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連載

藤野恵美「きみの傷跡」 vol.18

男性とつきあえる日が来るなんて思いもしなかった。そんな私に、家に行くお誘いが来た。藤野恵美「きみの傷跡」#9-2

藤野恵美「きみの傷跡」

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      18

 自分が男性とつきあえる日が来るなんて思いもしなかった。
 そういうのは無理だろうと考えていたのだ。
 花火を見た日の帰り、私は星野先輩と手をつないで歩いた。電車はとても混雑していて、ぎゅうぎゅう詰めの状態で押されまくり、星野先輩と体が密着することになったけれど、嫌悪感や恐怖はなかった。それどころか、星野先輩は私が押しつぶされないようにかばってくれているのだと気づいて、ますます、このひとが好きだという気持ちを強く自覚したのだった。
 あのときのことを思い出すと、顔が熱くなってくる。
 勉強していたはずなのに、つい、星野先輩のことを考えてしまって……。
 文字を目で追っていても、ちっとも頭に入ってこない。後期の予習のために特許法の教科書を読んでいたのだけれど、今日はもう勉強は諦めよう……。
 そう考えると、教科書を閉じて、紙類の整理をすることにした。
 前期に配られた大量の授業プリントを見直して、いるものといらないものに分けていく。作業を進めていると、スマホに着信音が響いた。
 星野先輩からのメッセージだ。
「いま、なにしている?」
 私は大急ぎで指を動かして、返信を打つ。
「プリントの整理をしていました」
 そう書いてから、プリントという言い方は子供っぽいかな……と気になった。授業によってはレジュメと呼んでいる先生もいたり、ハンドアウトと言われるときもあったりして、大学で使われる用語にはいまだに慣れない。
「俺も片づけしないと。油断するとえらいことになるよな」
 私の入力の遅さに比べ、星野先輩からは返信がすぐに来るので、少し焦ってしまう。
「どんなふうに片づけていますか?」
「必要なやつだけスキャンして、データで残してる」
「私は紙のままファイルに分けているのですが、必要かどうかの見極めが難しいです」
「取っておいても、あんまり見返すことってないんだけどな」
 星野先輩のメッセージに、なんと返信しようかと考えていると、言葉がつづいた。
「できれば近いうちにまたデートしたいと思うのだが、予定は?」
「いつでも空いてます」
 星野先輩のお誘いに、私はハートマークをつけて、そう返信した。
「行きたいところある?」
 そう問われても、すぐに思いつくことはできなかった。
「私はどこでも……。星野先輩は、どこか、ありますか?」
「俺もどこでも。暑いしな。映画とかにするか?」
「そうですね」
「俺はなんでもいいから、花宮さんが観たいやつ選んで」
「わかりました」
「じゃあ、また連絡する」
「はい」
 もうすっかり恋人同士という感じだけど、私には少し気になっていることがあった。
 星野先輩、告白してないのでは……。
 あの花火のときに「告白したら、つきあってくれるか?」と問われて、うなずいたものの、ちゃんと「好きだ」と言われたわけではない。
 もちろん、会話の流れから読み取ることはできるし、星野先輩が私のことを好きだというのは十分に伝わっているのだけれども……。
 そこに引っかかってしまうのは、つまり、私は星野先輩から好きと言われたいと思っているということで、そんな自分に甘酸っぱい気持ちになる。
 本当に、恋をしているんだ、私……。
 スマホを持ったまま、どんな映画が公開中なのかを調べてみた。
 デートで行くなら、なにがいいだろう。
 私の好みに合わせてくれると星野先輩は言っていたけれど、どうせなら、ふたりとも楽しめるようなものを選びたい。
 そんなことを考えながら、しばらくネットを見ていると、母が仕事から帰ってきた。
 私は慌ててスマホを置くと、広げたままだったプリントを片づけて、リビングへと急ぐ。
「お帰り。もっと、遅いかと思った」
 母はすでに着替えて、ソファーでくつろいでいた。
「ただいま。ほんとはもう一件、取材があったんだけど、先方の都合で延期になったから。夕飯、なに?」
マーボーを作ろうと思って」
「いいわね。うんと辛くして」
 母の要望どおり、唐辛子を多めにして麻婆茄子を作り、箸休めにきゅうりの酢の物を添えることにした。
 食事をしながら、私は星野先輩とのことを伝えるため、タイミングを見計らう。
 母にも早く伝えたいという気持ちと、照れくさい気持ちが混ざりあって、妙に緊張してしまった。
「えっと、ご報告があります」
 気恥ずかしくて、おどけた口調でそんなふうに切り出す。
「彼氏ができました」
 母は驚いたように眉をあげると、うれしそうな表情を浮かべた。
「そうなの? よかったじゃない!」
 はしゃいだ声でそう言って、身を乗り出してくる。
「だれ? 部活の先輩?」
「うん、星野先輩。花火大会のあと、つきあうことになって……」
「やっぱり、浴衣で大正解だったわね」
 写真は撮りにくいし、足は痛くなるしで、大変な思いをしたけれど、母が言うように結果的にはよかったのかもしれない。
「報告してくれて、ありがとう。娘と恋バナができるって、親みように尽きるわ」
