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連載

寺地はるな「トマトとりんご」 vol.20

【連載小説】年末になっても「アフタースクール鐘」に通う親子の間では新たな問題が……。寺地はるな「トマトとりんご」#5-2

寺地はるな「トマトとりんご」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 十八時には迎えに行く、という連絡をしてきたちゃんのお母さんが十九時を過ぎても来ない。電話をかけたが、留守電になってしまう。壁の時計と、今は壁にもたれて児童書を読んでいる美亜ちゃんを交互に見る希和に、かなめが声をかけた。
「希和さん、もうあがっていいですよ」
 要はしかし、今から他の子どもたちを送っていかなければならない。
「父か姉に上に来て、見ててもらいますから」
 内線をかけるべく要が電話機を持ち上げた時、インターホンが鳴った。美亜ちゃんのお母さんは画面ごしでもわかるほど、顔色が悪かった。
「遅くなってすみません」
 美亜ちゃんのお母さんは頭を下げようとしてよろめく。壁に手をついて、懸命に呼吸を整えている。
「具合悪いんですか」
「いえ、だいじょうぶです」
「だいじょうぶですか」と質問された人はだいじょうぶじゃなくても「だいじょうぶ」と答えてしまう、となにかで読んだ。だから具合が悪いのかと訊ねたのだが、美亜ちゃんのお母さんには通じなかった。
「すこしここで横になっていったらどうですか?」
 いや、だいじょうぶです、と真っ青な顔で首を振る。その会話を聞きつけた要が出てきて、美亜ちゃんのお母さんの顔を見るなり「だいじょうぶじゃないでしょう」と首を振った。
「ほんとにだいじょうぶですから」
「だめです。無理をしている大人には子どもを渡せません」
 要にしてはめずらしく強い口調だった。美亜ちゃんのお母さんはまた口を開いたが、それ以上立っていられなくなったのか、ずるずるとその場にへたりこんでしまう。
「下で、診てもらいますか?」
 今なら医者が三人いますよ、と要が続ける。すでにいつもの冗談めかした、やわらかい物言いに戻っていた。
「それはいいです。じゃあすみません。お言葉に甘えて、すこし休ませてもらいます」
 いつのまにか部屋から出てきた美亜ちゃんが、半身を隠してこちらをのぞいていた。
「ママ、ちょっと具合悪いんだって。美亜ちゃん、もうすこしここで待てる?」
 希和が声をかけると、美亜ちゃんは不安そうに表情を曇らせたまま、それでもこくりとうなずく。
「わかった」
「うん、ありがとうね。心配しないでね」
 体調が悪くなった子を一時的に休ませられるように、ソファーベッドを用意してある。押入れから毛布を出してきた希和に、美亜ちゃんのお母さんは何度も何度も「すみません」と謝る。
「ほんとうに診てもらわなくていいんですか」
「いいんです、理由はわかってるんで」
「そうなんですか?」
「妊娠してるんです、わたし」
 ほとんど囁くような声で言い、あお向けになった美亜ちゃんのお母さんは両腕で顔を覆った。
「……ああ」
 あいづちとも言えないような間の抜けた声が、希和の口かられる。隣の部屋をのぞくと、一階からあがってきた理枝ちゃんが、美亜ちゃんに絵本を差し出していた。希和に気づいて、理枝ちゃんは自分の胸に手を当てるような仕草をする。ここはわたしにまかせておいて。そんなふうに見えた。希和は美亜ちゃんのお母さんの腹部に目をやる。まだ真っ平だ。
「おめでとうございます」
 希和がおずおずと言うと、美亜ちゃんのお母さんは「はい」とくぐもった声で答える。泣いているのだろうか。室内の湿度が高くなったように感じられる。
「まったく予想外のことで」
「このこと、美亜ちゃんは……」
「言ってません。だから言わないで。まだ誰にも言わないで」
 わたし、とつぶやいたきり絶句してしまった美亜ちゃんのお母さんは、今や完全に泣いていた。腕が、肩が、小刻みに震えている。
「自信がなくて」
 ずっと自分の子どもが欲しかった、と震える声で続ける。子どもとの生活を夢想し続けていた。子どもが生まれたら一緒におでかけしたり、絵本をたくさん読んであげたり、おやつを手作りしてあげたりしようと思っていた。
