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連載

藤野恵美「きみの傷跡」 vol.6

男性がすべて、暴力的でおそろしい存在なわけではない。けれど……。藤野恵美「きみの傷跡」#3-2

藤野恵美「きみの傷跡」

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      6

 ゴールデンウィーク最終日。
 私はベランダでシーツを干しながら、青い空を見つめる。
 いい天気だ。今日はこれから薔薇園に行く予定なので、晴れてよかった。
 タオル、バスタオル、パジャマはそのままピンチで挟んで、シャツ類はハンガーにかけて、下着は室内干しに……。洗濯物をすべて干し終わると、つぎは朝ご飯の用意だ。
 キッチンに行って、人参と大根をいちょう切りにした。冷蔵庫から小鍋を出して、一晩水に浸しておいた昆布を取り除く。昆布は冷凍しておいて、ある程度まとまったらつくだにするつもり。人参と大根を煮ているあいだに、豆腐を切って、かつおぶしをのせ、醬油を垂らす。ひややつこは手軽にできるから、ついつい出番が多くなってしまう。大豆に含まれるイソフラボンには美容効果があるから積極的に食べたいと母も言っているので、まあ、良しとしよう。
 コンロの火を止めて、小鍋にを溶き入れ、味見をする。うん、いいお味。
 野菜だけの味噌汁は、幼いころによくシッターさんが作ってくれた。
 母が仕事に出ているあいだ、シッターさんは私の面倒を見ながら、洗濯物を畳んだり、冷蔵庫にあるもので夕飯を作ったりしていた。シッターさんは、だいたい、決まったひとだったけれど、たまにちがうひとが来ることもあった。私は人見知りするほうなので、新しいシッターさんのときには緊張した。だから、いつものひとだと、ほっとした。
 野菜だけの味噌汁を作ってくれたひとは「スガワラさん」と呼ばれていた。どんな字を書くのかは知らない。全体的に薄めの味つけで、スガワラさんの作る料理はどれも私の好みに合っていた。積極的にコミュニケーションを取ろうとするシッターさんも多いなか、スガワラさんは物静かで、家事をしながら、私をそっと見守ってくれていた。
 いま、どうしているのだろう。シッターの仕事はまだ、つづけているのかな。元気でいるといいな……。
 小学校の高学年になると、ひとりで留守番できるようになり、シッターさんは来なくなった。シッターさんを頼んだ最後の日には、スガワラさんじゃないひとが来ていた。だから、スガワラさんにはさよならを言うことはできなかった。
 おばあちゃんと孫みたいな感じがしていたけれど、結局、お金を介した関係で、ビジネスライクなものだったんだ。契約が終わったら、もう二度と会うことはない。そんなふうに考えて、少し切なくなる。
 味噌汁ができたので、炊飯器のご飯をしゃもじで十字に切って、ひと混ぜする。この作業を「天地返し」というのだと教えてくれたのも、スガワラさんだった。
 ダイニングテーブルにランチマットを敷いて、自分と母の分のお箸を置く。
 それから、母の寝室へと向かった。
「ママ、朝ご飯、できるけど」
「えー、もう? 早くない……?」
 ベッドから眠そうな声が返ってくる。
「私、このあと、出かけるから」
「そうだっけ。どこ行くの?」
「大学の部活で、写真を撮りに行くの」
「ああ、そういえば、言ってたっけ……。いま、何時?」
「もうすぐ八時だよ」
「先に食べて……」
「うん、わかった。お味噌汁は、お鍋に入れたままにしておくからね」
 そう言うと、キッチンに戻り、母の分の冷奴にラップをかけて、冷蔵庫にしまう。それから、自分の分だけ味噌汁とご飯を器によそって、ダイニングテーブルに運んだ。
 私が高校に行けなくなって、いわゆる「不登校」という状態になっても、母はそのことを責めたりしなかった。私が家にいればなにかと便利だと言って、むしろ歓迎しているそぶりさえあった。
 家事をすることは、私にとって免罪符みたいなものだ。学校という居場所がなくなって、これでいいのだろうかと不安だったけれど、家のことをして、母の役に立つことで、存在を許されている気分になれた。
 母からは毎月の生活費を渡されている。やりくりをして、残った分はお小遣いにしてもいいことになっているのだ。アルバイトもしていないのに、高価なカメラを買えたのも、そのおかげである。
 朝食を終えると、おちやわんなどを食洗機にセットした。これくらいの量なら自分で洗ったほうが手っ取り早い気もするけれど、母の分の食器もあるので、まとめて食洗機に任せてしまおう。
 歯を磨いて、髪を整えていると、母が起き出してきた。まだ眠そうな顔をして、よろよろとトイレに入っていく。
「ママ、おはよう」
 母がトイレから出てきたので、私は洗面所を譲った。
「んー、おはよー」
 仕事モードのときはスーツをぴしっと着こなして一分の隙も無いほどなのに、寝起きの母はぼんやりしまくりで、落差が激しい。
