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連載

寺地はるな「薄荷」 vol.26

【連載小説】「こんなところにいたくない」あれを書いたのは――寺地はるな「薄荷」#6-4

寺地はるな「薄荷」

※本記事は連載小説です。

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 たったひとことで状況を一変させるような、魔法みたいな強い言葉は、きっとこの世にはない。それでも自分の言葉を持ちたい。
 これから自分はどうなっていくのだろう。ただ保護者のあいだで「なんとなくめんどくさそうな人」と疎まれて遠巻きに笑われるだけの存在に成り下がるのかもしれない。その想像は、希和をおびえさせない。広々とした場所にひとり立って、風を受けているような気分だ。今の希和にとって孤立は罰ではなく、解放だった。
『アフタースクールかね』の仕事が休みの木曜日、つけっぱなしにしていたテレビから「一斉休校」というような言葉が聞こえてきて、夕飯の支度をする手をとめた。
 全国の自治体に一斉休校の要請があったという。三月二日からという日付に驚いてカレンダーを何度も確認する。今日が二十七日で土日をはさむから、月曜日から休校となると、明日いきなり三学期が終了するということになる。春休みがはやくはじまるだけ、というような問題ではないのだが、そういった調子で語られていることに強い違和感を覚える。
 なにがおこっているのだろう。
 残りわずかな三学期、いっしょにしっかりと学んでいきましょう。昨日晴基が持ち帰った学級だよりに、沢邉先生はそう書いていたのに。
「え、どうなるの?」
 ソファーに転がってゲームをしていた晴基が声を上げる。どうなるんだろうね、と言ってから、答えになっていないと気づいた。「要請」だから、まだどうなるかわからないよ、と説明し、一晩待ったが、学校からの連絡はいっさいなかった。
 おそらく学校側も対応に追われているのだろうと思いながら、いつもと同じように晴基を送り出した。靴を履きながら「休校になるかな」と希和を振り返る晴基の表情は、それを望んでいるようにも、おそれているようにも見える。
 昼過ぎにようやく、学校からの一斉送信メールが来た。三月二日からの臨時休校が決まったという。三月上旬に予定されていたPTA総会は中止、卒業式は未定、と書かれていて、ソファーに座りこんだまま、しばらく動けなかった。
 学校が突然休校になってもすべての親がそれに合わせて仕事を休めるわけではない。『アフタースクール鐘』に来ている子どもたちの保護者の顔を思い浮かべる。
 要はどうするのだろう。メールを送ったが、まだ返信はない。大先生たちと相談中なのかもしれない。どうなるかわからない、という不安が、家にひとりきりでいる希和の胸に重くのしかかる。テレビをつけると不安になるような情報しか流れてこない。
 しんとした部屋で、自分のインスタグラムをひさしぶりに開いた。
 きれいに配置されたお菓子やテーブルに飾った花や、かわいいと思った本の表紙。自分の好きなものをあつめて「暮らしを楽しむ」をやってきた。
 けれどももう、それらは希和の心を慰めない。今は不安を不安のまま抱えるほうがいい。こわくても、自分の心をごまかしていないと思えることがうれしい。
 晴基の帰宅時間を見計らって、外に出た。まっすぐな道の先に、晴基の姿を見つけた。両手いっぱいに絵の具セットや書道セットを持って、ふうふう息を吐きながら頰を赤くして歩いている。思わず駆け寄ると、晴基が驚いた顔をした。
「お母さん、どうしたの」
 晴基の手から荷物を受けとると、晴基の手のひらが真っ赤になっていた。
「今日で三学期が終わるなら、荷物が多いだろうと思って。迎えに来たの」
「通知表とか休み中の宿題とかは、あとで先生が届けに来るって」
「そうなの」
「春休みが増えたって、セッキーたちは喜んでたけど」
 けど、の続きを言わずに押し黙る晴基の隣で、希和は自分の感情を、わかりやすい言葉で伝えようと試みる。
「今、お母さんはね、読んでた本の最後の数ページをいきなり破って持ち去られたみたいな気分になってる」
 うまく言えなかった。感情を言葉にすると、いつもほんのすこしだけ真実と違うように感じられる。目で見た風景とカメラで撮影したものがすこし違って見えるのと似ている。でも、口に出さなければ、かけらほども伝わらない。
「晴くんはどう思った?」
「よくわかんない、まだ。休みはうれしいけど、いきなりで、だから、びっくりしてる」
「そっか」
「あのね」
