menu
menu

連載

寺地はるな「薄荷」 vol.25

【連載小説】わたしが行きたい場所は、あなたの側じゃない。寺地はるな「薄荷」#6-3

寺地はるな「薄荷」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 ただそこにいるということに意味がある、と要は言った。それでも自分は意思を持ってそこにいる人になりたい。そんなことを思いながら、まっすぐに続く道を歩いていく。希和たちの住むマンションと学校は、一本のまっすぐな道で結ばれている。希和が子どもの頃はこの道に用水路があり、たまに亀が泳いでいた。あたたかい日は生臭い、嫌なにおいがした。小学生たちは頻繁にここに上靴やプリントを落とした。たまにふざけていて自分が落ちてしまう子もいた。
 用水路は十数年前に埋め立てられ、がたがたのアスファルトはきれいな色のタイル張りにかわった。監視カメラが設置され、車は通行禁止になっているから安心だと多くの人が言う。
 今歩いているこの道の下には、まだ用水路が存在している。水が流れている。人の目に見えなくなったということと、存在が消えたこととは違う。
 監視カメラにうつらない場所で、今日も誰かが傷つけられている。心が損なわれる瞬間は目に見えない。監視カメラにはうつらない。
 薄荷のあめをポケットからとりだして、口に入れた。このあいだ要とドロップの話をした後なんとなく食べたくなって買ってしまった。
 子どもの頃はこの味が嫌いだった。嫌いだったものをいつのまにか好きになっているということ。良いことのはずなのに、なぜだかすこしさびしい。
 今日はオープンスクールと呼ばれる学校行事がおこなわれる。普通の参観日との違いは、三時間目から五時間目までどの時間に見にいってもいいということ、自分の子どものクラス以外も自由に見学できること。
 六時間目は保護者懇談会が予定されている。今日が二月の二十五日だから、四年生は最後の学校行事になるだろう。もっとも今年度から一クラスになったため、年度が変わってもクラス替えはない。
 同じ道を通って学校へ向かう保護者のほとんどがマスクをしていて、自分もしてくればよかったと思うが、昨日ドラッグストアに行ったらマスクの棚は空っぽだった。例のアレ、とか新型のやつ、という言いかたを、希和の周りの人はする。名前を呼んだら感染してしまうかのように、その名を口にすることを避けている。
 感染力が非常に強いとテレビで言う人もいれば、ネットの記事には手洗いうがいでじゅうぶんに予防できると書いてあったりもして、いったいどちらを信用すればいいのかと、毎日うっすらとした不安につつまれて過ごしている。
 出がけにつまらないセールスの電話を受けたせいで家を出るのが遅くなった。このままでは四時間目の開始時間に間に合わないと焦りながら歩みを速めた。
 三時間目は最初から見にいかないつもりだった。体育の授業だったし、希和自身がすこし風邪気味だったから。二月下旬の、しかも午前中の体育館なんて寒いに決まっている。だから四時間目の国語と五時間目の算数だけ見て、六時間目の保護者懇談会に出席して帰る、と決めた。
 給食をはさむのでいったん家に帰らなければならないが、おそらく保護者は保護者懇談会の直前の五時間目に集中する。人が少ないうちにゆっくり授業を見ておくのもいい。
 以前は学校行事が憂鬱だった。たいした活躍をするわけでもない晴基を見ても、という思いすらあった。
 でも今は、活躍だとかなんだとか、そんなことはどうでもよくなった。今日の晴基は、昨日の晴基とはもう違う。すこしずつ大きくなって、顔つきだって変わっていく。
 だから見ておきたい。ぜんぶ覚えていられなくても、しっかりと見ておきたい。
 正門を通った時に、ちょうど岡野さんとすれ違った。四時間目は見ないのだろうか。うつむいて歩いているせいで希和には気づいていない。すれ違いざまに「こんにちは」と声をかけた。顔見知りの保護者に会ったら相手が誰であれ挨拶はする。むろん、岡野さんにもだ。普通のことをしているだけだ。
 岡野さんは顔を上げて希和を見たあと、挨拶を返さずに通り過ぎていった。
 陽菜ちゃんが話していた「なんのために勉強するか」というあの話を、希和はしっかりと覚えている。覚えておきたいと願っている。岡野さんが自分の娘におくった言葉が、ゆきのちゃんの世界の色を変えたということ。
 いつか、岡野さんに伝えたかった。知ってほしかった。よその子どもの世界なんて、岡野さんにとってはどうでもいいかもしれない。
 でも、誰かが放った種子のような言葉が思いもよらない場所で芽を出して、世界にむかって枝葉を広げていくのだとしたら、それはとても尊いことだと思うんです。間接的にではあっても、あなたの言葉が、たしかにひとりの女の子の可能性を広げたんです。
 いつか、そんなふうに、岡野さんに話せたらいい。
 大きく息を吸って、吐いた。薄荷の匂いがする空気を肺に送りこんで、校舎に足を踏み入れる。
 授業参観は四時間目も五時間目もつつがなく終了し、保護者懇談会がはじまる。四月と同じだ。ロの字型にくっつけられた机の席順は決まっていないが、やはり希和が座るのはふくおかさんやさんの反対側だった。四月と違うのは、岡野さんがいないこと。
 福岡さんが新たなボス的な位置におさまったようだ。休み時間にそれとなく観察していて気づいた。
