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連載

寺地はるな「薄荷」 vol.2

近所に新しくできた民間の学童保育。息子がそこに出入りしているような気がして……。寺地はるな「いちご」#1-2

寺地はるな「薄荷」

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『アフタースクール鐘』の正体は、民間学童らしかった。学童なら、市が統括する児童クラブがある。晴基も二年生までそこに在籍していた。利用料はたしか月五千円程度だったと記憶している。
 民間、ってどうなんだろうね。どこかからそんな囁き声が漏れ聞こえる。参観日の教室はこんとんとしている。窓から入ってくるのは光と給食の匂い。充満して空気を重くするのは保護者たちの香水や、柔軟剤の匂い。墨汁の匂いとほこりっぽさと、子ども特有の体臭と。女の子たちのヘアアクセサリー、男の子の服にプリントされたがちゃがちゃした絵柄、落ち着かない様子の彼らが立てる物音と、担任の先生の張り上げる声と、保護者たちのお喋り。
 晴基はいちばん前の席に座っていた。低学年の頃は何度も振り返って手を振っていたが、今ではもうちらりともこちらを見ない。
 参観日が苦手だ。誰にも言ったことはないけれども、運動会も親子行事も、できれば参加したくない。
 晴基は地声がちいさい。ミミズのったような字しか書けないし、絵もへたくそだ。スポーツ全般苦手らしく、劇などではたいてい通行人みたいな役をあてがわれている。一年生の頃から今も変わらずひょろひょろの瘦せっぽちで、去年のすもう大会では体格の良い女の子に突き飛ばされて、あえなく一回戦で敗退していた。
 自分の子どもが活躍する機会などないとわかっている場に、どうして行きたいと思えるだろう。
 この小学校は、子どもが多かった昭和四十年代に近くの小学校から分校するかたちで生まれた。しかし生徒数は年々減少していき、これまでは二クラスだったのが今年度から一クラスになった。今までの倍以上の人数がみっちりとつめこまれた教室は余白がすくなく、先生も机のあいだを通るのにさえ苦労しているように見受けられる。
 希和は誰とも話さず、前を向いている。話し相手がいないわけではない。子どもを同じ小学校に三年も通わせていれば、友だちとは呼べないまでも顔見知り程度にはなれるし、誰とでもあたりさわりのない会話ができる程度の社交性は持ち合わせているつもりだった。でも積極的に話しかけたい相手はいない。
 民間ってことは、という声に、希和は耳を澄ます。すでに授業がはじまっているのに保護者の私語はあちらこちらで続いている。
 子どもにかかわることをお金もうけの対象にするってなんか、ねえ。くぐもった笑いが続く。顔を向けると「なんか、ねえ」の発信者と目が合った。おかさんだ。
 会釈をしたら、ごく自然に目をそらされた。
 黒板の前で、担任の先生が両手を打ち鳴らす。はいみんな静かにしよー、という声は子どもたちに、というよりは保護者たちにぶつけられたもののように思われた。
 参観のあとは、保護者懇談会となっている。出席は任意なのだが、四年生になって最初の懇談会であるせいか、いつもより出席率が高いようだ。机を口の字に並び替えて、めいめい着席する。希和が座った席の正面に岡野さんが座っている。両隣に陣取るさんとふくおかさんは従者のようだった。女王はつんととがった顎を上げ、先生がプリントを配るさまを、腕を組んで眺めている。
 先生は若い。二十代であることは疑いようもないが、新卒か、二、三年目、といったところか。
「子どもたちに夢とか希望とかそういうものを与えたくて教師になりました」とハキハキ自己紹介している。始業式の日に配られた学級だよりには趣味♪バレーボールと書いてあった。趣味とバレーボールのあいだに「♪」を挿入することをためらわぬ人を、希和は「すこやか」と感じる。先生はまぶしいほどにかわいくて、すこやかだ。「さわあみ」というフルネームにも若さを感じる。
 先生がなにか言うたび、岡野さんはうなずく。口角はやわらかく持ち上がっている。
 その人、ボスママってやつでしょ。以前妹に、岡野さんの話をした時にそう言われた。妹は結婚はしているが子どもはいない。その彼女が口にする「ボスママ」はいかにも気の強そうな、ブルドーザーみたいな勢いのある女を連想させ、そういうんじゃないんだって、と強く否定したことを覚えている。
 妹には希和が岡野さんをかばっているように見えたらしい。お姉ちゃんはさあ、そんなんだからさあ、と不満そうに鼻を鳴らした。そんなんだからなめられるんだよ、とまではさすがに言わなかったけれども。
 岡野さんはでも、ほんとうに「そういうんじゃない」のだ。物腰はいかにもやさしげで、口調はいつも絵本の読み聞かせでもしているようにおだやかだ。
 発言の内容だって、けっして攻撃的ではない。「なんか、ねえ」とか「ちょっと、どうなんだろう?」とか首をかしげるだけで、あとは周囲の人間にすべてを委ねる。そういうことができるから、女王なのだ。
 さきほどから従者の視線がちらちらとこちら側に投げられていることに、希和はもうとっくに気づいている。口元に意味ありげな笑いが浮かんでいることも。
 希和の左隣には、つつみさんが座っている。シングルファザーで、その子どもはいわゆる多動と呼ばれる生徒だった。
 右のふたつ隣にはよしさんがいる。喋ったこともないし彼女のことはよく知らないが、給食費を払えないぐらい貧乏だという噂を耳にしたことがある。夫に暴力をふるわれていると聞いたこともある。陰気そうに背中を丸めている姿は、さきほど授業を受けていた彼女の娘とそっくりだ。
 岡野さんたちは、堤さんや吉見さんを見ているに違いない、と思おうとする。晴基はできる子ではないけど、問題児とまではいかないはずだ。だからだいじょうぶ。だいじょうぶ。目を伏せて、この時間をやり過ごす。
 あちら側とこちら側。
 口の字にくっつけられた机の、あちら側に自分が座ることはきっとない、と希和は知っている。

#1-3へつづく
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「カドブンノベル」2020年1月号

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