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連載

渡辺 優「きみがいた世界は完璧でした、が」 vol.21

【連載小説】部室でみんながとり囲んでいたのは……日野の仕掛けた監視カメラだった! 渡辺 優「きみがいた世界は完璧でした、が」#7-3

渡辺 優「きみがいた世界は完璧でした、が」

※本記事は連載小説です。

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 講義が終わると、次が空コマとなる俺とヤマグッチはいつも通り連れ立ってサークル棟へと向かいました。空は薄暗く、屋根のない渡り廊下に出ると、常温の雨がパラパラと降り注ぎ首の後ろをらしました。両手を上げ頭皮をガードするヤマグッチに続き、速足で中庭を突っ切ります。
 サークル棟内には湿った空気が満ちていました。いつも以上に酸素が薄く感じられる階段を、湿気と混じりあう不快な汗を拭いながら一段一段踏みしめます。ようやく四階踊り場までたどり着いたとき、上階から声が聞こえました。どこか張りつめたような、ざらりと耳ざわりな男女の声。「なんだべ」と、先を行くヤマグッチが首をかしげました。
「あ、やまぐち先輩!」
 階段を上りきった先の廊下、まず現れたのは、一年のしらさんでした。彼女は両腕をきつく組んでなにかを警戒するような姿勢のまま、「と、日野さん」とこちらを認めました。
「あー……集まってきちゃったか」
「いや、みんなに知らせた方がいいですって、こんなん」
 奥に立っていたのは、部長とかわしまくん。部室にも入らず、こんな廊下に棒立ちで、いったい何を……と首を傾げたそのとき、俺は部長の手の中に信じられない物を見ました。それは、不器用に張り付けられたダクトテープがだらりと垂れ下がった、黒く小さな箱。部長のスマホか? と一瞬思いました。いや違う、と気づいた瞬間、俺の頭の中で液体窒素のデカい缶が派手にはじけました。脳のほとんどが凍り付き、砕け散り、きらきらと舞って、ホワイトアウト。生き残ったわずかな脳細胞が甲高い声で叫びます。あれは! マイ、カメラ! ファッキン、マイ、カメラ!
「どうしたんですか?」
 ヤマグッチが好奇心をにじませ尋ねるのを、俺は遠のく意識の中聞きました。「もうめっちゃヤバいんですよ!」と、白木さんのとがった声が応えます。固く組まれていた腕をほどき、「あれ!」と、部長の手にしているものを指しました。
「たぶん、隠しカメラだと思う。そこの消火器のところに取りつけられてたんだって。川島くんが見つけて」
「いや隠しカメラ以外あり得ないじゃないですか。絶対そのストーカーが仕掛けたやつですって」
「まあ……そう。そうだろうって話してて……はあ」
 がっくりと肩を落とす部長。その手前で立ち止まっていたヤマグッチが、ゆっくりとこちらを振り返るのが、サスペンス映画のワンシーンのように見え……俺たちは無言で視線を合わせました。
「だから早く学生課行きましょうよ。これ警察呼んだりするんじゃないですか」
「あー、そうだね……。行くしかないか……」
「こないだの写真のときに行っておけばよかったのに。部長さん渋るから」
「いや、でもさ、これ、たまたまうちの部室に近い場所に設置されてただけでさ、前の写真のやつとは違うかもしれないじゃん? 隣の黒魔術研究会を狙ったのかもよ。対抗する魔術会同士の、なんか、トラブルとか……」
「いやだとしても知らせる義務があると思いますよ。俺が見つけたんですから」
 川島くんが部長に胸を張るのを横目で見ながら、俺はヤマグッチからの視線の圧を感じていました。はっきりとは読み取れませんが、そこに込められているのは「おい、どうする?」的な気持ちでしょうか。あるいは、もっとはっきりとした「早く言え」? それとも、「なにも言うな」?