「冷蔵庫の冷奴も食べてね」
「わかった」
「食洗機に汚れたお皿、入ってるから」
「うん」
「もし、出かけるなら、ルンバさんのスイッチ、押しておいて」
「はいはーい」
 出かける支度をして、私は玄関へと向かう。
「じゃあ、行ってくるね」
 声をかけると、母はパジャマのまま、玄関まで見送りに来た。
「防犯ブザーとか持った?」
「うん、ちゃんとかばんに入っています」
「くれぐれも隙を見せないように」
「わかってるって」
「行ってらっしゃい。楽しんでおいで」
 母はそう言って、笑顔で手を振る。
「もし、遅くなりそうなら、電話しなさいね。車で迎えに行くから」
「はーい、行ってきます」
 玄関を出て、マンションのエレベーターに乗ると、煙草たばこの臭いが気になった。
 だれもいないのに、臭いだけが残っている。私は嗅覚が鋭いほうらしく、ちょっとした臭いにも、敏感に反応してしまうのだ。タバコの臭いは苦手だ。息を止めて、一階に着くまで我慢する。エレベーターを降りると、深呼吸をした。
 電車に乗っているあいだも、そばにいるひとの整髪料の臭いが漂ってきて、頭が痛くなった。自分の好きなかんきつ系の香りのリップを塗って、気分を紛らわせようとしたけれど、あまり効果はなかった。
 目的の駅について、電車から降りる。改札を抜けると、すでに先輩たちは待っていた。
 小走りで近づいて、ぺこりと頭を下げる。
「遅れて、すみません」
 ほし先輩は驚いたような顔をして、こちらをまじまじと見た。
「えっ? いや、俺たちが早く着いただけだから」
「ああ、よかった。ほっとしました。余裕を持って家を出たつもりだったけど、遅刻かと思っちゃいました」
 星野先輩は大きなバッグを肩から下げて、三脚も持っている。
「本格的ですね」
 私が言うと、星野先輩はなぜか少し顔を赤くした。
「三脚はあると便利だから」
「私、三脚って使ったことないんです。持ち歩くの、大変じゃないですか?」
「これはわりと軽いけど」
 星野先輩はそう言って、わざわざ三脚を持ちあげて見せた。
「手振れしそうなときは、ガードレールとか使ってます」
「ああ、わかる。俺もやる」
 私と星野先輩が並んで、そのあとを笹川先輩がついてくるというかたちで歩く。
 今日の笹川先輩はなんだか無口だ。その代わりに、不愛想だと思っていた星野先輩のほうがよく話しかけてくる。
「ふだんは花とか、よく撮るの?」
 星野先輩の質問に、私はうなずいた。
「はい。でも、花って、意外と難しいですよね。実物はすごくれいなのに、写真だとその美しさがうまく表現できてなくて、がっかりすることが多いです」
「一輪で撮ると、特に難しいよな。花畑とか風景のほうがわりとごまかせるというか」
「このあいだ、桜を撮ったんですが、どれもいまいちでした。淡いピンク色って、難しいですね」
 駅を出て、横断歩道を渡ったあと、それまで私の右側にいた星野先輩が左側へと移動した。
 一瞬、どうしたんだろうと思って、戸惑ったけれど、すぐにその行動の意味を理解する。車道側に立ってくれたのだ。
 思いやりのある行動がうれしくて、心があたたかくなる。
 恐怖を克服するためには、少しずつ慣れていくのが大切だと、カウンセラーさんは話していた。
 男性がすべて暴力的でおそろしい存在なわけではない。優しい男のひともいるのだ。ポジティブなイメージを上書きして、男性に対する苦手意識を消していきたい。
「露出をかなりプラスに補正して、明るめに撮るほうが、綺麗に仕上がるかと。やりすぎると白飛びするけど。そんで、今日、撮影する薔薇ってのは、実はかなり難易度が高いから」
「そうなんですか?」
「彩度の高い赤って、デジカメだと再現性がいまいちなんだよな。しゆみがかった赤になりがちで、鮮やかな赤い薔薇って、なかなかうまく写せないんだ」
「なるほどー」
「紫っぽい薔薇なんかも、写真だと青が強くて、全然ちがう色になったり。そういうときはレタッチするって手もあるけど」
「レタッチって、パソコンとかで修正するやつですよね。私、ソフトも持ってないし、やったことないんです」
「部室にあるから、今度、教えるよ」
「ありがとうございます!」
 そんな会話をしながら歩いていると、目的の場所にたどり着いた。
 坂を登り、階段をあがったところにあるので、屋上庭園といった雰囲気だ。
 緑がたくさんあって、空が広く、なんとも気持ちのいい空間だった。
「素敵な場所ですね」
 早く写真を撮りたくて、うずうずしてきた。
「ネットだと猫もいるらしいって噂なんだけど」
 笹川先輩がそう言って、きょろきょろとあたりを見まわす。
「あっちのほう、探してくる」
 カメラを手に持つと、笹川先輩は遊具があるほうへと歩いて行った。
 入れちがいに、部長さんと椿つばき先輩が駅のほうからやって来た。
「おはようございます」
 私が挨拶をすると、椿先輩が手を振った。
「おはよー。いい天気だね」
 椿先輩はレースの日傘を持ち、真っ白なブラウスにウエストのきゅっと締まったスカートをはいていて、深窓の令嬢みたいな装いだ。
