指でさした。猟師ということだろう。
「あんたは何しに来ただ」
 本当のことを言っていいのだろうか。
「大きな猿を探しにきた」

>>#3-2へつづく ※9/19(木)公開

◎第3回の全文「カドブンノベル」2019年10月号に掲載されております。


「カドブンノベル」2019年10月号

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○第1,2回は「文芸カドカワ」('19年6,7月号)でお楽しみください。

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最新号 2019年10月号

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