 ためらいがちに口を開いては閉じる晴基の言葉を、辛抱強く待った。
「あのね、ときどき、急にワーッて叫びたくなる時がある」
 誰になにをされるとか、先生が嫌だとか、そういうことではないのだという。でもふとした拍子にものすごく息が苦しくなることがあるという。給食を食べている時。合奏の練習をしている時。教室で「話し合い」をさせられている時。
「学校で?」
「うん。学校で」
 申し訳なさそうに首をすくめて「でも、たまに、家でも。あと、友だちと一緒の時でも」とつけたした。
 持っていた絵の具セットや書道セットが重みを増して、手に力がこもる。『アフタースクール鐘』の庭の木につりさげられた札を思い出した。こんなところにいたくない。あれを書いたのはあなたでしょうとまでは、希和は問わない。
「みんなのことが嫌い? それとも学校や家が、かな」
「そういうんじゃない」
 はげしく首を振って「そういうんじゃないんだよ」と苛立たしげに繰り返す。噓ではないのだろうが、それでもこの子は今、叫び出したくなるほどの窮屈さを感じている。
「きっと、狭すぎるんだね。晴くんには。今いるこの場所は」
 晴基を自由にしてあげたい。手足を存分に伸ばして、楽に呼吸ができるような場所にしてあげたい。わたしは親だから、と希和は思う。親だから、子どもを幸せにしたい。
 でもきっと親の手から差し出した瞬間に、それはもう自由ではなくなってしまう。晴基自身が戦って獲得しなければ意味がない。親の出る幕じゃない。
 低学年と思われる子どもたちが数人、駆け足で希和たちを追い抜いていく。彼らの荷物は上靴とランドセルだけだ。低学年の子は荷物を持ち帰らなくてもよいのだろうか。
 彼らは競走をしていたらしかった。先頭を走っていた子が俺いーちばん! と言いながら標識に触れるのが見える。あとに続いた子どもがくやしそうになにごとかを短く叫ぶ。
 あらためてよく見てみると、晴基はランドセルの側面に上靴入れをひっかけていた。腕二本では足りなかったのだろう。
「だいじょうぶ?」
「うん。お母さんは?」
 だいじょうぶよ、と答えたが、絵の具セットも書道セットもうんざりするほど重かった。おそらくランドセルにもぎっしりと教科書が入っているはずだ。一歩進むたびに本が上下に揺れる音が聞こえる。
「やっぱり重いわ」
「だね。重いね」
 顔を見合わせて笑い合う。
「僕たちも競走する?」
 晴基がそんな提案するので思わず「ええ?」と声を裏返らせてしまった。
「無理だよ。お母さんこんなの持って走れない」
「走るんじゃないよ、スキップ競走。このあいだセッキーとやったんだ」
「学校でなにやってるの」
「速い人が一等じゃないんだよ。いちばん楽しそうにスキップできた人が勝ちなんだよ。すごく難しいんだよ」
 うまく言葉が出なかった。「足の速い人が一等賞ではない競走」を、晴基たちが編み出した。彼らはいつ知ったのだろう。勝ちかたの種類がひとつではないことを。前進する方法がひとつではないことを。どうやって知り得たのだろう。
 子どもたちは自分で選べる。いつだったか、要とそんなふうなことを話した。
 ほんとうに、そうだ。そのとおりだった。
 晴基はいずれ、ここではない世界に旅立つ。自由と、それにともなう責任を手にする。見守ることしかできないならば、せめてその瞬間までしっかりと目を開いていよう。楽しそうにスキップ競走の説明をする晴基の横顔を、心に刻みつけた。
「行くよ。よーいドン!」
 掛け声とともに、晴基の身体からだがふわりと浮いた。ランドセルの中の本がまた音をたてて、上靴入れが下向きの弧を描く。軽やかとは言いがたい動きだが、晴基はスキップをやめない。リズミカルに跳ねて、どんどん進んでいく。待ってよ、と希和は離れていく息子の背中に向かって声をはり上げた。
 スキップのやりかたなんて忘れてしまったはずなのに、右膝を上げたら勝手に左足が地面を蹴る。身体がほんの一瞬宙に浮く。すぐに息が切れてしまい、両手の荷物が手のひらに食いこんだ。吐く息は白く、またたくまに空中に溶ける。もうすでに、足がじんじん痛みはじめている。楽しそうにスキップできているだろうか。わからないけれども、でもすくなくとも今、自分自身は、この瞬間をたしかに楽しんでいる。息が続かないし、身体も重いけどねと笑いながら、すこし泣きそうにもなりながら、希和はまた勢いよく地面を蹴る。

※本作は小社より、単行本として刊行予定です。


書影

「カドブンノベル」2020年12月号より


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