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連載

藤野恵美「きみの傷跡」 vol.16

私が男性に興味を持てるほど「回復」したのだと知れば、母も喜んでくれるだろう。そう考えて、私は口を開いた。藤野恵美「きみの傷跡」#8-2

藤野恵美「きみの傷跡」

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      16

 パソコンで音楽を聴きながら、合宿で撮った写真のデータを整理していると、耳にみのある曲が流れてきた。
 あ、この曲……。
 高校に行けなくなって、部屋に引きこもりがちだったころ、よく聴いていたのだ。
 ピアノの美しい旋律に、寄せては返す波のようなリズムは、心地いいのに、どこか不穏なものをはらんでいて、耳を傾けずにはいられない。
 私は作業の手を止め、目を閉じて、全身で音楽を感じることにした。
 何度も聴いたことのある曲なのに、改めて、歌詞のひとつひとつが、心の深いところに響いてくる。
 恋の歌だ。女の子が「好き」という気持ちを自覚して、うれしいのと当時に、悲しみも感じている。だって、だれかとわかりあいたいと願うほど、ひとは本質的に孤独な存在なのだと思い知らされるから……。
 曲を聴いていると、星野先輩のことが思い浮かんだ。
 もう、これ以上、傷つきたくない……。
 恋愛なんて、私には無理だ。
 そう思っているのに、女の子の恋する気持ちに共感してしまう。
 曲に身を委ねていると、嵐に巻きこまれるみたいな感覚になった。
 切ない歌声に心をつかまれて、どんどん落ちていきそうになるけれど、ぎりぎりのところで転調して、雲間から差す光に導かれて天へと昇っていくような感じになる。
 ここ、好き……。
 胸の奥が苦しくて、指先がじんじんとしびれるようになり、まぶたが熱くなった。
 あ、だめ、泣きそう……。
 よくあるテーマの歌詞なのだと思う。普遍的で、だからこそ、きんせんに触れる。素朴な言葉が、心に染みて染みて、たまらない。
 以前に聴いたときより、ずっと深いところまで刺さってくるので、自分でも驚いてしまうほどだ。
 曲が終わったあと、しばらく余韻に浸っていると、部屋のドアをノックする音が響いた。
「まい」
 母の声だ。
「お昼、どうする?」
 私はあわてて目をこすると、返事をした。
「ちょっと待って。いま、作るから」
「忙しいなら、勝手にやっとくけど」
「ううん。いいよ。私が作る」
 今日は母の仕事も休みだから、どこかに出かけようかという話をしていたのだけど、私は夏休みの課題をしなければいけないと断ったのだった。それなのに、課題のための本はまったく読み進められず、ちょっと息抜きと思ってはじめた写真の整理に夢中になっていたので、胸がちくりとする。せめてお昼ごはんくらい、作らないと……。
「おそうめんでいい?」
 部屋から出て、キッチンに向かうと、私は母に声をかけた。
「まいがいてくれて、助かるわ。課題はいいの?」
「うん。まだまだ余裕はあるから」
「そんなこと言ってるうちに、夏休みなんか、あっという間に終わっちゃうんだけどね」
 母とそんな会話をしながら、私は鍋で湯を沸かしつつ、錦糸玉子を作っていく。
 薬味には、みょうがを刻んで、しようをすりおろして……。
「あ、そうだ、桐箱の素麵、使い切っちゃったかも。まいが合宿中に食べたのよ」
 母の声に、桐箱を開けてみると、たしかに空っぽになっていた。
「あと、冷凍庫のベーグルも食べ尽くしたから」
「わかった。注文しておくね」
 ネット通販で購入している冷凍ベーグルは、私と母のお気に入りで、常備しておきたいものリストの上位にある。
 お中元でいただいた桐箱入りの素麵はなくなってしまったけれど、買い置きしておいた特売の素麵があったはず……。
 そう思いながら、パントリーを探して、素麵を見つけ出す。
 素麵だけだと栄養バランスが気になるところなので、ツナ缶を開けて、キャベツを切って、サラダにしよう。
 手早くサラダを作って、素麵をであげ、流水にさらして、最後に氷水で締める。
 昼食の用意ができると、母はうれしそうに薬味に箸を伸ばした。
「いただきまーす」
 みょうがと生姜をたっぷり入れた麵つゆに、素麵を浸して、一気にすすったあと、母はこちらを見て、しみじみと言った。
「ああ、おいしい。やっぱり、薬味があると、ちがうわよね」
「ひとりで食べたときは、薬味、用意しなかったの?」
