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連載

寺地はるな「薄荷」 vol.22

【連載小説】家路を急ぐ希和の前を通り過ぎた少女。彼女は岡野さんの娘で……。寺地はるな「トマトとりんご」#5-4

寺地はるな「薄荷」

※本記事は連載小説です。

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 にせんにじゅうねん。商店街を歩きながら声に出して言ってみる。二〇二〇年。まだ慣れない。このあたりの豆腐屋や青果店は、一月七日を過ぎてから休みをとる。閉まったシャッターに貼られた「賀正」の文字と干支のねずみが描かれたポスターを眺めながら、希和はドラッグストアを目指して歩く。吐いた白い息が暗がりに溶ける。『アフタースクール鐘』の仕事はじめはとくになにごともなく終了した。「今年もよろしくお願いします」と要と頭を下げあい「要さーん、お年玉はー?」などとふざける子どもたちと、十九時まで過ごした。
 美亜ちゃんが寄ってきて「ねえ、きわさん。美亜ちゃんはおねえさんになるんだよ」と教えてくれた。
 冬休みのあいだに聞かされたのだろう。頰がつやつやと輝いていた。
「うれしい?」
「うん!」
「美亜ちゃん、お母さん好き?」
「だいすき!」
 三学期は親にとっても子どもにとっても飛ぶように過ぎていく。四月になれば『アフタースクール鐘』は一周年を迎える。
 いつまでもつことやら、と意地悪く噂されたこの場所が、可能なかぎり長く存在し続けますように。初詣で、希和はそう願った。口さがない人びとへの反発もあるが、それだけではない。
 家でも学校でもない場所や、子どもにかかわる大人は、きっと多いほうがいい。人数ではなく人間の種類が、多いほうがいい。
 人はそれぞれに違うのだと、子どものうちから知ることができる。違うから尊重し合わなければならないのだと。すくなくとも希和は、晴基にそのことを知ってほしい。そしてそれは自分ひとりで教えられるようなことではなかった。
 早足で帰宅を急ぐ希和の視界を、水色のランドセルが横切った。十字路の真ん中で左右を見回す。もう十九時を過ぎているのにたったひとりで、水色のランドセルを背負った女の子は歩いていく。
 のろのろと細い路地を進んでいく彼女が気がかりで、希和はあとをついていく。黄色い帽子の側面に新野小学校の校章が見える。周囲に連れの大人の姿はない。
 車の通れないさらに細い路地に入っていく女の子のあとを追いながら、ふいに思い出した。以前ゆきのちゃんが『アフタースクール鐘』から飛び出していった時に、ここを歩いた。水色のランドセルの彼女は、古いビルとパチンコ屋のあいだで立ちどまる。周囲を確認するよう首を左右に向けた時、希和と目が合った。岡野陽菜ちゃん、とフルネームで呼んだら、ぷいと顔をそむけてビルの隙間に入っていく。
 幅一メートルもない隙間に変わらず放置された小型の冷蔵庫や扇風機。まちがいない。ゆきのちゃんとメロンソーダを飲んだ場所だった。前回より放置されたゴミが増えている。希和が入っていくと、陽菜ちゃんが冷蔵庫の陰から顔をのぞかせた。
「こんにちは」
 悩んだあげく、まのぬけた挨拶をしてしまった。ビールケースから立ち上がった陽菜ちゃんは黙っている。
「えっと、わたしはさかぐち晴基の母です」
 あやしい者ではありません、と胸に手を当ててつけくわえたら、いかにもあやしい雰囲気になってしまった。
「知ってる」
 陽菜ちゃんが小さな声で言い、ビールケースにふたたび腰をおろす。
「あ、そう? よかった」
 もうすこし近くに行ってもいいかと訊ねたが、なにも答えない。ランドセルを膝の上に抱えてうつむいている。希和はその場に立ったまま「わたしここに来たことあるんだ、一回」と言ってみた。
「ゆきのちゃんと」と続けると、陽菜ちゃんが驚いたように顔を上げる。
「ゆきが教えたの? この場所」
 ゆき、と発声する時ににじんだ親しみを、希和は敏感に感じとった。ゆきのちゃんはクラスで浮いているように見えたが、この子とは仲良くしていたのだろうか。
「教えてもらったわけではなくて、見つけたの。ゆきのちゃんがここにいるのを。引っ越しする、すこし前」
「もしかしてハルくんのお母さん、ゆきがどこに引っ越したか知ってる?」
 陽菜ちゃんはふたたび立ち上がったが、希和が「それは知らない」と答えると、がっかりしたようにどさりと腰をおろした。
 陽菜ちゃんとゆきのちゃんは、三年生の二学期に隣の席になったのをきっかけに、時々手紙を交換するようになったのだという。でも一緒に遊んだことはない。