 でも実際産んでみると、なにひとつ自分が思ったようにはできなかった。仕事をして子どもの面倒を見て、そんな必要最低限のことをなんとかこなすだけで毎日が過ぎていく。
 ほんの五分程度ですら、黙ってぼんやり座っていることがかなわない。美亜のことはかわいい。だからこそ、しっかり育ててあげなきゃと思っている。
 でもあまり口うるさく言うと委縮させてしまうのではとも思う。だから怒りそうになっても十回中九回はがまんする。それなのに十回目にはどうにも我慢ができなくなって、必要以上に怒り過ぎてしまう。怒ったあとで落ちこむ。
 他人に「つらい」と愚痴をこぼすと「あなたはがんばりすぎだ、肩の力を抜け」と言われる。「あなたがやらなければいけないと思っていることの大半はやらなくてもいいことなんだよ」とも言われた。気が楽になるどころか、むしろ余計に落ちこんだ。
 完璧な家事や育児をめざしているわけでもなく、必要最低限のことしかしていない。それを「やらなくてもいいこと」だと決めつけられて、これ以上どうすればいいのかわからない。ただ子どもをひとり育てるだけでこんなに余裕がない自分はよほどだめな人間なのだろうとさらにつらくなる。相談できる相手がいないんじゃない。相談した相手の返答によってかえって追いつめられることが予測できてしまうから、なにも言えなくなってしまう。後半はすすり泣きが混じってほとんど聞き取れなかったが、だいたいそんなふうな内容だった。希和もかつて体験した痛みだった。
「美亜を育てながらもうひとり育てるとか、ほんとうに、自信がないです」
 がんばりすぎないでね。そんな言葉を、よく耳にする。
 希和も深く考えずに、今まで何度も誰かに言ってきた。がんばりすぎるあなたが心配だから、という意味がこめられてはいるが、なんの救済にもなっていない。言った側が、その人のがんばらなかったぶんの責任を代わりに負うこともない。
 善意の声かけがかえって人を追いつめることもある。だからこそ具体的になにか助ける手段はないだろうかと、希和は泣いている彼女を前に考えている。
 たとえば、買いものを代わりにするとか、そういうことだ。でも他人に頼みたいこと、頼みたくないことは人によって違うだろうし、これほど疲れている人に「どんなことなら他人に頼めますか?」と質問して判断させるのも酷な気がする。
「今日は、家まで送っていきます。すこし眠るといいですよ」
 結局、それだけしか言えなかった。だけどきっと今この人に必要なのは気休めの言葉じゃない。具体的な支援だ。たとえどんなに小さなことでも。
 電気を消して部屋を出ると、美亜ちゃんも理枝ちゃんもおらず、そのかわりのようにして、大先生が子ども用の椅子に窮屈そうに座っていた。
「美亜ちゃんは、理枝が下に連れていきました。特別見学で、院内を見てまわるんだそうです」
 かな家の人にしかできない子守りのやりかただ。希和がそう言うと、大先生は「そうかもしれませんねえ」とにこにこする。
 晴基が赤ちゃんだった頃から今日まで診てくれている、大先生。太っているわけではないのに、いつも「まるい」という印象を受ける。ちまちました目鼻や、いつも口もとに浮かんでいるおだやかな笑みのためだろう。
「要が戻るまで、私がここで待機しますから、あなたはもう帰っていいですよ」
「彼女たちを送って帰りたいです。もうすこしここで待ちます」
 希和には誰にも言えないことを聞いた責任がある。
「じゃあ、お茶でも飲みましょう」
 大先生が立ち上がろうとするのを「わたし、れます」と押しとどめた。
 ふたりぶんの紅茶を淹れながら、夫にはLINEで、晴基にはメールで、それぞれ「すこし遅くなる」と連絡した。夫のほうはすぐに既読がついたが、返信はない。紅茶を大先生に差し出した時、晴基から「OK」と短い返信があった。
 子どもたちがつかうテーブルで向かい合い、しばらく黙って紅茶を飲んだ。
「来年は、東京オリンピックですね」
「はい」
「希和さんは、好きなスポーツはありますか」
「わたしはとくに……」
 気を遣ってあたりさわりのない話題を振ってくれる大先生にそんな返事をする自分を、希和は情けなく思う。しかしスポーツ全般に興味がないので、大先生はなにが好きなんですか、と訊き返したとしても話が盛り上がらないことはあきらかだった。
