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連載

寺地はるな「ウエハース」 vol.17

【連載小説】突然帰省した理枝と会う約束をした希和だが――。 寺地はるな「ウエハース」#4ー3

寺地はるな「ウエハース」

※本記事は連載小説です。

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 潮風でびた看板。魚をさばいている老人の手。理枝ちゃんのインスタグラムには、そういったものが多く出てくる。おしゃれな画像は一枚もない。たとえば一年前に投稿された生ビールの画像には、ごちゃごちゃといろんなものがうつりこんでいる。乱暴に丸められたおしぼりだとか、メニューの端とか。
 希和ならよけいなものはトリミングで排除するし、もっとアングルにも気をつかう。理枝ちゃんの画像にはいずれも生活感が滲み出ている。生活しているのだから生活感があってあたりまえとばかりに、それらの画像たちは平然としている。
 理枝ちゃんはあのあとすぐにメールをくれた。要のところで希和が働いていると知り驚いた、帰省したらしばらくはそっちにいる予定なので、忙しいと思うが食事でもしましょう、という内容だった。
 しばらくとはどれぐらいか。その希和の問いへの返信は「最低でも一ヶ月、もしかしたらずっとかも」だった。
 ならば、診療所は辞めたのだろう。メールでする話ではなさそうだった。
 島の生活はどうなのかと訊いたら、インスタグラムのIDを教えてくれた。希和ちゃんやってる? と訊かれて、だから希和も自分のを教えた。
 理枝ちゃんはわたしのインスタグラムを見たのだろうか、と思う。フォローはされていないし、希和もしていない。惰性で「いいね」をつけ合うようなかかわりを、理枝ちゃんとはしたくなかった。理枝ちゃんもそう思ってくれているのだとしたらうれしい。
 四月にいちごシロップのことを書いた。それが今のところ、希和の最新の投稿だ。自分の暮らしを彩り、記録することへの興味が、このところめっきり薄れている。
 こっそりと見ていた岡野さんのアカウントには現在鍵がかかっている。彼女のとりまきのふくおかさんやさんもそうだ。彼女たちは容易に個人として特定可能な画像を頻繁に投稿する人たちだったから鍵をかけて利用するぐらいでちょうどいいと思いつつ、自分が観察していることがばれてしまったのではないかという焦りもあり、最近ではそういったことをぐずぐず考えてしまうこと自体嫌になってきて、放置を決めこんでいる。いっそアカウントごと削除してしまおうかと思ったが、それもなんだかもったいない。
 来週の木曜日、午後。仕事でも学校行事でもない予定を手帳に書きこむのはひさしぶりだった。
 来週の木曜日、午後。心がちいさく跳ねる。道端でなんとなく見上げた木の枝の先にちいさなつぼみを発見した時のように。
「どんどん食えよー」
 夫の言葉は、正面にいる自分に向けられたものではない。隣の男に言ったのだ。網の上で肉が焦げていく。炎がぼっと上がって、なにがおかしいのか夫たちは短い笑い声を上げた。
 昨日の夜、いつも黙ってスマートフォンの動画を見ながら食事をする夫がめずらしく顔を上げて希和に話しかけてきた。
「明日の夜、がわたちが家に来るから」
 田川とは夫の会社の後輩で、「たち」とは先月中途採用で入ったばかりの推定二十代の女性と推定三十代の男性のことだった。田川は既婚者で、マンションの購入を考えている。「物件をさがす前にいろんなマンションを見て参考にしたいので坂口さんのところに遊びに行きたいです」と頼まれたという。あとのふたりがなぜついてくるのかの説明はされなかった。
 マンションを見せた後、焼肉に連れていくつもりだ、と話している夫はほんとうに面倒くさそうに眉間に皺を寄せていた。普段、休日はひたすらごろごろしている人だ。予定外の用事が入ったことがほんとうにおつくうなのだろうなと希和は夫に同情し、それにしてももうすこしはやく言ってほしかったとすこし腹を立てもした。
 朝早く起きて、部屋のあちこちを掃除してまわった。夕方やってきた田川たちにたいして、夫はじつに愛想良く振る舞った。スリッパを出してやり、ここが浴室だ、ここが子どもの部屋だと、たいして広くもない3LDKを案内してまわった。希和が掃除の際に不要なものを押しこんだ廊下の収納スペースまで開けてみせた。
 お茶とお菓子を用意していたのだが、出そうとしたら夫に「いらないよ」と顔をしかめられた。このあと食事をするから、とのことだった。
 夫が面倒だったのは、後輩たちが家に来ることではなかった。希和にそれを説明することのほうだった。自分はなんでもかんでも後から気づくのだなと、食器棚に来客用の紅茶碗をしまいながら思っていた。ちょっと考えたらわかることなのに、いつもいつも。
 ほんの数十分の来訪だったのに、田川たちを見送る頃にはぐったりと疲れていた。ようやく解放されると思ったのに田川が「奥さんたちも一緒に行きましょうよ、焼肉」と言い出したために、今ここにいる。
 同じテーブルにつき、同じ網の上で焼いた肉を口に運んでいても、希和と晴基は彼らの会話には入れない。彼らは自分たちの仕事か、会社の誰それがどうだこうだ、ということしか話さないから。つぎつぎと希和と晴基の知らない固有名詞が飛び出し、笑い声がおこる。
 やっぱり断ればよかった。うちで晴基とふたり、いつもの夕飯をとるほうがずっといい。
 晴基がメニューを指さして、アイスを食べたいと言う。希和が反応する前に、夫が「お前はもっと肉食えよ」と口をはさんだ。
「好き嫌いが多いからそんなにガリガリなんだよ」
 幼少期の晴基は偏食がひどく、パンとごはんとぐらいしか食べられるものがなかった。好き嫌いが多いというより、未知の食べものにたいする警戒心が異様に強くて知らない食べ物にはぜったいに手をつけない。無理に食べさせれば食事の時間がさらに苦痛になるだけだと思い、強制はしなかった。
 それでも小学生になるすこし前からいろいろな食べものに興味を示し、今では量こそ多くは食べないものの、以前よりずっと食べられるものの種類が増えた。もちろん好き嫌いがまったくないわけではないが人前でけなされるほどではない。
 夫は知らない。一緒に食事をしていても、晴基のほうを見ていないから。今日だってそうだ。晴基はすでに肉とともにごはん一膳とサラダとスープを胃におさめている。じゅうぶんな量だ。後輩たちと話をするのに夢中で気づいていなかったのかもしれないが。
「いいよ、アイス食べなさい」
 手を上げて、店員さんを呼ぶ。
「甘やかして」
 そんなふうにぼやく夫の顔を、まっすぐに見据えた。夫がたじろいだように顎を引く。
「晴基くん、ひとりっこですもんね」
 とりなすように口をはさんだ田川の顔も、同じように無言で見つめる。ひとりっこだからなんだ。いったいなんだと言いたいのか。
 脚つきのガラスの器に盛られたアイスクリームが運ばれてくる。添えられたウエハースを、希和はなんとなく眺めている。子どもの頃はこれをただのおまけだと思っていた。おまけをつけるぐらいならアイスクリームを増やしてくれたらいいのに、と。このウエハースが「冷えすぎた舌の感覚を取り戻す」という重要な任務を担っていると知ったのはずいぶん大人になってからのことだ。
 田川「たち」のひとりが、おずおずと話題を変える。子どもの頃なんとかっていうアイスが好きで、今もあれあるんですかね、うんぬん。ありますよ。わたしはなんとかが好きだったな。俺はなんとかかな。笑い声がおこる。話はそこからよく食べたお菓子の話になり、有名な製菓会社の話に変わり、その会社の役員が逮捕された話へと続き、それからすこし前におきた傷害事件の話になって、先週報道されたというどこかの国のテロについての話を夫がする。
「なあ、あったよな」
 なぜか夫は、希和に向かって同意を求めてきた。
「知らない」
 夫の、肉の油で汚れた下唇がゆがんで、そこからハアという息が漏れた。