「レイたちが嫌がるから」
 よく一緒にいる子の名だ。希和は黙って頷く。彼女たちはたしかに、ゆきのちゃんを仲間に入れることをよしとしないだろう。
 ゆきのちゃんもそれを感じ取っていたのか、教室では陽菜ちゃんに話しかけてくることはなかった。
 ゆきのちゃんは図書室の本をたくさん読んでいて、陽菜ちゃんは追いかけるようにしてそれらの本を読んだ。ふたりとも同じシリーズがお気に入りだった。タイトルも教えてくれたが、希和はその本を知らない。最近人気の児童文学のようだ。
 でも、と陽菜ちゃんの表情がかげる。ゆきのちゃんは突然引っ越してしまった。
「新しい住所、教えてくれなかった」
「そうだったの」
「ゆき、ひどい。宿題教えてあげたこともあるのに。算数苦手だって手紙に書いてたから」
 ゆきのちゃんが『アフタースクール鐘』に来た時、宿題をする姿を見た。すらすらと解答欄を埋めていくので、意外だな、と思ったことを覚えている。希和がそれを言うと、陽菜ちゃんは唇を尖らす。
「できるよ、ゆきは。わたしが教えてあげたんだもん」
 ゆきのちゃんは以前、なんのために勉強をしなければならないのかわからない、と言っていたという。
「勉強はチケットだって、ゆきに教えたんだ」
「チケット?」
「そう。ママが言ってた」
 陽菜ちゃんは一年生の時から塾に通っている。たくさん勉強をした人はたくさんチケットを手に入れて、遠い場所でも近い場所でも、自分の好きな場所に行ける。岡野さんにそう言われたのだという。
 ゆきのちゃんはその言葉にひどく感心して、手紙で「わたしも勉強がんばるよ」と約束してくれたという。
「そうだったのね」
 ひっきりなしに強い風が吹いて、希和の身体からだを冷やす。陽菜ちゃんもきっとそうだ。
「ここは寒いし、時間も遅いし、もう家に帰ったほうがよくない?」
「まだここにいる。ここのこと、誰にも言わないで」
 もう行っていいよ、とランドセルに顔を伏せる。
「そういうわけにはいかない」
「どうして」
「心配だから」
「……言っとくけどママ、ハルくんのお母さんのこと嫌いだよ」
「知ってる」
 知ってる、と答えはしたが、じつは驚いていた。好かれていると思っていたわけではない。岡野さんの中の自分が「嫌い」という明確な感情を向けられるほどの存在感を持っているとは想像もしていなかったのだ。
「でもあなたのお母さんとあなたはべつの人間だから。というかあなたのこともその……なんていうか、好きだから心配してるわけじゃない」
 好ましい相手だから、仲良くしている人の子どもだから助ける。そういうことではない。それを小学四年生に説明するのは難しい。
「ここにいる」
「そうか。うん、わかった」
 これ以上粘るべきではないと判断し、いったん背を向ける。どうすれば説得できるか、もうすこし考えてみたい。
「待って」
 希和の背中を、声が追いかけてきた。
「ハルくんのお母さん、秘密守れる?」
「……秘密による」
 陽菜ちゃんは希和の顔をじろじろ見てから、話しはじめた。一学期におこった携帯電話の盗難事件の話だった。
 携帯が盗まれ、トイレに捨てられていた。あの犯人を知っているという。
「レイたちも知ってるよ。学校に残ってた時、一緒にいたから」
 ためらうように顔を伏せた陽菜ちゃんの口から、数名の男子の名がこぼれ出る。彼らはクラスメイトのランドセルから盗んだ携帯電話を「的当て」と称して教室の絵に向かって投げて遊んだあと、トイレの手洗い場に捨てた。そのあいだ彼らはずっと笑っていた。陽菜ちゃんたち女子はそのことについて、彼らから固く口止めされている。喋ったら「殺す」と脅された。
「だから言えなかったのね」
「そう。でもいつか先生に話さなきゃと思った。でももう、今さら言えない」
「どうして?」
 自分の父親の件から気をそらすために言い出したと思われて、きっと信じてもらえない。陽菜ちゃんの言いたいことは、希和にもよくわかった。たとえ真実であってもそれをあきらかにすべきタイミングというものはあるし、彼女はそれを逃した。
「だからハルくんのお母さんも言わないで」
「……わかった」
 どうして教えてくれたのだろう。ゆきのちゃんと関わりのある大人だったからだろうか。なんらかの信頼を寄せてくれたのだとしたら、こちらも誠実に向き合うべきだった。
「わたしは、今から陽菜ちゃんがここにいることを岡野さんに伝える」
「やめてって言ったら連絡しない?」
「するよ」
「ずるい」
 ずるい、ずるい、と陽菜ちゃんが泣き出した。希和がスマートフォンをかばんから取り出すと、その泣き声はほとんど悲鳴に近くなった。

