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連載

伊東潤「もっこすの城 熊本築城始末」 vol.16

秀吉亡き後の勢力争いは、いよいよ激化。秀頼を守りたい清正だったが……。 伊東潤「もっこすの城 熊本築城始末」#10-3

伊東潤「もっこすの城 熊本築城始末」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。

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 八

 六月十八日、じようらく命令を拒否したあいうえすぎかげかつを討伐すべく、とくがわいえやすとそれに従う諸将はふし城を出陣した。七月二日にはに到着し、七日には参陣諸将を江戸城に集めて大軍議を催した。
 一方、七月十七日、もうてるもとおおさかに入城することにより、事態は急変する。同日、奉行三人が連名で家康への弾劾状「内府違いの条々」を出すことで、家康はとよとみ家のしつせいという立場から一転して謀反人とされた。
 そして八月一日、伏見城に籠もる徳川方留守居部隊を、西軍が襲撃することで大乱の幕が切って落とされた。
 九州でも、大乱は目の前に迫っていた。そうした中、きよまさは家康に味方することを決断する。
 清正は母の葬儀で国元に戻ったまま、上方に行くことはなかった。というのも家康から、九州における西軍勢力の掃討を依頼されたからだ。家康も清正も、またぜんなかくろじよすいも、豊臣家奉行衆との戦いが長くなると見ており、家康は清正と如水に、九州の取りまとめとの毛利家を背後からけんせいする役割を課したのだ。
 一刻も早く大坂に駆けつけ、ひでよりを守りたい清正だったが、長丁場の戦いになると見て、ひとまず九州の西軍勢力の壊滅を目指すことにした。

 そうした世の中の動きとは裏腹に、藤九郎とその配下の者たちは、隈本城の築城にまいしんしていた。
 六月には天守や櫓群のぎようが始まり、同時並行的に石の切り出しも開始された。七月になると、又四郎の描いた正確な図面を元に、木材の切り出しが始まる。八月には、木材を図面に従って切断する作業も開始された。いよい天守を中心とした本丸の築城が佳境に入ってきた。
 しかし藤九郎の体調は思わしくなかった。当初はひどい風病だと思っていたが、暑い盛りの八月になっても微熱が続き、咳も収まらない。それでも藤九郎は自宅とちやうすやまの現場を往復していた。時にはを出してもらうこともあったが、たいていは近くに住む又四郎の介添えを受けながら徒歩で向かった。
 この病が深刻なものかもしれないと思い始めていた藤九郎だったが、周囲には気取られないよう、常と変わらぬ舟底袖の羽織にたっつけばかまといういでたちで茶臼山に通った。
 九月上旬、清正が普請途中の現場を訪れる日がやってきた。
 清正はいいかくもりもとゆうおおといった宿老たちを引き連れ、茶臼山に登ってきた。総奉行の大木土佐は、藤九郎の病状が芳しくないのをおもんぱかり、天守台の下で待つよう言いつけていた。
 清正は土佐の説明を受けながら、何かを問い返している。
 清正一行の姿が見えてきたので、藤九郎らは敷かれたむしろの上に平伏した。
「藤九郎、久しぶりだな」
「ご無沙汰いたしておりました。それがしが不在の時は、石垣造りなどを指揮していただいたようで、ありがとうございました」
 清正はしばしば茶臼山の現場に姿を現し、時には自ら石積みの指導をしたと聞いている。
「昔取ったきねづかだ。たいこう殿下もよくそうしていた」
 清正が「殿下」という言葉を発する時、そこには深い愛情がにじみ出ていた。
 その時、咳の発作が襲ってきた。
「どうした」
「ご心配には──、ご心配には及びません」
 身をよじり清正から遠ざかるようにして、藤九郎は咳をした。
 慌てて懐から手巾を取り出し、口に当てる。いつもと違う感覚がしたので、ちらりと手巾を見ると、朱に染まっていた。
 ──まさか、ろうがいか。
 ようやく咳の発作が収まったので、藤九郎は手巾を丸めて懐に突っ込んだ。
「無理をさせていたのだな」
「いえ、そんな。ご無礼仕りました」
「明日から、しばらく養生せい」
「は、はい」
 清正はしゃがむと、藤九郎の肩に手を掛けた。
「そなたは本当によくやっている」
「も、もったいない」
「何を言う。そなたは加藤家の宝だ。これからも多くの城を造ってもらう」
「も、もちろんです」
「だからこそ──」
 清正が立ち上がる。
「自愛せい」
 清正が大きな背を見せて去っていった。
 藤九郎は、この時ほど加藤家に仕官してよかったと思ったことはなかった。

 八月一日の西軍による伏見城攻撃で始まった豊臣政権内の戦いは、会津征伐から一転して兵を西に向けた徳川家康によって、持久戦ではなく決戦が行われる公算が高くなってきた。
 八月二十三日、ふくしままさのりいけてるまさら東軍の先手部隊が、西軍の城を落城に追い込む。その一方、毛利家の部隊が東軍の城を攻略し、双方の動きが慌ただしくなってきた。
 そして九月一日、徳川家康が江戸を出発して方面に向かうことで、決戦の機運は高まってくる。
 こうした上方の動きが九州にもたらされるのは、ちょうど半月ほど後だった。そのため一日でも早く新たな情報を手に入れるため、九州の諸大名は躍起になっていた。
 徳川家康の江戸進発の情報が届いたことで、清正は遂に九州制圧に乗り出した。
 しくもせきはらで一大合戦が行われたのと同じ九月十五日、清正は隈本を出陣した。いったん北東のぶん国方面に向かったものの、西軍に付いたなかがわひでしげが戦わずして降伏してきたため、兵を転じて肥後国南部の西にし領へと進んだ。そして九月十九日には、小西ゆきながの本拠である城を包囲した。
 関ケ原合戦の結果は、いまだよせの加藤勢にも、城方の小西勢にももたらされていなかった。そのため二十日から始まる宇土城攻防戦は、れつを極めるものとなった。
 城主の小西行長不在の城なので、容易に落とせると思っていた清正だったが、小西方も頑強な抵抗を示した。
 十月初め、ようやく関ケ原合戦の情報が入り、続いて行長が処刑されたことも伝わってきた。清正はこの情報を城方に知らせて降伏開城を迫ったが、小西方は受け容れない。偽情報かもしれないからだ。
 しかし次第に宇土城内にも、関ケ原での敗戦や行長の死が確かなものだという情報が伝わり、十月十三日から和睦交渉が始まった。そして十五日、宇土城は降伏開城し、清正の戦いは終わった。

#10-4へつづく
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