 椿先輩の着ている白いブラウスは生地が薄くて、黒いキャミソールが透けていた。
 気まずさとまぶしさが入り混じったような気持ちになって、そちらを直視できない。
 街を歩いている女性が、胸元が大きく開いた服を着ていたり、ミニスカートやホットパンツを穿いていたりするのを見ると、いつも、こういう気持ちになる。自分には絶対にできないこと。せんじようてきだなんて考えず、男性に対する警戒心や危機感を持たず、好きなファッションをできる強さ。大胆で、恐れを知らず、堂々としていて、羨ましさすら感じるのだ。
 私はなるべく、体の線が目立たないような服を着て、男性から性的なまなざしを向けられないよう気をつけている。そして、自衛しなければならないということに不自由さを感じて、理不尽だと思う気持ちも消せない。
「そのストラップ、わいいね」
 椿先輩にほほみかけられて、私も笑みを返す。
「ありがとうございます。レザーだとベタベタするんで、コットンのものを探したんです」
 そう答えながら、カメラのストラップをそっと指ででる。素朴な肌触りのコットン生地のストラップは、チロリアン模様も可愛くてお気に入りである。
「先輩の日傘も素敵です」
「今日は暑いからね。白い日傘はレフ板代わりにもなるし」
 しばらくすると、ほかの写真部のひとたちも集まって、笹川先輩も戻って来た。
「えー、メンバーもそろったんで、新歓撮影会をはじめたいと思います」
 部長さんが片手をあげて、
「まあ、各自、好きに撮ってくれたらいいんで。新入生は知りたいことあったら、どんどん質問してください。上級生はいろいろ教えてあげてください。正午くらいになったら、昼メシを食べに行く予定です。以上」
 さっそく、カメラを構えて、花壇のほうに近づこうとしたら、星野先輩に呼び止められた。
「あの、花宮さん」
「はい、なんでしょう?」
 星野先輩は肩に下げていた大きな鞄を開けると、レンズを取り出した。
「マクロレンズ、使ってみないか?」
「えっ、いいんですか?」
「うん、貸そうと思って持ってきたから」
 星野先輩はレンズを差し出しているけれど、私は受け取ることをためらってしまう。
「えっと、私、レンズを交換したことがないので……」
「あ、そっか。ちょっと、カメラ、いい?」
 自分のカメラをだれかに触られることには抵抗があった。けれど、星野先輩に対してはそれほど嫌だという気がしなかった。
 私は首からストラップをはずして、カメラを渡す。
 星野先輩はしゃがみこむと、素早い手つきでレンズのキャップを外して、私のカメラにレンズを装着した。
「これで、のぞいてみて」
 カメラを構えて、私はファインダーをのぞく。
「どう?」
 言われても、正直、よくわからない。
「こっち、見てみて」
 星野先輩が指差した薔薇にピントを合わせてみる。
「あ、すごい、近い」
 これまでとはちがった感じで、花がくっきり大きく見えた。
「設定とかわからないことあったら言って」
「わかりました。ありがとうございます」
 星野先輩にお礼を言って、私はいつもより重いカメラを構える。
 薔薇の花に近づくと、甘い香りが鼻をくすぐった。
 うーん、いい匂い。
 甘やかで優美な香りに、うっとりと幸せな気持ちになる。
 赤い薔薇に、ピンク色の薔薇に、黄色い薔薇に、白い薔薇……。淡い色の花びらはまわりが濃かったりして、微妙なグラデーションが美しくて、いくら見ていても飽きない。
 ファインダーをのぞくと、薔薇の花びらが持つラインの美しさが、一層、際立った。
 マクロレンズだと思いきり寄って、花をアップで撮ることができるので、表現の幅が広がるのだ。そこにはこれまで知らなかった世界があり、楽しくて、つぎからつぎにシャッターボタンを押したくなる。
 夢中で写真を撮っていたら、星野先輩がそばにやって来た。
「どう?」
「マクロレンズ、楽しいです!」
 興奮を抑えきれない口調で、私は言う。
「ピントが合いやすいし、背景がうまくボケて、めちゃくちゃいい感じの写真が撮れました」
 星野先輩が満足そうに笑う。
「気に入ったなら、あげるけど」
 レンズのことを言っているのだとわかって、私は大きく首を横に振った。
「ええっ、そんな、こんな高価なもの、いただけませんって!」
「使ってないやつだし」
「でも、ダメですって」
「そうか。気にしなくていいのに」
 しょんぼりとした声で言われ、親切をにしたようで、申し訳ない気分になる。
 でも、なにかをもらったりしたら、こちらもお返しをしなきゃいけないのだから、受け取ったりできるわけがない。

>>#4-1へつづく ※11/13(水)公開
◎第 3 回全文は「カドブンノベル」2019年11月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2019年11月号

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