「だって、面倒なんだもの」
 母は料理ができないわけではないが、おおざつというか、手間をかけないひとなので、茹でた素麵と麵つゆだけの食卓になったりする。それを思うと、母に任せようという気にはなれず、いつも私が作ることになるのだ。
「今度はしいたけのふくめ煮も作っておくから」
 そう言いながら、素麵を一口食べて、私は物足りなさを感じた。
「このお素麵、特売だったから買ってみたけど、いまいちだったね」
 桐箱入りの素麵に比べると、なめらかさに欠ける。つるりとした喉越しを期待するのに、もったりと重い感じがするのだ。それに、香りもあまりよくない。
「そう? こんなものじゃない? たしかに質は劣るかもしれないけど、麵つゆたっぷりつけたら、わからないでしょ」
 母はそう言って、どんどん箸を進める。
 昔から、私は味覚が過敏で、ちょっとしたちがいが気になってしまうのだ。味覚だけじゃない。音や光や匂いなどの刺激にも過敏に反応して、幼いころはすぐに泣いて、母を困らせていた。
 私にとっては自分の感覚が「ふつう」なのだけれど、どうも、ほかのひとに比べると、細かい刺激まで拾いすぎてしまうようだ。
 デジタルカメラで言うと、画素数のちがいみたいなものだろう。解像度は高ければいいというものではない。商業用のポスターとかなら、それなりの解像度が求められるけれど、普段使いのカメラには必要なかったりする。それどころか、情報量が多いと、容量が重くなって、負担がかかるというデメリットもあるのだ。私の感覚も、そんな感じなのだと思う。無駄にセンサーが過敏なせいで、必要以上にたくさんの情報を処理して、疲れてしまう。
「ごちそうさま」
 箸を置いて、母は言う。
「おいしかった。夏はやっぱり素麵よね。そして、食後にはあたたかいお茶があれば最高なんだけど」
 母の言葉に、私は席を立って、キッチンへと向かった。
「緑茶にする? とうちようウーロン茶もあるけど」
「凍頂烏龍茶がいい。お茶請けは?」
「合宿のお土産で買ってきたようかんがまだ残ってるけど」
「あのオレンジの羊羹ね。いいわね、中国茶にも合いそう。ばっちりね」
 湯を沸かしながら、茶器を用意すると、羊羹を切り分けて、小皿に入れた。
 すべすべした焼き物の茶器に、茶葉を入れ、沸騰した湯を注ぐと、すぐに湯を捨てる。中国茶の場合は、一煎目を捨てて、洗茶という作業をすることで、茶葉がしっかりと開き、香りが立ってくるのだ。
 お盆にのせて、茶器を母のところまで運ぶと、茶杯に注いだ。
「うん、いい香り」
 母は茶杯に口をつけ、満足げにうなずく。
 私もお茶を飲んで、羊羹に手を伸ばした。
 黄色いさわやかな色の羊羹は、甘酸っぱくて、オレンジピールの苦味もあって、お茶請けにぴったりだ。
 合宿から帰った日、お土産を渡したあと、母からどうだったかとかれて、カピバラにとても癒されたという話はしたけれど、星野先輩のことはなにも言わなかった。
 自分のなかでも気持ちの整理ができていないから、なにをどんなふうに話せばいいかわからなかったのだ。
「まい」
 母の呼びかけに、私は顔をあげる。
「えっ、なに?」
「このあとも課題をやるの?」
「うん、そのつもり」
「じゃあ、ひとりで買い物に出かけようかな」
「いっしょに行けなくて、ごめんね」
「なにか欲しいものは?」
「うーん、べつに」
「まいって、ほんとに無欲よね」
 欲しいものと言われても、思いつかない。
「こういうとき、上手におねだりできるのが、モテる女ってものなんだけど」
 とても魅力的な笑みを浮かべて、母はそんなことを言った。
 私とは反対に、母は自分の望みをしっかりと主張する。それがモテるけつなのだというのは、わかる気がした。私も、母になにか頼まれると、ちょっとうれしい。わがままに応えて、喜ばせたいという気持ちになるのだ。
 喜ぶといえば……。
 星野先輩のことを話したら、きっと、母は喜ぶだろうな、と思った。
 基本的に、母は恋愛を「良いもの」だと考えている。恋愛の素晴らしさを知り尽くしているからこそ、私が過去の出来事から男性に苦手意識を持っていることを心配して、早く「克服」できるように、たくさんアドバイスをしてくれた。
 私が男性に興味を持てるほど「回復」したのだと知れば、母も喜んでくれるだろう。
 そう考えて、私は口を開いた。
「あのね、合宿のとき……、朝焼けの写真を撮りに行ったの」
 なんだか照れくさいので、私はうつむき、母から目をらして、話をつづける。
