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連載

寺地はるな「薄荷」 vol.23

【連載小説】「話を聞いてほしい」という希和の願いに夫は――。寺地はるな「薄荷」#6-1

寺地はるな「薄荷」

※本記事は連載小説です。



 視界の端で赤と緑が散った。ばらばらという音とともに、青と白も。黄色、ピンク、ラメの混じった紫。色彩は床の上でいきおいよくはねて、あらゆる方向に転がっていく。
「スーパーボールだ」
 隣ではるが驚いたような、ほんのすこし笑っているような声を上げる。ショッピングモールの広場にミニ縁日のコーナーができていた。わたあめの機械やポップコーンマシンの並びにスーパーボールすくいのビニールプールがあった。そこにスーパーボールを補充しようとしたショッピングモールの従業員の手元がくるって床にぶちまけてしまったようだ。数名がかりで拾い集めているのをも手伝おうと腰をかがめる。
 落としたら拾えばいい。簡単なことだ。落とした相手が今みたいに偶然にその場に居合わせた他人だったら黙って手伝うだけなのに、自分の子どもだといらってしまう。
 無意識のうちに、なにを言ってもいい相手だと決めてかかっている。子どもをひとりの人間として尊重するということのむずかしさを、何度も何度も手のひらに載せて、たしかめてきた十年だった。以前は、尊重しているつもりがただの遠慮になってしまっていた。要はバランスなのだろうが、それがいまだにつかめない。
 右隣を歩く晴基の背がいつのまにか伸びていることに気づく。きっとこの子は、わたしが「むずかしい、むずかしい」と悩んでいるあいだに大きくなって、バランスを摑む前に離れていってしまうのだ、と思う。ならばああだこうだと考えこむより、この時間を存分に慈しむほうがいい。晴基とともに過ごせる時間は限られている。
「人が多いな」
 左隣のかずたかが顔をしかめる。和孝の会社の後輩、去年うちに来たこともある女性が今年の夏に結婚するらしい。ひさしぶりに出した冠婚葬祭用の靴が古びていたというので、朝いちばんにショッピングモールに買いに来たのだ。車で来たこのタイミングで、ついでにかさばるものを買いそろえたかった。たとえばクッションだとか、食器だとか。あちこち見てまわるうちに、どんどん人が増えてきた。
 人の多い場所が苦手な和孝がすこしずつ不機嫌になっていくのがわかる。今も落ち着かぬ様子で、しきりに上着の襟を引っぱっている。
 前にひとりでここに来た時はちょうどクリスマスの翌日だった。ツリーが撤去されて、お正月用品のコーナーになっていた。今はそのスペースにピンクと赤のバルーンが並んでいる。
「もうすぐバレンタインデーだから」
 人が多いことの説明になっているようななっていないような曖昧な希和のつぶやきに和孝は反応しなかった。「疲れた」「疲れた」とぼやいて視線を左右に投げる。
 時刻はちょうど十一時三十分だった。もうすこししたらフードコートも混み合うだろうが、今なら空席もあるのではないか。広いショッピングモール内を歩きまわって、ずいぶんおなかいていた。
「休憩がてらお昼食べてから帰ろう」
「俺、家で食事したいんだけど」
 ごねる和孝の背中を押し、フードコートに入っていく。
 晴基はハンバーガーが食べたいと言うので、千円札を渡してひとりでファストフード店の列に並んでもらう。和孝が「ごはんものならなんでも」と言うので、希和は『丼』と大きなのぼりを立てている店に向かった。すでに数名が列をつくっていて、希和も最後尾に並ぶ。それから何気なく和孝を見やった。
 おかさんとの一件を目撃した和孝の前で泣きじゃくったあと、希和は「わたしの話を聞いてほしい」と訴え、「聞くよ」と和孝は答えた。あれやこれやの不満をぶつけようと思っていたのだが、泣き顔で帰宅した希和を心配する晴基をなだめたり家事を片付けたりしているうちに、その夜はうやむやになった。
 翌日以降も、夫婦の関係について話し合うようなことはとくになかった。タイミングを逃してしまったのだ。
 ただ、会話は増えた。希和は思ったことを思った時に口に出そうと気をつけるようになった。和孝は和孝で、最近よく、夕飯を食べながら会社でのトラブルや帰宅途中で見かけた猫の話などをするようになった。
 以前より家のことを手伝ってくれるとか、希和をいたわってくれるとか、そんなことは一切ない。でも希和にとっては、以前より家の中の風通しがほんのすこしだけ良くなった。
