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連載

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」 vol.9

遣唐使・井真成が、生死を賭けた試練に挑む! 真成に託された役目とは果たして――。夢枕獏「蠱毒の城――月の船――」#84〈後編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※この記事は、期間限定公開です。

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「貧乏書生めが、このわしをとんでもない目に遭わせてくれたわ」
 老人は、杜子春の髪をひっつかんで持ちあげ、庭に連れ出して、水甕の中に放り込んだ。
 水甕から飛んだ水が焰にかかって、ほどなく火は消えた。
 ずぶれになって、水甕から杜子春はい出したのだが、水は、一滴も減ったようには見えず、もとのように水甕の口いっぱいにまでまっている。
 放心したように膝をついている杜子春の前に立って、
「おしいところじゃった。あとひと息で、不老不死の霊薬はできあがり、おまえも仙界の人間となることができたであろうに──」
 老人はくやしそうにそう言うのであった。
「おまえの心は、よくの五つは全て忘れ去ることができた。しかし、忘れ去ることができなかったのが、ただひとつ、愛であった……」
 ここで老人は、溜め息をひとつつき、
「さきほど、おまえが〝噫っ〟と声をあげねば、首尾はうまく運んだはずなのだが、まあ、しかたあるまいよ。まことに、仙人の才とは得難きものよなあ……」
「では、わたしは、失格ということでしょうか──」
「失格じゃ。仙人となるための試験には落第したが、人としての試験には及第したというところかのう。わしの薬は、また練りなおすこともできようが、おまえさんは、もう、仙人にはなれぬ……」
「───」
「おまえは、俗世の厄介にならねば生きられぬ人間じゃ。人として、俗世で、出世するなり、悪党になるなり、好きに生きるがおまえの分じゃ……」
 老人は、帰りの道を指差し、
「帰れ」
 と言った。
 杜子春が、焼けた家の中を見やると、炉はもう壊れていて、その中央に、ひじほどの太さの鉄の柱が立っていた。
 その高さ、数尺。
 老人は、もう、杜子春を見ていない。
 老人は、着ているものを脱ぎ捨てて、その鉄の柱を、刀で削りはじめている。
 それをどうするつもりなのか、もう杜子春の理解のおよぶところではなかった。
 杜子春は、足どり重く、家に帰ったのだが、このことが忘れられず、その後、何度かざんに足を運んではうんだいほうに登ろうとした。しかし、あの時に通った道はどこにもなく、無念の思いを胸に抱いて帰るばかりであったという。

(三)

 以上が『杜子春伝』の物語である。
 冒頭の、

杜子春はしゆうからずいにかけての人だったようである。

 という一文にある「周」とは、いんの次に成った周王朝(西周・東周)のことではなく、隋の前にあった北周のことであろう。
 すでに記したように、この『杜子春伝』をテキストにして、日本ではあくたがわりゆうすけが『杜子春』という小品を書いている。
 おおむねストーリーは同じだが、違っているのはそのラストである。
『杜子春伝』では、杜子春は女に生まれかわり、自分の子供が夫に殺されてしまうのを見て、「噫っ」と声をあげてしまうのだが、芥川の作品では、この生まれかわりがない。
 芥川の『杜子春』では、地獄の鬼に責められる父と母の姿を見て、杜子春は声をあげてしまうのである。
 さらに芥川の作品では、教訓めいた話になっていて、老人は、思わず声をあげてしまった杜子春をめ、
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。(略)」
 と言い、
「おゝ、幸い、今思い出したが、おれはたいざんの南のふもとに一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうがいい。今ごろはちょうど、家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」
 杜子春に自分の所有していた家一軒を与えてしまうのである。
 これはこれで、実に日本的なよい話としてまとまっているのだが、元の話『杜子春伝』が持っていたどこかあやしげで、かなしげな余韻のごときものが薄まってしまっているような気がしてならないのである。

#85(前編)につづく
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