「お前、ニュースぐらい見ろよ」
「テレビ見てる時間なんかないもん」
「ほんの何分かで済むだろ。もっと関心持ったほうがいい。今世界でなにがおこってるか、ちゃんとアンテナはっとかないと」
 隣で晴基が、スプーンを口に運ぶ手を一瞬とめたのがわかった。やはり敏感な子だ。希和の感情をすぐに読み取ってしまう。
 夫婦のいさかいを子どもに見せるのは虐待にひとしいと以前希和に教えたのは誰だったか。ああそうだ、母だ。子どもの脳に重大な影響を及ぼすのどうのと、妊娠中に言い含められた。母のせいで自分の意見を飲みこむようになったとは言わない。そのほうが楽だと、楽なほうを選ぼうと、そうやって生きてきたのは自分自身だから。
「そういう言いかたは、やめてほしい」
 長々と考えて、最初に出てきた言葉がそれだった。肉をひっくりかえしていた夫が驚いたように希和を見る。
「は?」
 きょとんとしている夫の顔は、無邪気と表現しても良いほどだった。
「すごく嫌な感じがする」と続けながら、どうしてわたしが嫌なのか、たぶんこの人はぜんぜん今わかっていないんだろうなと思った。
 夫がテレビのニュースを見ている朝の時間、希和は朝食の用意をして、夫のお弁当をつくって、洗濯物を干している。ほんの何分か、と言うが、ただテレビだけを見ていられる時間や座って新聞を読む時間が、希和にはない。家の中ではつねになにかおこる。すこしゆっくりしようと座ったら、夫が落としたお菓子の袋の切れ端が目に入る。捨てようとゴミ箱を見たら、すでにゴミがいっぱいになっている。ゴミをまとめていると、晴基から声がかかる。国語のノートを使い終わったとか、消しゴムがないとか。「ほんの何分か」でさえ、なにかに集中することは難しい。
 日常のだけで手も頭もいっぱいになってしまうのは、たぶん要領が悪いからだろう。精神的に余裕がないせいもある。でも夫に余裕があるのは、些事を希和にまかせきりにしているからではないのか?
「世界に関心持てっていうけど、あなたの『世界』はテレビの中にあるの? 目の前のわたしたちとの生活だってあなたの世界じゃないの?」
 後半はほとんど悲鳴のようになった。夫は一瞬困った顔で田川たちをうかがい、わかった、わかったって、ごめんって、となだめるような声を出した。
 なにが「わかった」で「ごめん」だったのだろう。彼らを駅まで送っていくという夫と別れて歩きながら、希和はバッグの持ち手をつよく握りしめる。
 夫が家事をいっさいしないことについては、もちろんずっと不満だった。けれども夫が器用なタイプではないことも知っていた。
 仕事に行って帰ってくるだけで体力と気力の九割がたを消費してしまうらしい夫の様子を見ていると、家のことをもっとやれと要求するのも酷だろうと自分に言い聞かせてきた。人によってできることの種類も度合いも違う。「よその旦那さんはやってる」と責めるような、他人と比べて夫を否定するようなはすまいとも。だってもし自分がよその奥さんと比べられたら嫌だから。
「あ、要さんがいる」
 ずっと黙って隣を歩いていた晴基が声を上げた。
 通りの反対側の歩道に要がいた。ひとりではなかった。年配の、といっても五十代ぐらいだろうか、暗くてよくわからない。野暮ったい、けれどもすこぶる高価そうなスーツを着た、太った女だった。要の腕に両腕を絡ませるようにして歩いている。女がなにか言って、要の片手が空中で上下した。興奮した犬を宥めるような仕草だ、と思いながら、希和は彼らを見ている。
 パトロンがいるので、と要はいつか言っていた。あれは冗談だと思っていたのに。
 路上駐車の白い車。その車の前で、要と女が立ち止まる。女が運転席で、要は後部座席。車が走り去っても、希和はそこに立ち尽くしていた。晴基が「行こうよ」と促すが、どうしても足が動かない。

#4-4へつづく
◎第 4 回全文は「カドブンノベル」2020年8月号でお楽しみいただけます!


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