 さっきだってそうだ。テーブルに肘をついて退屈そうにしている和孝を見ながら希和はひとりごつ。以前はただ「そりゃあなたは家でもただ座っていれば目の前に食事が出てくるんだものね」と恨めしく思っていた。和孝が「疲れた」とぼやいたら、むずかる赤ん坊が泣くのではないかと気をむように、すみやかに家に帰ることだけを考えていた。
 お昼食べてから帰りたい。それを伝えるのは、こんなにも簡単なことだったのか。和孝の好物だからと選んだ親子丼は汁と漬物の小皿がついていて、ふたりぶんを運ぶのは至難の業だった。「運ぶの手伝って」と和孝にLINEのメッセージを送ると、のろのろとこちらにやってくる。
 そのあいだにもフードコートはどんどん人が増えていく。
「せわしないな、こんなとこで食べるの落ちつかないよ」
 トレイを両手で持っておそるおそる歩く夫の後について歩きながら、希和は「ちっちゃい子がきゅうに飛び出してくるから気をつけてね」と声をかける。晴基はすでに席に戻ってきていて、細長いフライドポテトをつまんで引っ張り出していた。
「今日はなんで、急にここで食べたいなんて言い出したの?」
 割り箸をぱちんと音を立てて割りながら和孝が希和を見る。
「だって買いものして疲れて帰ってきてお昼の用意するの、面倒だもん」
 蓋を開けるとふわりと湯気が立ち上る。卵とだしの匂いに思わず目を細める。ひとくち食べて、思わず「ああ、おいしい」と呟いた。他人がつくってくれるご飯はおいしい。外で食事するたびしみじみそう感じる。
「レトルトに毛が生えたようなもんだろ、どうせ」
 失礼なことを口走った和孝が箸を動かして「あ、ほんとにいけるな、これ」と目を丸くする。
「そうでしょう」
「その草、なに?」と丼をのぞきこんだ晴基がふしぎそうな顔をする。
「草って。三つ葉よ」
「はじめて見た」
「家でつくる時もいつも入れてるよ」
「そうなの?」
 いやねえ、と吹き出した希和を、和孝が箸を止めてまじまじと見ている。
「なに?」
「いや、俺、今まで希和は料理が好きなんだと思ってたよ」
「どうして」
「だって毎日やってるし、そもそも女ってそういうもんだと」
 どうも、本気で驚いているらしかった。料理も洗濯も掃除も、希和が心から楽しんでやっていると思っていたという。
 自分はたしかに料理が好きな部類に入るかもしれない。けれどもすべての女がそうではないだろう。もしかして「好きなことをしている女の邪魔をしてはいけない」と遠慮して、家のことを一切希和にまかせていたのだろうか。そうなの? とくと、まあ、とうなずく。
「好きでやってることでもたまには休みたい時だってある。あなただって仕事が好きで毎日行ってるけど、休みなしでやれって言われたら嫌でしょう」
「俺、べつに仕事が好きだから毎日行ってるわけじゃないよ」
「こっちだってそうよ」
 晴基がすこし心配そうに両親を見ているのがわかる。だいじょうぶよ、という意味をこめて、かすかにほほんでみせる。だいじょうぶ、けんしてるわけじゃない。
 箸を止めたまましばらくなにごとかを考えていた和孝が「そうか」と言った。カーテンを開けたら晴れていたというような、すこんと明るい、どこか間の抜けた声だった。
「そうよ」
「そうだったのか」
 頷き合って、あとは食事に専念する。
 フードコートを出ると晴基が「ねえ、くじやっていい?」と希和たちを振り返った。さっきのミニ縁日のコーナーにあったのだそうだ。和孝が五百円玉を渡し、晴基は「ありがとう」と笑って、走っていく。
「あいつ、どうだったの」
 どうってなに、と訊きかえした。運動会だよ、と人さし指で頰をく。
「このタイミングでその質問する意味がわからないんだけど、なんなの?」
「いや、前より走るのが速くなったように見えたから」
「そう?」
 徒競走はビリでゴールしていた。ダンスもあまりうまくなかった。
「でも、それってあの子が大人になった時、なにか問題ある?」
 和孝は天井からつり下がったハートの飾りをぼんやり見上げてから「ないな」と呟く。
「大人になったらもう徒競走なんてしない」
「でしょ?」
 晴基の後を追ってミニ縁日に向かう途中で、和孝が「俺も遅かったよ」と呟いた。
「走るのが?」
「うん」
「わたしも」
 結婚前も、後も、和孝の足が速いかどうかなんて気にもしなかった。ほんとうに、その程度のことなのだ。

#6-2へつづく
◎第 6 回全文は「カドブンノベル」2020年12月号でお楽しみいただけます!


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