「ていうかもう怖すぎて無理なんですけど。どうしよう……」
 白木さんの弱々しい声に、俺は川島くんらに向けていた視線を移しました。彼女は再び腕を組んで、自分を守るように身を固く、小さく縮めています。俺は腹の底から、つい昨日の朝、部室で榊さんの欠伸を見たときと同じ勢いの罪悪感が湧き上がるのを感じました。
 女子をおびえさせている。
 俺の仕掛けた、ストーカーを捕らえるための正義のカメラが。
「あ! あの」
 誤解を解かねばならないと確信しました。そのカメラは違うのだと。それは悪しきストーカーがらちな目的のために仕掛けた、邪悪な念のこもった危険物ではなく、全くもって真逆のまっとうな目的のため、ストーカーを捕らえるために仕掛けた正義の監視用カメラなのだと。
 ヤマグッチと目が合ったその一瞬、このまま黙ってすべてをストーカーの所業としてやり過ごすことを考えてしまった自分を、俺は深く恥じました。そんなの駄目に決まっている。自らの過ちを最低最悪なストーカー野郎になすり付けるなんて!
「それ、いやすみません、俺です!」
 まだフリーズの解け切らない脳細胞を働かせ、俺は言葉を吐き出します。視界の端っこ、ヤマグッチが顔を歪めるのがわかりました。あれ、もしかして先ほどの視線の意味は、「言うな」の方だったのかな。しかしもう遅い。
「いっけね、すみません、ほんと……あの、俺っす俺っす」
「は?」
 部長と川島くんが、ぽかんと口を開きます。白木さんの方は……ちょっと、怖くて、うかがうことができない。
「あの、あれですよ! ストーカー」
「あ……え、なに? ほんとに……ほんとにストーカーだったの? お前」
「いや違くて!」
 俺は両手を広げ、不名誉な疑惑をはらいます。
「そうじゃなくて、ストーカーを捕まえようと思って。その、ストーカーが映るかなと思って仕掛けてたんです、カメラ。いやすみません、あの、ちょっと試しに、くらいの気持ちで……。や、ほんと、皆にはちゃんと言ってからやればよかった、ですね……」
 皆の中に犯人がいる可能性を考慮して黙っていた、なんてことはもちろん言えません。しかし言わずともバレているかもしれないと、部長の手の中のカメラを見下ろした川島くんが眉間にしわをよせ、厳しい表情を作るのを見て感じました。
「なんだ、お前かよぉ」
 反対に部長はわずかに相好を崩し、張りつめていた肩の力を抜きました。
「マジで、言えよぉそういうことは。ほんとビビったわ。マジで活動停止とか考えたし」
「いや、すみませんほんと……へへ」
「日野がこういうのやるのマジ笑えないから。頼むよもう……はー」
 部長はバンダナの巻かれた額に手を当て、ややオーバーにため息をつきました。よかったよかった、一件落着と、彼の様子だけを見ればそう思います。いやあほんとすみません、びっくりさせちゃいましたね、でももう誤解は解けましたよね、と。
 しかしその隣、川島くんは更に厳しい表情で、明後日あさつての方向を向いてあんの苦笑いを浮かべる部長を横目でにらんでいました。ヤマグッチはというと……ヤマグッチは、白木さんの様子を窺っているようです。勇気を出して白木さんを見ると、彼女はこわった顔のまま、真っぐな目で川島くんを見つめています。なんでしょう、この張り巡らされたような視線の流れは。そして気が付きました。誰も俺を見ていない。
「いや、信じられないんすけど」
 そう口火を切ったのは、川島くん。
「あ……ごめん。だよね、ほんと信じられんよね」
「いえ、そういう感じじゃなくて。噓なんじゃないすか? っていう」
「え」
「普通に盗撮しようとして仕掛けたんじゃないすか? 宮城先輩のこと」
「え、いや」
 俺は額に急速に血液が集まるのを感じました。熱い。脳が忙しい。
「違う違う。まじで違う、それは」
「だってカメラ仕掛けるとか普通じゃなくないっすか?」
「普通じゃない、絶対」
 固く口を引き結んでいた白木さんが、川島くんの言葉を受け言いました。俺は否、と反論しかけ、しかし待てよ、うん、廊下に隠しカメラを仕掛けることが普通か否かという議論なら彼らに分があるな、と思いなおし、
