【連載小説】まだ、遅くはないはずだ、わたしたちは。寺地はるな「薄荷」#6-2
寺地はるな「薄荷」

※本記事は連載小説です。
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和孝と出会ったのは、友人の結婚式の二次会だった。和孝は「新郎が昔バイトをしていたピザ屋の先輩」という薄いつながりしかなく、披露宴には呼ばれていなかった。
二次会はもうみんなたいがい酔っぱらっていて騒がしく、新郎がスピーチをはじめても、誰も耳を傾けようとしなかった。希和以外は。
喧騒の中、必死に耳を傾けたが、半分ほどしか聞き取れなかった。「お前らしょうがねえな」と新郎がマイク越しに苦笑いした時、すこし離れたテーブルにいた誰かがぱちぱちと拍手をした。それが和孝だった。
「誰も聞いてなかったら、かわいそうだから」
後になって、和孝はそう話していた。そうだった。もともと、ちゃんと人の話を聞ける人だった。聞こうとしてくれる人だった。
なにか言うより自分が手を動かしたほうがはやいと家事を分担することをあきらめ、育児の疲れから話している暇があったら寝たいと口を
まだ、遅くはないはずだ、わたしたちは。そんなふうに思いながら、希和は和孝の横顔を見る。
晴基が希和たちに気づいて手を振った。くじはどうやらはずれだったらしく、駄菓子の入った袋を手にしている。それを見た和孝がおかしそうに笑い、つられて笑う希和の視界の端で色とりどりのスーパーボールが水に浮かんで揺れていた。
黄色にピンク、緑に赤。子どもはカラフルなものに引きつけられる。
「そんなに振ったら割れますよ」
宝石みたいなドロップが入った缶。子どもの頃に大好きだった。かたちがひとつひとつ違うところも好きだった。昔懐かしいドロップの缶は大先生からの差し入れらしい。子どもたちのおやつに、とのことだった。
「あの人、おやつと言ったらビスケットかドロップだと思ってるんですよ。昔の人だから」
「昔の人って」
「これね、白いの入ってるでしょ。すーっとするやつ」
「薄荷ですか?」
要は薄荷が好きだったが「お父さんのいちばん好きなやつ」と、遠慮して食べなかった。
「つい最近、それがお互いの勘違いだったということが判明して」
「えっ」
子どもたちがあまり好きではない味のようだから、と大先生が勝手に思いこんで、でも余ったらもったいないからという理由で、苦手な味の薄荷ドロップばかり率先して食べていたのだという。
「おたがいなんとなく思いこんだまま、何十年もすれ違っていたんですね」
「せつない話ですね」
神妙に頷きながらも、いかにも仲が良さそうに見える鐘音家の人びとにもそういうことがあるのだと知る。励まされるというほどではないが、どこも同じなのだなと思うと感慨深くはある。
希和たちがそんな話をしているあいだにも、子どもたちは宿題をしたり、パズルをやったり、めいめい自由に過ごしていた。
晴基は、今日は来ていない。
ただ、子どもの世界には子どものルールがある。希和は子どもではないから、いずれ陽菜ちゃんから聞いたことを
「ぼんやりしてますね」
要に言われて、あわてて雑巾を持ち直した。そういえばまだ掃除の途中だった。
「いいんですよ、べつに勤務中ずっとなにかしてなくても。することがなければぼんやりしてくれてて」
「そういうわけには」
たとえばほら、と要が
「ああいう時には話しかけちゃいけないんです。集中してるから。子どもって、ずーっとかまってあげる必要ないんです。ただふっと彼らが顔を上げた時に」
その声が聞こえたかのように、美亜ちゃんがこちらを見た。希和と目が合うと、にこっと笑って、またパズルに戻る。
「彼らの視線の先にいたらいいんです、希和さんや僕が」
要にはどうしてそんなに、子どもたちのことがわかるのだろう。そう訊ねると、要は「自分が子どもだからじゃないですか?」と笑って、いつものように眉の上を搔く。なにか考えていたり、すこし困っていたりする時の癖だと最近知った。
「きっと大先生たちの教育がすばらしかったんですね」
希和が言うと、要の笑顔が
「いやあの人たちは、とにかく忙しかったし」
家にいないことも多くて、と希和から視線を外す。
「後悔している、と言ってました」
姉のこと、と続いた。あの時家にひとりにしなければ。気をつけていれば。親ならば後悔するに決まっている。
「後悔なんかしなくていいのに。だって悪いのは姉に危害を加えようとしたやつなんだから」
誰でもよかった。鐘音家に侵入し、小学生の理枝ちゃんを襲った男は、そう供述したそうだ。狙っていたわけではない。隙のありそうな相手をさがしていてあの子を見つけた。ほんとうは誰でもよかった。
「誰でもよかったなんて噓だ。だって自分より弱い相手を選んでるんですよ、わざわざ」
要の声に異様な力がこもって、数人の子どもたちが驚いたようにこちらを見た。あの事件が鐘音家に落とした影の深さをあらためて思い知らされる。
自分のペースや機嫌をコントロールするのがじょうずな人。要のことはずっとそう思ってきた。焦ったり怒ったりする姿を見たことがなかったから。でもそれは焦る、怒る、という感情が「ない」ということではなかった。
「僕は怒ってます。あの日以来ずっと怒っている。機嫌がいいとか、毎日をおだやかに過ごすっていうのは、感情を殺すって意味じゃない。僕は自分の感情を殺したくない」
希和がその言葉の意味について考えていると、要が「あの」と希和に向き直った。
「姉が中学生の頃にいつもいっしょに帰ってた人って、希和さんですよね」
前からそうじゃないかと思っていたのだが、今までずっと訊きそびれていたのだそうだ。
「僕はあの頃子ども心に姉を守らなければいけないと思ってました。だから毎日姉の通学路に迎えにいってたんです。希和さんは忘れてるかもしれませんが」
覚えている。でも、ただ年の離れた姉を慕ってまとわりついているだけだと思って見ていた。守らなければならない、なんて。
そうだったんですね、と呟いたら鼻の奥がつんと痛くなった。そんなことを考えていたのか、あのちいさな男の子は。
机に置かれたドロップの缶を手に取る。蓋をとって手の上で振ったら薄荷が出てきて、思わず笑ってしまった。
「姉が誰かと楽しそうに
「じゃあわたしもちょっとは誰かの役に立ててたんですね」
要もドロップの缶を手に取って、ひとつ口に入れる。片頰がふくらんでおさない顔になった。
「ただそこにいる、ということに意味があるんです」
今もね、と小さな声で続ける。
「これからも、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
頭を下げ合う希和たちを、美亜ちゃんがふしぎそうに見ていた。
▶#6-3へつづく
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