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連載

寺地はるな「トマトとりんご」 vol.19

【連載小説】岡野さんの夫が逮捕⁉ 噂の真相がわからぬまま迎える令和最初のクリスマスは――。 寺地はるな「トマトとりんご」#5-1

寺地はるな「トマトとりんご」

※本記事は連載小説です。



 おかさんの夫が逮捕されたといううわさはまたたくまに保護者のあいだをかけめぐり、『アフタースクールかね』の送迎でにい小学校の保護者と顔を合わせるたび、スーパーマーケットで偶然会うたび、はそのことをかれるはめになった。
「四年生の保護者だったんですよね?」
「岡野さんって人知ってますよ。前年度PTA役員してた人ですよね」
 岡野さんの夫は路上で具合が悪そうにしていた女子児童を介抱するために公衆トイレに連れていっただけだ、という説もある。逮捕された男に風貌が似ていただけで、岡野さんの夫ではなかったという話もある。たしかなことはなにもわからない。わからないというのに、その噂が出た後から、岡野さんにたいする四年生の保護者の態度は、すこしずつ変わっていった。
「旦那さんの性癖とか知らなかったんですかね」とささやきあい「夫婦なのにね」と目配せをしあった。「見て見ぬふりしてきたのかもね」といった推測が「前から思ってたけど岡野さんって上から目線だよね」とか「性格悪いとこあるよね」とか、岡野さん本人への批難へと変わるまで、そう時間はかからなかった。
 従者のようにつねに岡野さんのそばにいたふくおかさんとさん。友だちならこんな時こそ味方になってやるべきだとまでは、希和は言わない。ただこのタイミングで「前からそう思っていた」と言い出すのは、さすがに卑劣すぎるのではないのだろうか。
 岡野さんには、たしかに好ましくない点があったのかもしれない。表面上は仲良くしていた人たちも内心不満を抱えていたのかもしれない。でもそのことと夫が起こした(かどうかも定かではない)事件とは、まったく別の問題だった。
 岡野さんの夫をめぐる事件のてんまつは、はっきりしたことがわからぬまま噂だけがめぐり、十二月に入った。令和最初のクリスマス。そんな言葉がつけっぱなしにしていたテレビから聞こえてくる。いつまでたっても耳慣れぬ年号とクリスマスという組み合わせに、なんとなく野菜を切る手をとめた。
 家のクリスマスは、今年も例年どおりにする予定だった。フライドチキンははるの好物だから多めに用意して、ポテトサラダはクリスマスリースを模してリング状にもりつけ、星型で抜いた黄色や赤のパプリカとブロッコリーで彩る。それらの料理を普段の食事と同じように食べるだけだ。
 家でケーキを焼いた年もあったが、ここ数年は市内の洋菓子店で購入している。晴基へのプレゼントは、晴基が寝たあとにベランダに置く。保育園児の頃に「煙突がないから入ってこられないんじゃない?」と心配していつまでも寝ようとしない晴基を「じゃあベランダの鍵を開けておくね」と説得して寝かしつけた。以来、プレゼントはベランダに置くのが習慣になってしまったのだ。
 今はもうサンタクロースがプレゼントを持ってきているなどとは思ってはいないだろう。それでもやはり今年もベランダにプレゼントを置くだろう。仏壇に花や菓子を供えるように。鬼など来ないとわかっているのに豆をくように。
 今日は『アフタースクール鐘』の仕事は休みだった。ちゃんを含めて、病児保育施設の計画が着々と進行しているらしい。
 玄関で物音がして、晴基が帰ってきたと知る。
 最近ではなにも言われなくても帰宅後すぐにランドセルを自分の部屋に置き、手を洗いにいく。成長しているのだ。繰り返し注意しなくてもよくなったことがうれしくて、同時にほんのすこしだけさびしい。勝手なものだ。
「ただいま」
「おかえり」
 台所に入ってきて、すぐに冷蔵庫を開ける。
「チョコ食べようかな」
「そうね、ふたつぐらいなら、いいと思うよ」
 晴基が手に取った徳用パックのチョコレートの大きさでふたつと判断した。晴基は「みっつかよっつで」と粘る。
「じゃあ……ごはんの前にふたつで、ごはんの後にあとふたつ食べたら?」
「わかった」
 不満そうな顔をしつつも、晴基はおとなしく冷蔵庫のドアを閉める。チョコレートの赤いパッケージを見て、野菜室にトマトがひとつだけ残っていたことを思い出す。
 あれも今日のうちに食べてしまおう、と取り出したトマトは何日もそこに入れっぱなしにしていたせいか、既につやとはりを失っていた。卵といためて、おかずの一品にすることにした。トマトを洗い、まな板に置く。
 なぜかソファーの座面ではなく肘掛けに腰を下ろしてチョコレートの包装をいている晴基に「岡野さん、どう?」とたずねた。岡野さんの娘のはるちゃんは噂が出回った直後も通常通り登校していたが、十二月に入ってから急に学校を休みがちになった。クラスの誰かになにか言われたのかもしれない。
「今は、学校に来てる?」
「うん」
 晴基は「べつの教室で勉強してる」とこちらを見ずに答える。チョコレートをしやくする頰が、かすかに上下する。陽菜ちゃんは登校はしているが、みんなとは違う教室で授業を受けているのだとくぐもった声で続けた。
「べつの教室。ああ、そうなの」
「岡野さんは今パワーをチャージしてる、って先生が言ってた。みんなと一緒に勉強できるようになるまで、もうすこし時間がかかるって」
 パワーをチャージ。さわ先生はそういう言いかたをするのだなと思いながら、トマトに包丁を入れる。でも彼女のパワーが失われたのは、彼女のせいではない。トマトの切り口から汁が流れ出てきて、まな板のうえにうす赤い水たまりをつくる。

#5-2へつづく
◎第 5 回全文は「カドブンノベル」2020年10月号でお楽しみいただけます!


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