「そう、それは、ごめん。でもマジで、動機に噓はない。ストーカーを捕まえたくて」
「なんでですか? 日野さん、宮城先輩の彼氏でもないし、友達でもないですよね。新歓のときもぜんぜん喋ってなかったし、仲良くもないのに」
「それは」
「ていうか、フラれてるのに」
「三回も」
 今度は川島くんが白木さんの後に続きます。「いや二回ね」と訂正しながら、違う、そんなことにこだわっている場合ではなくて。
「仲いいからとかではなくて、ただ単に、心配だったからだよ」
「心配、ですか」
「うん。ほら、俺は宮城さんが……その、泣いているのを見たから」
 今なお少しも色せることなく呼び起こせる、彼女の頰を滑り落ちる涙。そう、誰もあの涙を見ていないから。だからわからないんだ、俺の行動の、正当性が。
「泣いているひとを心配するのは、普通じゃない?」
 俺は川島くんたちの、こちらを窺う気配はするのに微妙に視線の合わない目を、ひとつひとつ見つめ訴えました。
「心配は、みんなしてましたよ。写真ばらかれたって話聞いて。でも誰も、こんな……。あの、これ、宮城先輩に頼まれてやったとかいうわけじゃないんですよね?」
「え、……うん。それは、そう。俺が勝手にやったことだけど」
「じゃあもう、やってることはストーカーと同じじゃないですか。動機はどうあれ」
 そうじゃないですか? と、白木さんは皆に同意を求めます。いつのまにか先ほどまでのへらへらした笑顔を引っ込めていた部長が、「ああ」と頷きました。
「やってることだけ見たら、まあ、同じだよね」
「つか俺はまだ信じれてないっす。そもそも噓じゃね? って」
「いや、それはほんと、違う……」
「違うとか言われても、やってることが同じである以上それ証明できなくないすか?」
「うん、あー、そうね……」
 どうにか反証せねば、と思います。思うのですけれど、俺はなんだか、ちょっぴり疲れてきていました。だってほら、この階段を四階まで上ってきた時点で、もうだいぶくたびれていたのです。そこにいきなりこのような、脳の急速冷凍、沸騰を伴う重労働イベント。えた反論を思いつくカロリーなんて、もう残っていません。いえ、すべては自業自得だとわかっています。しかるべきタイミングでカメラを回収し損ねた俺のミス。しかしこれ以上は、もう、瘦せてしまう。
 俺は顔を上げ、ヤマグッチを見ました。俺が告白を開始してから、ずっと口をつぐんでいるヤマグッチ。特に深い意味もなくなんとなく様子を窺っただけなのですが、同じタイミングで皆の視線がすっと収束するように彼に集まりました。ヤマグッチは静かに俺を見つめ返し、口を開き……。
 おや、と思いました。ヤマグッチの、その表情。口の右端をつり上げ、軽く眉間にしわを寄せ、目を細めたその顔。これは、俺は、初めてみる顔だ。
「いや、ストーカー捕まえたいってのは、わかるけど……。でも、さすがに……隠しカメラとかは、ないんじゃね? そこまでするのは……なんつーか……俺も、さすがにないと思うわ……」
 これはヤマグッチが、俺を切り捨てるときの顔。

 それでも俺は、地獄のバイト先へ行かなければならないんだなあ。
 なんせ金がないのです。労働をしなければ生きてはいけない。とはいっても俺は、宮城さんに二度目にフラれたまさにその日だってちゃんとバイトに行った男ですからね。皆に責められ、ヤマグッチに切り捨てられ、ひとりふらふらとサークル棟から逃げ出してきたくらいでバイトに行けないほど落ち込んだりはしないのです。ええ、マジで。
 ただ俺は、ちょっとびっくりしていました。どうやら俺は、ヤマグッチが俺を切ったりすることはないと思っていたようなのです。そして、そんなふうにびっくりしている自分にもびっくりしているというか。
「おい」
「あ、おはようございます」
「電話もでれねえ風邪か」
「え、あ、はい、すみません。あ、でもあの、その後折り返してトアンくんに、あ……」