「晴基くんは、いくつになりましたか」
「もう四年生です」
 大きくなりましたねえと大先生は呟き、メガネの奥の目を細める。
「これは痛い注射だよ」とわざわざ言いながら、おびえて泣く晴基の腕に予防接種の注射針を刺す大先生の無駄のない手つきを、希和は思い出している。子どもに子どもだましの手段をつかわない、という誠実さ。希和は大先生からそれを教わった。
「要は、ちゃんとやってますか」
 理枝ちゃんと同じことを訊くんだなと思ったら、ちょっと笑ってしまった。希和のその笑いをどうとらえたのか、大先生が照れたように頰をく。
「あいつは末っ子だからか、いつまでも子どもみたいに思えて」
「そういうものですか」
 そういうものです、と大きく頷く。声に実感がこもっていた。
 二歳の頃、晴基が高熱を出したことがあった。土曜日のことで、朝のうちは熱もそう高くなく、ただのだろうと思っていた。月曜までに治ってくれたらいいなあ、と軽く考えていたのだが、昼近くになって熱があがった。ブロックで遊びながら真っ赤な顔でフウフウ息をしていることに夫が気づいた。体温計で測ってみたら三十九度あった。
「どうしてもっと気をつけて見ていなかったのか」と夫になじられ、半泣きで晴基を抱いて診療時間が終わるぎりぎりに鐘音小児科に飛びこんだ。
「もっと気をつけて見ていたら、もうすこしはやく連れて来られたんですけど、すみません」とくどくどと言い訳して頭を下げる希和に、大先生は「お母さんが悪いんじゃありませんよ」と言い、「帰ったら涼しい場所で、しっかり水分を与えて」と、これからとるべき具体的な行動を教えてくれた。
 気休めの言葉だけではだめなんだ、という思いがまた強くなる。
 子どもたちを送りにいった要が戻ってきた。大先生は「それじゃあ」と一階に戻っていく。
 三十分ほどして、美亜ちゃんのお母さんが部屋から出てきた。もう歩けると言うので、一緒に帰ることにした。
 美亜ちゃんが「ママ、だいじょうぶ?」「ねえねえだいじょうぶ?」とまとわりついている。子どもはさとい生きものだから、なにかを感じとっているのかもしれない。美亜ちゃんのお母さんは迎えに来たときよりはいくぶん顔色もましになり、余裕もすこしだけ戻ったようだった。
「ごめんね、美亜」
 母親から頭をでられて、美亜ちゃんはくすぐったそうに目を細める。ふたりして美亜ちゃんを挟むかっこうで横に並んで歩いた。駅周辺は人通りも多く、まだ営業中のドラッグストアやコンビニが並んでいるおかげでずいぶん明るい。
「最近食べたいものとか、あります?」
 つわりはあるのか、というようなことはここでは訊けない。美亜ちゃんのお母さんは質問の意味を察したようで「……トマト、ですかね」と小さな声で答える。
「トマト、商店街の青果店においしいのがあるので、近いうちに差し入れしますね」
「そんな」
 慌てて首を振る美亜ちゃんのお母さんが、そこまで甘えられません、と呟く。希和は、よくわからないけどそうすることでむしろ過去の自分が救われるのだ、と伝えた。説明になっていない気もしたが、ほんとうの気もちだった。
「美亜ちゃんはりんごが好き」
 美亜ちゃんが授業中みたいに手を上げる。
「そっか。美亜ちゃんはりんごが好きなんだね」
「うん」
「トマトとりんご、どっちも赤いね」
 希和がなにげなく口にした言葉に、美亜ちゃんがぱっと顔を輝かせた。
「ほんとだ、美亜ちゃんの好きなものとママの好きなもの、どっちも赤いね。いっしょだね」
 美亜ちゃんはその場でぴょんぴょん跳ねはじめる。いっしょだとうれしいね。ママと美亜ちゃんいっしょだね。その言葉に希和は胸をかれた。おそらくは、美亜ちゃんのお母さんも。
「そうね」
 美亜ちゃんのお母さんがぎこちなく笑い、それから立ち止まって、顔をぴったりと両手で覆った。
「ママ、ぐあい悪い?」
 美亜ちゃんがおろおろとスカートの裾を引っ張る。希和は「そうじゃないよ」とその小さな肩に手を置いて、ふいにこみあげた涙を抑えようとまばたきをくりかえした。

#5-3へつづく
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