「朝の光で海一面がきらきら輝いて、すごく美しい風景に感動していたら、そのとき、いっしょにいた星野先輩のことを見ても、胸がきゅっとなって……。もしかしたら、好きなのかも、って思った」
「えーっ、なに、それ、すごくいい話じゃない! もっと早く教えてよ!」
 思ったとおり、母はものすごい勢いで話題に食いついてきた。
「それで、それで?」
「いや、それだけなんだけどね。まだ、恋愛とか、そういうのは私には無理だと思うし」
「そう? 過去のことなんて、気にする必要ないんだからね。まいの場合、最初に嫌なイメージがついちゃったから、大変だと思うけれど、だからこそ、いい恋愛を知って、幸せになってほしい」
 母の言うことは正論だと思う。
 でも、私は母みたいに強くはなれない。
「どんな男の子なの? 写真とか見せてよ」
 母に言われ、私はスマホを持ってくると、星野先輩の写真を探した。
 何枚かあるうち、朝焼けのときの写真はなんとなく見せたくなくて、写真部のみんなが並んで写っているものを選ぶと、母のほうにむけた。
「この右端のチェックのシャツを着てるのが星野先輩」
「どれどれ。うーん、まあ、真面目そうね」
 母の反応はいまひとつだ。
 星野先輩はまったくもって母が好みそうなタイプの男性ではない。
 母はとにかく有能で、おしやで、自信に満ちあふれた男性が好きなのだ。自分がステップアップするのに合わせて、つきあう男性もどんどん更新していくというのが、母のスタイルなのである。
 一時期、母は自分と釣り合うレベルの男性がまわりにいなくなってしまった、と嘆いていた。けれど、去年の夏にフランスで運命的な出会いをしたらしく、最近は遠距離恋愛を楽しんでいるようだ。
「ママはどうなの? その後、恋人と」
「順調よ」
「また本に書くの?」
「もちろん。フランスってさすがに愛の国だけあって、ロマンチックな男性が多いし、口説き文句も情熱的だし、まさにネタの宝庫なのよね」
 母にとっては恋愛も仕事のうちだ。
 おいしいところを味わって、得られるものがなくなったら、あっさりと別れてしまう。
 それもひとつの恋愛のかたちなのだろうとは思うけれど、自分には絶対にできない生き方だ。
「せっかくなんだから、服、買いに行かない? まいも、そろそろ、可愛い服を着たり、お洒落を楽しんでいいと思うんだけど。恋の気配があるなら、なおさら、ね」
 母の誘いに、私は首を横に振った。
「課題をやらなきゃいけないから」
 私がなるべく目立たないような地味な服装をしていることに対して、母は残念な気持ちでいるようだ。若いのにもったいない、と何度も言われた。
 母は自分のことを「宝石」だと考えている。自分だけでなく、世のすべての女性は宝石のように価値のある存在なのだから、それを持つのにふさわしい男性を恋人にするべきだ、とエッセイに書いていた。
 でも、私は「石ころ」でいい。男性から求められたり、狙われたりしたくない。だれにも気にされず、ひっそりと存在していたい。
「まいに似合いそうな服があったら、買ってきてあげるわね」
 母はそう言い残して、出かけて行った。
 私は洗い物をすると、課題のための読書をつづけることにした。
 法解釈についての哲学的ともいえるような重厚で骨太な文章をごりごりと読み砕いていこうとするけれど、なかなかページが進まない。
 あともう少し頑張ったら、休憩して、おやつを食べていいことにしよう……。
 そんなことを思いながら、どうにか文字を目で追っていると、着信音が響いた。
 スマホに手を伸ばして、確認したところ、星野先輩からメッセージが届いていた。
 花火大会に写真を撮りに行きませんか、というお誘いだった。
 私はスマホを持ったまま、ベッドに腰かけて、少し思案する。
 これ、ふたりだけで……ということなのだろうか。
 そんなふうにも読み取れるし、もしかしたら部活動という可能性もないわけではなかった。
 どうしよう……。
 カピバラのぬいぐるみに手を伸ばして、抱きしめながら、もんもんと悩む。カピバラのぬいぐるみは、ふわふわした感触で、抱きしめていると心が落ちついた。
 傷つくのが、怖い。
 星野先輩のことを好きだという気持ちを認めて、その先に進むことを考えると、足がすくんで、逃げ出したいような気持ちになった。
 でも、逃げていたら、変わることができない……。だから……。
 カピバラのぬいぐるみを膝からおろすと、私は勇気を出して、返信を書いた。

#9-1へつづく
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