 バックヤードに現れた店長は俺と目も合わせず弁明も聞かず、すぐに背中を向けてまた店内へと出ていきました。風邪と噓をついてバイトを休んでから店長とシフトがかぶるのは初めてです。覚悟はしていましたが、今日はもう本当に一瞬たりとも楽しくない、ただしんしんと降り続ける雪のように苦痛な時間が重たく積もり積もるパートタイムジョブの確定です。時給は千二十円。求人ポスターで最初にその額を見たときは胸がときめいたものですが、(俺の地元の最低賃金は、ドドン! 八百二十四円!)今となっては受ける苦痛に対してあまりにも割に合わない額だなあとしみじみ思います。店長とシフトが被る日は特別手当がつけばいいのに、一時間あたり五千円くらい。あ、それは素敵だなあ。そしたら俺の今日の稼ぎはえっと、三万百円。わお! 店長愛してる! ところでなんでヤマグッチは俺を切ったんだ。
 制服に袖を通し、正確な始業時間までまだ数分を残したまま、俺は店内へと出ていきました。商品棚を隅々まで照らすLEDの明るさに、一瞬目がくらみます。入り口近くのレジに入ると、客の切れた一瞬の隙をついて店長が裏に消えました。店長は極力接客をしない。
 電車の到着と共に増える客たちをにこやかに、かつ淡々とさばきながら、逆になんで俺はヤマグッチに切られないと思っていたんだ? と考えます。あの状況ならまあ切られてしかるべし、ではないか? 俺はいったいなににびっくりしているんだ。
 一瞬納得してくれたかに見えた部長に簡単にはしを外されたのは、正直特に、意外でもなんでもありませんでした。俺は、部長ともわりと良い関係を築けていると思っているけれど、でもほら部長ってけっこう、こう、長いものには巻かれろ的な、寄らば大樹の陰的な、老いては子に従え的な……? とにかく、後輩のぴりぴりした空気に背いてまで俺をかばい立てしてくれるタイプのひとではないよなあと、漠然とですが思っていたのでした。彼はあくまで空気を読むひとであって空気を作り出すひとではない。去年、更に上の先輩たちがいたころからそれは変わらず。
 でもヤマグッチは──『いや日野はただストーカーを捕まえたかっただけでさ』『ちょっと暴走しちゃったとこもあるかもしんないけどさ』『行動はストーカーと変わんなくてもさ』『絶対そういうタイプではなくて』『俺は高校の頃からこいつを知ってるから』『こいつはマジでいいやつで』『心がイケメンで』『最高の親友』──と、俺はやつがこんなふうに言ってくれたらよかったのになあという台詞せりふを次々想像してむなしくなりました。まだまだ無限に出てきます。『素晴らしき生涯の友』『劇場版ドラえもんにおけるジャイアンの位置』
「すみません、串唐揚げのしよう味は今売り切れで……」
 ものすごくがっかりした顔のスーツ姿の女性に頭を下げながら、まあでもね、もともとヤマグッチは監視カメラ計画には否定的だったんだよね、と思い直します。俺が初めてカメラプランを打ち明けたとき、ヤマグッチもザラキも引いていました。俺はなんでふたりがそんなに引くのかよくわからなかったのですが、今はわかる。本物の罪悪感を腹いっぱいらったので。でも「部室にカメラ」は駄目でも「廊下にカメラ」はぎりオッケーだと、なんとなく我らチームの中ではその倫理ラインでゴーみたいな空気で決着したんだと思ってました。まあたった三人のチームじゃ倫理の偏りもやむなしという感じですけど。いずれにせよ俺ははっきり覚えていますよ、ヤマグッチが今日の講義の時間には「いいんじゃない? なに映るか見てみれば」と超ラフな感じで発言していたこと。「やってみろよ親友! 俺は応援してるぜ!」的なこと、言ってましたよね?
「すみません、串唐揚げの醬油味は今売り切れで……」
 すごく悲しそうな様子の金髪の男性に頭を下げながら(誰だホットスナックの製造を怠っていた昼勤は。店長だ)、確かに言った、絶対言った、とほんの数時間前のヤマグッチの様子を思い起こします。それなのに、まったくなんだよあの皆の注目を集めたときの、え、カメラとか引くんですけど……みたいな演技! びっくりするわ! いやだからなんでびっくりしてるんだ俺は? あの状況なら、自業自得で針のむしろの俺なんぞとは無関係のふりをしたくなるのも当然というもので、と、思考のループに陥る。
 ていうかぶっちゃけヤマグッチってこういうときわりと容赦なくシビアにひとを切りそうなタイプじゃん?
 そうだ。俺はヤマグッチというその人間、人格を、心から手放しで信頼していたわけじゃない。ただ俺はヤマグッチのことを、なんというかこう、「親友キャラ」みたいに思っていました。つまりこの驚きは、「親友キャラ」がキャラにそぐわないことをしてきたからびっくりしちゃった、という、わりと身勝手なもの。
 ジュブナイル系ゲーム──主人公がティーンエイジャーの、若者向けゲーム──の多くには、いわゆる「親友キャラ」が登場します。大抵は主人公と同性で、同世代。だってつらい冒険を乗り越えるのにやっぱりひとりくらいは身近なポジションの友達がいて欲しいじゃないですか。親友キャラはとにかくなにがあろうと主人公の味方で、主人公を支え、励まし、決して裏切らず、見限らず、ときに衝突することがあってもけんの後はさわやかに気持ちよく仲直り、そんな奴です。さながら劇場版ドラえもんにおけるジャイアンのように……。
 なんだか俺は無意識のうちにヤマグッチのことをそういう位置に捉えていたようです。でも違う、ヤマグッチはキャラじゃないから、適宜己の判断で保身に走ったりひとを裏切ったりすることができる。どんな選択だってできる。
「おい」
 並んだ客をさばききり、小銭の筒のフィルムをいていると、すぐ後ろからしつけな声がかかりました。振り向くと、また店長。
「覇気がねえな」
「え。は」
「は、き、が、ねえ、つってんだよ」
「あ、ええ……」
 驚きました。この店長にも、ひとの覇気の有無なんてものがわかるのか。
 バイトなんて駒のひとつとしか思っていない、俺のことなんてちょっと太めの駒のひとつとしか思っていないと思ってたのですけど、でもそうか。俺らももう一年も一緒に働いているのですものね。元気がないのバレちゃうか、店長には。俺が元気ないと気になっちゃうか、店長は。
「いや実はちょっと、サークルでもめて」
「へえ」
「仲良かったやつとかも、対立する側になっちゃった感じで。居場所がなくなったというか……」
 そこで店長は、チッ、と馬鹿でかい舌打ちをくれました。
 え? なんで? なんで今舌打ち?
 戸惑っていると、店長は横目で俺を睨み「クソみてえな大学のクソみてえなサークル入ってんだな」と吐き捨てました。
「え、いや……」
「クソみてえな悩みでめでてえな」
 最後にそう捨て台詞を吐いて、店長はまたバックヤードへと消えていきます。
 なんだ。なんだったんだ。
 俺の元気がないのを見て取って普段はクソみたいな店長が珍しく励ましてくれるイベントが発生したのかと思ったのに。店長もあんなんだけど一応れつきとした大人なのだし、年長者として若者に有益なアドバイスとか滋味のある良い言葉とかくれるのかと思ったのに。あれは完全にただのいつもの店長。
 クソムカつくな。今度トアンくんとかさんにグチろう。
 そう心に決めつつも、俺はなんだか、なぜでしょう。ちょっとした安心感のようなものを覚えてもいました。店長にとってはすべてがクソでありみなを平等にクソとして扱い本人も誠実なまでにクソ野郎である。俺がサークルでどんな思いをしようとなにを言われようと、いつもと一ミリも変わらぬこの地獄。
「ふう……いらっしゃいませー」
 入り口センサーに反応するメロディに顔を上げると、そろいの制服を着た高校生とおぼしき男子二人組がゲラゲラと笑いながら入店してきました。彼らは菓子の棚を見てはまたブハッと吹き出し、アイスのケースをのぞき込んではヒーヒーと腹を抱え、なにがそんなに面白いのかまったく謎です。レジから死角になる店の奥に消えてからも、ずっと彼らのゲラゲラという手放しの笑いが聞こえていました。きっと説明されたところでそれは彼らにしか理解できない、彼らの存在する超ミクロな宇宙でのみ成立する笑いなのでしょう。
 フィクションのように素晴らしい親友でなくても、自我を持って裏切る友達でも、俺とヤマグッチもあんなふうに意味のないことでゲラゲラ笑いあえるふつうの友達でした。俺はヤマグッチがふつうに大好きでした。

 それからの数日間、学内ではふたつのささやかなうわさ話が、日当たりの良い空き教室や食堂のテーブルや廊下の片隅で、授業の合間やランチタイムや空きコマでの気軽な暇つぶしとして、一部学生たちの間で話題に上りました。
 ひとつは、情報工学科のなんとかってデブがオタクサークルの部室に隠しカメラを仕掛けて退部になったらしい、というもの。噂なんてまったくあてにならないものですね。俺はまだ退部にはなってないですよ。まああれ以来俺は部室どころかサークル棟にさえ近づいていないので、退部になった状態となんら変わりはないのですけど……。
 もうひとつは、英文科の美しく聡明で優しい宮城エマさんは、その実とんでもない悪女であり、信じられないクソビッチであるらしい、という。

#7-4へつづく
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