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連載

寺地はるな「ウエハース」 vol.14

【連載小説】「虐待」の二文字に過敏になるのは、自信がないからだ。希和はずっと訊きたかったことを口にする。 寺地はるな「マーブルチョコレート」#3-5

寺地はるな「ウエハース」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 めずらしく強い口調で言って、要はすぐに下を向く。希和もまた同じようにうつむく。だからと言って美亜ちゃんを「虐待を受けている」と決めつけるのは早計に過ぎる。そういったことを虐待と呼ぶなら、希和だってそうなる。だから他人にその言葉をぶつけることにも神経質になる。
「虐待」の二文字に過敏になるのは、自信がないからだ。そんなふうに言われるのは、だめな親のらくいんを押されるのと同じだ。
 手帳を取り出した要と自分の姿が窓ガラスにうつっている。希和はそれをぼんやりと眺めながら、もしこうしているところを誰かが見たら「あやしい」とか「いい仲」とか、そんなふうに邪推するのだろうか。沢邉先生と熱血の先生がそう思われたように。ただ男女が同席しているだけなのに。
「要さんはどうして民間学童をやろうと思ったんですか? 子どもが好きだからですか?」
 要はコーヒーをひとくち飲んで、しばらく考えていた。
「よく聞かれるけど、子どもだから好き、ということではないです。でも生きものはだいたい好きですよ、おもしろいから」
「生きものって」
「人間は生きものですよね」
 うちの父、小児科やってるんですけど、と要が言って、椅子の背もたれに背中を預ける。
「はい、知ってます」
「母子手帳に『児童憲章』って、載ってるでしょ」
 載っているかもしれないが、希和はちゃんと読んだことがない。正直に打ち明けると、要はすこし笑って眉の上を搔いた。
「ほとんどの人はそうかもしれませんね。でも、うちは父や母がそんなことをよく話してたから」

 児童は、人として尊ばれる。
 児童は、社会の一員として重んぜられる。
 児童は、よい環境のなかで育てられる。

 要はすらすらと暗唱してみせた。全文暗記しているという。
「九、すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境からまもられる、と書かれています」
 だから大人になったら自分も子どもを守る立場になるんだとごく当たり前に思ってました、とおだやかな口調で話す要の姿が窓ガラスにうつっている。実物よりも薄く、遠いのになぜかそこに真実があるような気がして、希和はそこから目をらせない。
「でも、父と同じように小児科医になるのは、なんか違う気がしたんです。頭が悪くてそもそも無理だったってのもあるんですけど」
「要さんは頭が悪くなんかないです」
 いそいで口を挟んだが、要は小さく肩をすくめただけだった。
「家だけでは、学校だけでは、子どもを『わるい環境』から守ることはたぶんできない。それがわかったから、民間学童。そんなところですかね」
 こんなところにいたくない。晴基が書いたかもしれない、あの木の札をまた思い出す。今日、ほんとうはそのことを要に訊きたくて、でも切り出せずに、いつまでもぐずぐずと帰らずにいた。
「わたしは息子を『わるい環境』に置いてるのかもしれません」
「どうしてそんなふうに思うんですか?」
「晴基は出ていきたがってるんです。学校なのか、家なのかはわかりませんけど。庭の木に、子どもたちが願いごとを書いた札がかかっているでしょう? 前に訊いたこと、おぼえてますか? こんなところにいたくない。あの札は、晴基が書いたものなんです、きっと」
「出ていきたがってる?」
「はい」
「結構なことですよ」
 なにが結構なものか。ごとだと思って。むっとして顔を上げると、要は愉快そうに笑っていた。
「僕も小学校を卒業するまでに何十回も家出しましたよ。それこそ、こんなところにいたくないって。そのことを父親に叱られたことはありません。自分もそうだったからって」
 遠くに行きたがるのは子どもの本能なんじゃないですかね、という要の言葉の意味が、希和にはわからない。
「本能? そうでしょうか」
「自立心が育ってるんですよ。いつまでも親の傍から離れたくないって依存してるほうが逆に心配ですよ」
 要がすっかり空になった希和の紙コップをのぞきこむ。行きましょうか、と声をかけられて立ち上がる。
 二手に分かれてからの帰り道、希和は要の言葉をはんすうした。遠くに行きたがるのは子どもの本能。
 晴基が遠くなった、と思っていた。でももう、手を離す時期に来ているということなのだろう。すこしだけ涙が出た。お母さんお母さん、とまとわりついてきた、ちいさな手。希和のスカートの裾をぎゅっと握っていた手。
 涙が頰を伝い落ちる。その涙はさらさらと軽くて、希和はそれを手で拭いもせずに歩き続けた。かなしいから泣いているのではないと自分でもわかったけれども、ならばどういった感情からあふれ出た涙なのかは、自分でもよくわからなかった。

 はじまる時にもはやく感じた夏休みは、終わるのもまたはやかった。始業式の朝、洗面所で日焼け止めを入念に塗りながら、居間の晴基に届くように声をはりあげる。
「晴くん、あと十分後に出るからね」
 小学校へは班での集団登校と決まっている。集合場所はマンションから数メートル先の広場で、保護者のつきそい登校の当番がおよそ三か月おきにまわってくる。新学期そうそう、希和の番だった。
 洗いものが残っている。ゴミもまだまとめていない。洗濯物を干す時間はなさそうだ。この当番の時の朝の時間配分をいつもまちがえる。おかげで当番のあいだの一週間、毎朝あたふたすることになる。
 六年生の班長さんを先頭に、二列にならんだ子どもたちが歩いていく。その後ろから、希和はついていく。当番の際には黄色い腕章と名札をつけなければならない。それが恥ずかしいという保護者もいるが、希和はこれがあってよかったと思う。なにもなしに小学生のあとをついて歩いていたら、まるで不審者みたいではないか。
 昨日、不審者情報のメールが来ていた。また女児が被害にあったようだ。くわしくは書かれていなかったが、どうも駅の駐輪場で身体を触られたようだ。
 児童には気をつけて行動するよう周知しましょうとも書いてあった。言いたいことはわかるのだが、なぜいつも被害を受ける側が気をつけなければならないのか、納得がいかない。
 横断歩道を渡り終え、角を曲がると小学校の正門が見える。通常は校長先生がひとりでそこに立って児童を迎えているのだが、今日は隣に警官がいた。
 すこし離れたところで、数名の保護者がかたまって話している。希和と同じように登校班のつきそい当番の人たちかと思ったが、そうではなかった。堤さんの姿が見える。全員四年生の保護者だ、岡野さんたちもいる、と気づいた時には、ずいぶん近くまで来ていた。子どもたちが正門に吸いこまれていく。
 かたまり。希和の目に、彼女たちのすがたはひとつのかたまりのようにうつる。巨大なゼリーのような、やわらかく不透明な膜につつまれたもの。
 おはようございます、と声をかけたら、全員がこちらを見た。
 おはようございます。ばらばらに声がかえってくる。会釈だけの人もいる。共通しているのは、よそよそしさだ。膜の色が濃さを増したような気がして、希和はそれ以上なにも言わずに来た道を引き返した。あのひとってさあ、と聞こえた。あのひと、が自分を指すのかどうか、考えないようにした。背後で忍び笑いがおこる。
 希和は振り返らない。「帰ったら洗濯ものを干さなきゃ」という、そのことだけを、今はひたすら考えていようとこころみる。

#4-1へつづく
◎第 3 回全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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