「ママに連絡してもいい、でもこの場所のことは内緒にしてほしい」と、陽菜ちゃんは両手を合わせて希和に懇願した。
 駅は人目につくから嫌だと言うので、希和のマンションまで移動することになった。
 岡野さんは、すぐに電話に出た。帰りが遅いので捜しに行こうとしていた、もうすこしで警察に連絡するところだったという。
「すぐに行きます」
 その言葉どおり、数分もかからずに自転車でやってきた。
「陽菜!」
 鋭く叫んで、自転車から飛び降り、娘を抱きしめる。
「ごめんなさい」
 陽菜ちゃんの声が震える。岡野さんはでも「どれほど心配したか」というような責めかたはしなかった。ただ無言で、何度も首を振った。両腕はしっかりと娘の背中にまわしたまま。
「帰ろう、陽菜」
「うん」
 岡野さんが希和に向き直る。
「坂口さん、ご迷惑をおかけしました」
 頰を引きつらせながら頭を下げ、そそくさと立ち去ろうとする。どうやら思った以上に嫌われているらしい。
「あの」と思わず呼び止めたのは、岡野さんがあまりにやつれていたせいだ。あきらかに以前より瘦せているし、暗くてもわかるほど、その肌は荒れている。
「なんですか」
 岡野さんが眉間にぎゅっとしわを寄せる。陽菜ちゃんが心配そうに希和と母親を見上げている。呼び止めはしたが、言葉が続かない。たいへんですね、なんて言うべきではない。なにか力になれることがあるか、と訊こうと口を開いた瞬間、岡野さんが希和に一歩近づいた。どんと肩を突かれる。数歩よろめき、マンション前の花壇に足を踏みいれてしまった。低木ががさっと音を立てる。
「いい気味だって思ってるんでしょ」
「そんな……」
「思ってるんでしょ!」
 また肩を突かれる。今度はさっきより強く。肩が鈍く痛んだ。
「思ってないです!」
 希和もつられて大声になる。
「ほんとは笑ってるんでしょ! ねえ!」
「違います!」
「ママ、やめて」
 陽菜ちゃんが泣き声を上げた。岡野さんはそこでようやく我に返ったようだった。ぎくしゃくと希和に頭を下げ、自転車を押しながら帰っていく。ふたりの姿が曲がり角で消えても、希和はぼうぜんとそこに立っていた。
「希和?」
 背後から名を呼ばれて、ぎょっとして振り返る。夫だった。今帰ってきたところなのだろうか? 伸びあがるようにして岡野さんたちが去っていったほうを見ている。
「すごかったな、さっきの」
「見てたの?」
 なに? ママ友トラブル? などと半笑いで問う夫は、ほんとうになにも知らないのだ。あらためてそう気づかされる。
 知らないのだ、この人は。希和のことも、希和のいる世界のことも。
「女ってこわいな、やっぱ」
「やめてよ」
 やめて、と二度繰り返したら、声が震えた。ん? と夫が首をかしげる。
「え、なに、泣いてんの?」
 岡野さんに突かれた肩がまた痛み出して、希和は顎までしたたり落ちてくる涙を手の甲で拭う。
「女ってこわいとか、そういう言いかたやめてよ」
 いい気味だなんて思っていなかった。岡野さんの言いがかりだったし、嫌な気分にもなった。
 それでも、それでも、希和は嫌だった。岡野さんの身に降りかかったことや、彼女の置かれている状況や、自分に向けられた敵意を、なにも知らない相手に「女って」などと安易にまとめられたくなかった。
「ねえ、あなたは嫌じゃないの?」
 和孝。夫の名をひさしぶりに呼んだ気がする。
「なにが」
 和孝は困った顔で周囲を見回し、とにかく家に入ろう、と希和の背中を押す。
「わたしは嫌だ。あなたとこんなにも言葉が通じないことが、ほんとうに苦しい」
「なんの話だよ、いったい。さっきのママ友となにがあったんだよ」
「ママ友じゃないし、岡野さんは、もう関係ない!」
 エレベーターに押しこまれながら、希和は必死に抵抗した。今この瞬間を逃せば永遠に伝えられなくなる気がした。
「……どうしろって言うんだよ」
 上昇していく箱の中で、和孝がため息をつく。うんざりしているわけではなく、ほんとうにわけがわからず途方にくれているように見えた。
「わたしの話を聞いてほしい」
 こみあげてくる熱いかたまりを何度も飲みこみながら、希和はようやく口にした。
「聞いてるよ、いつも」
「ぜんぜん聞いてないよ。ごはんの時に動画見るし」
「動画? は? なんだよ、いきなり」
 エレベーターのドアが開いた。ずらりと並んだドアの、いちばん手前が希和たちの家のものだ。鍵をポケットから取り出しながら、和孝が希和をちらりと見る。
「なあ、聞くよ。聞くからさ」
 泣かないでくれよ、と懇願する和孝の声が湿った。
「希和が泣いてると、どうしていいかわかんないんだよ、俺」
 なんて頼りないことを言う男だろうとあきれながらも、どうしてもあふれてくる涙を止めることができない。何度も強く手でこすったせいで、顎の裏の皮膚がひりひりと痛む。

#6-1へつづく
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