 母は満面の笑みで、こちらを見つめた。
「自分が若いころは、とてもじゃないけれど親に恋愛のことなんて言えなかったのよね。彼氏の存在も必死で隠していたし、初めてのお泊まりも友達と旅行だって噓ついて……。そういう親子関係が嫌だったから、まいがなんでも話してくれると、信頼されてるんだなって実感する」
 たしかに、私は母をだれよりも信頼している。母は私を責めたりしない。絶対に自分の味方だと信じることができるから……。
「親が恋愛を禁じていたり、汚らわしいものだと考えたりしていると、持たなくていい罪悪感を植えつけられて、結局、トラブルが起きたときに、親に頼れなくて、ひとりで苦しむことになるわけ」
 母の言うことは、まさにそのとおりだと思う。
 もし、母となんでも話せる関係でなかったら、あのときも、相談できず、ひとりで悩むことになっただろう……。
「まいが選んだくらいなんだから、いいひとなんでしょう?」
「うん」
「会いたいわ。今度、うちに連れてきなさいよ」
「わかった。伝えておくね」
「ほんと、よかった。まいが幸せそうだと、こっちまでうれしくなる」
 母はしみじみとそう言った。
 私だって、母が幸せそうだと、うれしい。
 だから、母がなるべく長く恋人と幸せでいてほしいと思うのに、いつも別れてしまうから、少しさみしくなる。
「ねえ、ママ、恋人と別れるときって、どうして別れることになるの?」
 私の質問に、母はあきれたように笑った。
「やあねえ、つきあいはじめなのに、なんで、そんなこと気にするのよ」
「だって、想像できなくて……」
 いまはこんなに好きなのに、別れたいと思うときが来るのだろうか。もしくは、あんなに優しい星野先輩も、いつか心変わりして、私のほうが振られてしまったり……。考えただけで、胸が痛くて、涙が出そうになった。
「別れる理由なんて男の数だけあるわよ」
「たとえば?」
「いっしょにいても得られるものがなくなったら、つきあう意味はないでしょう。こちらのニーズが変化して、ほかのひとを好きになってしまうこともあれば、相手の都合で関係をつづけられなくなることもあるし。ほんと、いろいろよね」
 母の経験談はレベルが高すぎて、私にはあまり参考にならない。
 どうすれば、恋人と別れないでいられるのか……。
 もっとも知りたいことを母に尋ねることはできなかった。
「そんなこと、いまから心配しなくていいって」
 私の不安を打ち消そうとするかのように、母は力強い声で言う。
「別れをおそれる必要なんてないの。どんな恋愛も人生の彩りになるのだから。恋の数だけ美しくなれる、別れの数だけ強くなれる、なんてね」
 母の言葉を聞くと、勇気づけられた。
 男性にひどい目に遭わされたのに、私が恋愛に対して希望を失わずにいられたのは、母のおかげだと思う。
 母は強い。傷ついても平気だ、ということを教えてくれる。母を見ていると、私も強くなれそうな気がした。たとえ過去にどんなことがあったにせよ、それを乗り越えて、強い自分になれる……。
 夕食を終えて、お風呂に入ったあと、自分の部屋に戻った。パジャマを着て、ストレッチをしていると、スマホにまた新しいメッセージが届いた。
 私のスマホはずっと静かだったのに、このところ星野先輩とのやりとりで大忙しだ。
「カニは好きか?」
 唐突な質問に、少し戸惑う。
「食べるという意味ですか?」
「そう」
「好きです」
 私が答えると、星野先輩はつづけた。
「いきなりなんだが、明日、うちに来ないか? 親が北海道に旅行中で、カニを送ると言われたので」
 そのメッセージを読んで、私はすぐには返事を打つことができなかった。
「ひとりだと多いし、いっしょに食べよう」
 星野先輩から追加でメッセージが送られてくる。
 返事をしなくては……と思うのに、どうしたらいいか、迷ってしまう。
 男性の家に行く、ということ。
 その危険性を知らないわけじゃない。
 星野先輩はどういうふうに考えているのだろうか。本当に食事だけのつもりなのか、それとも……。
「お昼ごはんですか?」
「そうだな。十二時くらいに駅で待ち合わせでいいか?」
 密室で男性とふたりきりになったら、どうなるか、過去の経験からどうしても考えてしまう。
 逃げたいような気持ちになる。けれど、いつまでもおびえていたくない。
 逃げれば逃げるほど、恐怖は大きくなり、どこまでも追いかけてくるのだ。
 恐怖を克服するためには、たいしなければならない。
 母のように経験を重ねれば、きっと、一度の不快な思いなんて、忘れてしまうことができるだろう。
 私は心を決めて、返事を打った。
「わかりました」
 星野先輩からまたメッセージが来るかと思って、少し待ったけれど、結局、そのままだった。
 スマホを手から離すと、カピバラのぬいぐるみを膝に乗せ、抱きしめる。
 ふかふかの感触に、心がほっとした。
 メッセージのやりとりだけでもまだこんなに緊張するのに、もっと関係を深めるなんて、本当にできるのだろうか……。
 不安は拭いきれないけれど、星野先輩が相手なら、きっと、だいじょうぶだと思う。
 自分の意思で、自分が望んだ相手と、結ばれる……。
 そうすれば、もう、過去にとらわれることもなくなるはず……。

#10-1へつづく
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