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連載

渡辺 優「きみがいた世界は完璧でした、が」 vol.3

中傷犯を追う日野は、憧れの彼女とすれ違うが、それはショックな遭遇で……。 渡辺 優「きみがいた世界は完璧でした、が」#3-3

渡辺 優「きみがいた世界は完璧でした、が」

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 今日は昼飯後の講義がラストだったので、さっそく部室に向かうことにしました。途中生協に寄るというヤマグッチと一旦別れ、俺は午後の黄色い光の中、まだ人気のないサークル棟への渡り廊下をひとり歩いて行きました。ときおり吹くグラウンドからの風がそこここの植木をざわざわと揺らし、日差しににじむ汗を心地よく冷やしていきます。さわやかな新緑の匂い、素晴らしい春の空気を胸一杯に吸い込みながら、俺は新たな仲間を得た喜びをじわじわとかみしめていました。
 ヤマグッチは良いやつです。中傷犯探しを手伝うと言ってくれたヤマグッチ。その瞬間のやつの笑みに、俺はなんとなく高校時代の彼の姿を思い出していました。陽気で、社交的なタイプのオタクで、誰とでも気さくにしやべり、それでいて眉間に何度でもできる小さなニキビに悩んだり、違法ダウンロードサイトの架空請求メールを笑いつつもちょっとだけ本気でおびえたりするような、わりと繊細な一面もあったヤマグッチ。今の、似合わない茶色の髪をして、ちょっと斜に構えたところがある彼も、基本的なマインドはあのころから変わっていないように思うのです。ネットで中傷を行う犯人に対して、許せない気持ちがあるのかもしれない。
 あとこれはたぶん勘違いではないと思うんですけど、去年の春、一瞬だけヤマグッチも宮城さんのことが好きだった瞬間があったと俺は踏んでいます。そんなようなことも彼が手伝いを申し出てくれた一因になっているような、気がするような。昨年の春の終わり、やつに恋人ができたのは俺にとっても非常に喜ばしいことでした。俺はヤマグッチと恋のライバルにはなりたくなかったので。俺にとって、彼はただ良いやつというだけではなく、恩人でもあるのです。
 と、過去に思いをせながら歩くつま先に、また一陣の風が吹きました。どこからか、ふわりと甘い匂いが香った気がしました。グラウンドのどこかになにか咲いているのでしょうかね。その一瞬で俺の頭の中から眉間にニキビのヤマグッチのビジョンが消失し、代わりに彼女の滑らかな額が浮かびました。鮮やかによみがえったのは、先々週彼女に想いを伝えたときの情景と、香り。
 春の匂い。そこに交じって、去りゆく彼女からほのかに香った匂いがあったこと。何か、花のような、果実のような。
 いや、すみません。なんか俺が匂いとかの話するとキモいですね。キモいついでに言わせていただきますと、あれってシャンプーか何かの香りだったりしたのかな。そのシャンプーって、なにか、女子しか買ってはいけないみたいな制限があったりしますか? 仮に俺が彼女と同じ香りを身にまとったとして、それは社会に不利益を与えたりしますか? 大丈夫ですよね? 同じシャンプーを使うことはなにハラスメントにもあたらないですよね?
 サークル棟一階、入り口の重たい観音扉。彼女の香りに思いを馳せながらその正面にさしかかったとき、扉が向こうから開きました。俺は一歩後ろに下がり、その陰から出てきた人物に道を開けようとし、息をみました。
 まず目に入ったのは、栗色の髪。
 そして、白く艶やかな頰。
 朱色の唇。
 伏せられていたまつがさっと上がり、薄茶色の瞳が覗きました。
 彼女が、そこに。
 一拍遅れて、花の香りが広がりました。
「お、あ」
 喉からもれた自分の声を遠く聞きながら、俺の脳は突如として現れた彼女の姿をただぐるぐると処理していました。
 俺は指先ひとつ動かせず、気のきいた挨拶などできるわけもなく、唯一思い浮かんだ意味のある言葉「シャンプーなにつかってます?」は、声にはならず喉の奥で消えました。視線の合った、一秒にも満たない一瞬。風に揺れる彼女の前髪が、世界の時が止まったわけではないということを教えていました。彼女は再び目を伏せると、扉を押す手に力を込めました。彼女が扉を開こうとしている。
 その扉を支えるのだ! と電撃のように脳が命じ、俺は腕を伸ばしました。
 紳士的に! ほほみ! 扉を支えろ! そう、俺はこの扉を支えるために生まれてきました。この扉を支えるために健康に成長して無邪気な小学時代や暗黒の中学時代やまあそこそこの高校時代を経て必死の受験勉強を乗り越え大学に入ってここにいる。すべてはこの瞬間この扉にたどり着くため。彼女がその細い腕で重そうに押している扉を支えるため!
 と、伸ばした手の先、彼女の背後からすっと現れたもう一本の腕が、力強く扉を押し開け、俺はバランスを崩しました。陰から現れたのは、俺よりも頭ひとつ分は背の高い、男。人間、ヒューマンの、男。
「あ、すみません」
 扉の裏でよろめいた俺に気づいた男は、そう言って軽く頭を下げました。はっきりとした直線的な眉が、印象的な顔。
「あ、いえいえこちらこそ……」
 そう言葉を返す俺の横を、いつかのように彼女が通り過ぎました。再び香る花の香。俺の脳裏に、小さな青い花のイメージが浮かびました。
「エマ」
 彼女を追って俺の横を行く男が、低くかすれた良い声でそう呼びかけるのが聞こえました。閉じかける扉を今度こそ支えながら振り返ると、ふたりは肩を並べて歩きながら、講義棟の方へとゆっくり遠ざかっていきました。途中、ふたりが何度か言葉を交わす様子が遠目にもわかりました。彼らが角を折れ、その姿が建物の陰に消えるまで、俺はぼんやりとその背中を眺めていました。

>>#3-4へつづく ※10/23(水)公開
◎第3回全文は、「カドブンノベル」2019年10月号に掲載されております。


「カドブンノベル」2019年10月号

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