 福岡さんは今、まっすぐに背筋を伸ばして、黒板の前に立って喋っている沢邉先生を見ている。時折、両側に座る保護者と意味ありげな視線を交わす。机の上に広げているあの分厚い手帳には、いったいなにが書かれているのだろう。
 沢邉先生は普段のクラスの様子を話している。みんな積極的に課題に取り組んでいます、漢字テストの平均点が一学期に比べて上がりました、等々。なにか質問は、と沢邉先生が言った時、八木さんが手を挙げた。
「先生、来年度からも、この学年は一クラスなんですか?」
「そうです。一学期にひとり転校して人数がさらに減りましたし、転入等で人数が増えれば今後は二クラスになる可能性もあるかもしれませんが……」
 頰を紅潮させて説明する沢邉先生の言葉を遮るようにして福岡さんが「でも」と声を上げた。
「先生は現状、児童全員に目が届いていないところがありますよね? 手のかかる子にばっかり目が行きがちで」
 手のかかる子、と聞いて、隣にいたつつみさんが俯いた。
「それって公平じゃないと思うんですよねー」
 沢邉先生はなにかを考えるように唇をきゅっと結んでいる。
「児童全員に目が届いていない、というのはたしかにそうかもしれません。ですが補助の先生にも来ていただいてます。わたしもクラスの子全員と一日一回は会話をしようと努力しています。それに、人数が多いからこそ学べることや、できることもあるんです。たとえば」
「そうでしょうか」
 また八木さんが沢邉先生の言葉を遮る。
「それにー、先生はただでさえプライベートでいろいろお忙しいでしょ?」
 何人かが笑った。空気をほんのわずかに揺らすような小さな笑い声ではあったが、沢邉先生ははっとしたように黙りこんでしまう。
「問題を起こすような子と自分の子を同じクラスに置いとくのは正直言って心配でーす」
 事前に打ち合わせでもしていたのだろうか。数名が「わたしもそう思います」「そう思います」と手を挙げる。LINEグループの画面と同じだ。同感です。わかります。小さな画面に同意の言葉ばかりが積み上がっていくのを苦々しく見つめていた。
 希和はそこに自分の言葉を重ねなかった。無言は同意と見なされていたのだろう。そんなのは嫌だと、自分の声を発しようとした瞬間にそこから切り離されて、なかったことにされてしまった。もう、あんなことは、嫌だ。
 手を挙げても無視されそうな気がしたから、いきなり立ち上がった。堤さんがぎょっとしたような顔で見上げてくる。舌が口蓋に張りついて、剝がすのに苦労した。喉がからからに渇いている。せきをすると鈍く痛む。
 ただそこにいるということに意味がある。ならばその意味を、他人に委ねまい。
「先生のプライベートなことは、今この場では関係ないと思います」
 福岡さんの口がかすかに開いた。驚いているというよりは、どこかあきれているように見える。
「問題を起こすような子と同じクラスになりたくないと福岡さんはおつしやいましたが、わたしはクラスの子全員に問題を起こす可能性があると思います」
「え、うちの子もそうだって言いたいの?」
「はい。うちの晴基もそうだし、他の子もそうです。もちろん福岡さんのところもです。わたしは……わたしは、学校ってあんまり好きじゃないです。自分が子どもの頃もそうだったし、子どもを産んでからもそれは同じです。ただ同じ地区に住んでて年齢が同じってだけで、年齢が同じ子がいるってだけでいっしょくたに教室に放りこまれて、そこでなんとかやっていかないといけない。なんて乱暴な世界なんだろうって思ってました。でも、悪いことばっかりじゃないんだと最近思うようになりました。自分の好きなもの、気の合う人ばかりをまわりに置ける環境は快適です。居心地がいい。でも、居心地をよくするために、そうじゃない異分子をはいせきするのは違うと思います。わたしたちは保護者です。わたしたちのすることを、子どもたちは見てる、だから、こ」
「なにが言いたいのかぜんっぜんわかんない」
 大きな声で希和の発言を遮った福岡さんと八木さんが「ねえ」と顔を見合わせ、何人かがまた笑ったが、どこかぎこちなくもあった。
 堤さんが希和の腕を引っぱる。もう座ったほうがいい、というように。それでも希和は、その場に立ち続けた。
 あちら側とこちら側。
 四月の保護者懇談会で、そう思った。自分があちら側に座ることはきっとない。今もそう思っている。
 八木さんになにごとかを耳打ちされた福岡さんが、おかしそうに口もとを押さえる。頰が持ち上がってわずかに上目遣いになり、希和にはそれがとても滑稽な顔に見え、次の瞬間にすうっと頭の中が冷えた。
 あちら側とこちら側。そんなもの、どうでもいい。くだらない。
 笑えばいい。好きなだけわたしを笑えばいい。
 だってわたしが行きたい場所は、あなたの側じゃない。
 チャイムが鳴る。福岡さんが分厚い手帳をばたんと閉じた音が、やけに大きく教室に響きわたる。

#6-4へつづく
◎第 6 回全文は「カドブンノベル」2020年12月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年12月号

「カドブンノベル」2020年12月号


MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年2月号

1月12日 発売

怪と幽

最新号
Vol.006

12月22日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP