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連載

藤野恵美「きみの傷跡」 vol.10

あのとき、部屋に行かなければ。もっと、必死に抵抗していたら。考えはどうしてもループする。藤野恵美「きみの傷跡」#5-2

藤野恵美「きみの傷跡」

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      10

 何度も何度も考えてしまう。
 考えても無駄だとわかっていても、ふと気が緩むと、頭に浮かんでしまうのだ。
 あのとき、どうして部屋に行ってしまったのだろう……。
 時間が巻き戻せるものなら、過去に戻って、やり直したい。いまなら、断りの言葉もたくさん知っている。きっぱりと拒否して、家に帰ることができる。けれども、あのときは……。
 うまく言えなかった。
 適切に対応できなかった自分を思い出すと、悔しくて悔しくて涙がにじんでくる。
 恐怖のあまり、なにも言えず、相手のすがままにされてしまった。
 やめてください、という一言すら口にすることができなかった。
 自分を責めてはいけない。
 それはわかっているのに、考えずにはいられない。
 あのとき、部屋に行かなければ……。
 もっと、必死に抵抗していれば……。
 後悔のループに陥りそうになったので、私は首を横に振り、椅子の背もたれに体をあずけた。
 それから、腕を大きく伸ばすと、拳を強く握り、全身に力を入れて、筋肉を緊張させる。ゆっくりと十まで数えたあと、腕を下げ、ほっと力を抜いて、全身が緩んでいく感覚を味わう。
 負の感情にとらわれそうになったときには「ストレスを緩和するためのリラクセーション法」を行うよう、カウンセラーさんに言われていた。恐怖や不安を感じると、体もこわってしまうので、それをほぐすことで、心をリラックスさせるのだ。実践してみると、たしかに気持ちが落ちついて、思い出したくないことを振り払うことができた。
 目をきつく閉じて、ぱっと開く。
 ここは私の部屋。目の前にはノートパソコンがあって、レポートは書きかけで、後半が真っ白……。
 雑念が浮かぶのは、疲れて、集中力が途切れた証拠だ。
 よし、休憩しよう。
 レポートはまだ途中だけど、気分転換をすることに決めた。
 自分の部屋から出て、キッチンに向かうと、母がリビングで原稿を書いていた。
「コーヒー飲むけど、ママは?」
 私が声をかけると、母はキーボードを打つ手を休めることなく答えた。
「飲む!」
 リズミカルなタイピング音を耳にして、ただただ、すごいなあと思う。
 私なんて、レポートがなかなか進まず、一行を書いては消し、書いては消しを繰り返しているのに……。
「ラテにするよ?」
「なんでもいい」
 母の返事を聞いて、私は大きめのカップをふたつ用意した。
 エスプレッソマシンにコーヒー豆を詰め、ミルクピッチャーに牛乳を入れて、フォームドミルクを作る。エスプレッソを抽出したら、高い位置からフォームドミルクを中心に向かってゆっくりと注ぐ。エスプレッソの表面が、クレマと呼ばれるきめ細かなミルクの泡で覆われる。私はマグを傾け、ミルクピッチャーを近づけて、ミルクの対流を利用して、ハートを描く。
 うん、可愛くできた。
 一時期、ラテアートに凝っていて、何度となく練習したので、シンプルなハートなら、ほとんど失敗することはない。
 高校に行かなくなったあと、母は「好きなことをすればいいわよ。いまの時代、好きを極めれば仕事になるんだから」と言った。ラテアートに興味を持ったときには、いろんな店に連れて行ってくれて、バリスタという職業があることを教えてくれたのだ。結局、飲食店で働くのはハードルが高くて、仕事にはつながらなかったけれど、自己流でもそこそこのレベルまでは上達できた。
 ほかの子たちが学校に通っているあいだ、自分はなにもしていない……。
 みんなとおなじような高校生活を送ることが、自分にはできなかった……。
 そんなふうに思って、たまに落ちこみそうになる。でも、その時間に身につけたことがあると考えることで、前向きな気持ちになれた。ちょっとした特技が、私にささやかな自信を与えてくれる。
 もうひとつには、リーフを描くことにした。ミルクピッチャーを左右に揺らしながら、茶色と白のマーブル模様を浮かびあがらせる。そのあと、カップの中心を通るように端から端まで細いミルクを垂らして、リーフのかたちを作っていく。
 こっちはちょっと、失敗だ。
 全体的にぼやけてしまって、葉っぱのかたちには見えない。
 でも、せっかくなので、いちおう写真を撮っておこう。
 部屋からカメラを持ってきて、真上から撮影したあと、斜めからも撮ってみた。ラテアートの絵柄がわかりやすいのは真上から撮ったときだけど、写真としては角度をつけたほうが立体感があっていい気がする。
 でも、どちらにしろ、写真としては魅力がなく、いまいちという印象だ。明るさがなくて、実物の可愛さや、湯気の立っているあたたかな感じが、ちっとも写せていない。
 マクロレンズだったら、もっとうまく撮れたかもしれないけど……。
 先日の新歓撮影会で、星野先輩からマクロレンズを借りて、至近距離から薔薇を写したときは、すごく楽しかった。花びらについた水滴の透明感は美しく、黄色い花粉の発色の良さにうっとりして、背景のやわらかなボケに感動して、夢中でシャッターを切ったのだった。
 写真部のひとたちは、撮影会のあとだけでなく、普段から写真を共有のところにアップしている。
 私もラテアートの写真をアップしようかなと思ったけれど、そんなにいい出来じゃないので、やめておくことにした。
「できたよ」
 カップを運び、ハートのほうを母のそばに置く。
「ありがと」
 母はノートパソコンの画面に目を向けたまま、カップに手を伸ばすと、ごくごくと一気飲みした。
 せっかくのラテアートには気づいてもらえなかったようだ。
 ちょっとがっかりしつつ、私は自分のカップに口をつける。ブラックコーヒーは苦手だけど、ラテにはミルクの甘みがあるから、砂糖を入れなくても、おいしく飲める。
「よしっ、終わった」
 キーボードを強く打ったあと、母は手を止めて、こちらを見た。
「お疲れさま」
 私が言うと、母はノートパソコンを閉じて、大きく伸びをした。
「そっちは? レポート、やってたんでしょう?」
「まだ終わっていません、しくしく……」
 おどけて泣きをすると、母は笑った。
「手伝ってあげようか?」
「いいよいいよ、自力でやるから」
「少年院見学のレポートだっけ?」
「そう。どんなふうにまとめたらいいか、迷って……」
 大学の授業で少年院を見学に行ったのだけど、その経験をまだ消化できずにいた。
 私たちが訪れたのは女子少年院で、いわゆる監獄というイメージの建物ではなく、学生寮みたいなところだった。四人部屋の和室は、古びていながらも、清潔感があった。広々とした中庭には花が咲き、野菜も植えられていた。
 荷物をロッカーに預け、施設を見学したあと、少年院の職員から施設における取り組みなどについての説明があり、質疑応答となった。
 見学している最中、私には違和感があった。いっしょに見学をしているひとたちが発する気配やちょっとした一言に、引っかかりを感じたのだ。
 そして、質疑応答のときに、その違和感がどこから来るのか気づいた。
 真っ先にあがった質問は「仕事のやりがい」についてだった。
 そう、教授もあらかじめ言っていたのだ。法学の徒として、家庭裁判所で審判を受けた者がどのような場所に送られるのか知っておく必要がある、と……。
 いっしょに少年院を訪れたひとたちが行っていたのは、まさに「見学」だった。知識を得るために、見ている。それは共感性のないまなざしのように思えて、胸の奥がもやもやしたのだ。自分たちは試験を受けて、職員として少年院で働く立場になるかもしれない。けれども、少年院に収容されているひとたちとのあいだには、くっきりと線を引いているようだった。
 でも、私は身をもつて知っている。
 どんな人間だって、被害者にも加害者にもなり得る可能性があるのだと……。
「まーた、まいの考えすぎの癖が出てるんでしょ」
 母に言われて、私は苦笑を浮かべる。
「考えすぎって言われたら、そうかもしれないけど……。でも、レポートは自分の考えを書くものだし」
「えー? 大学のレポートなんて、テンプレにそって、ちゃちゃっと書いちゃえばいいじゃない」
「もう、ママってば。すぐ、そういうことを言う」
 真面目な考え方をする私に、母が茶化すようなことを言うのが、我が家でよくある会話の流れだ。
 私と母の性格は、真反対と言っていいほど似ていない。
 母の言うとおり、私は何事も重く受け取って、考えすぎる傾向がある。一方、母は細かいことに動じず、楽観的だ。そのメンタルの強さは、憧れつつも、真似できない。
「あのね、今度……」
 ちょうどいいタイミングなので、頭を悩ませているもうひとつの件についても、母に相談してみることにした。
「写真部で合宿があって、夏休みに泊まりがけで海に行くみたいなんだけど、どう思う?」
「いいじゃない。楽しそう」
 母は明るい口調で答えた。
「でも、海だよ? 水着とか、無理だし……」
「ああ、そっか。まだ気にしてるのね」
 こういう能天気ともいえるようなところが、はがねのメンタルの持ち主と称される所以ゆえんだろう。
 私の身になにが起きたか、どうも、母はけろりと忘れていたというか、気に留めていなかったようである。
 たぶん、母ならたとえ過去になにがあったとしても、水着になり、堂々と肌を見せることができるのだと思う。
 私が「考えすぎ」なだけだろうか。
 けれど、どうしても身構えてしまう。
「気乗りしないなら、行くのやめたら?」
 母はそう言って、私の顔をのぞきこんだ。
 私が高校に行けなくなったときも、母はあっさりと「つらいなら、やめちゃえば?」と言ったのだった。
 母の辞書には「迷い」とか「悩み」とかいう言葉がないようなのだ。自信に満ちあふれ、即断即決で、思うままに人生を切り開いてきた。
「でも……、行きたいっていう気持ちもあって……」
「そうなのね。どこ行くの?」
「場所はまだ決まってないけど、海水浴をするのは確定みたい。でも、泳ぎたくないひとは、別行動でもいいって」
「泊まりなのよね」
「うん。椿つばき先輩もいるし、不安になる必要はないと思うんだけど……」
「たまにタチの悪いサークルがあるって聞くもんね。でも、まいの入ったところは地味って言ったらあれだけど、写真を撮ることが目的のちゃんとしたサークルみたいだけど。メンバー的にはどうなの? 要注意人物はいる?」
 私は即座に首を横に振った。
「ううん。写真部の先輩たちは、みんな、いいひとたちだし、そういうことを心配しているわけじゃない」
 男性だというだけで犯罪者予備軍みたいな扱いをするのは、いくらなんでも失礼だということはわかっている。
 写真部の先輩たちを疑っていたり、信用していなかったりするわけではないのだ。
「それなら、だいじょうぶなんじゃない?」
 私を勇気づけるように、母はにっこりと笑った。
 美しい笑顔だ。口角は左右対称にあがり、三日月のようなかたちに白い歯がちらりと見え、輝かんばかりである。
 母の笑顔が好きなのに、私はこれまで満足のいく写真を一枚も撮れたことがなかった。
 母はプロなので、表情筋をコントロールすることに慣れており、うまく撮られるためのテクニックを研究し尽くしている。だからこそ、私が自分らしい切り口で、母の魅力を伝える写真を撮るのは難しい。
「泊まりがけの旅行ができた、っていうのも、またひとつの成功体験になると思うし。せっかくの人生なんだから、楽しまなくちゃね。いつまでもおびえて、閉じこもっているのは、もったいないもの。楽しい経験で、どんどん上書きしていきましょ」
 母の意見を聞いていると、私もなんだかチャレンジできそうな気持ちになってきた。
「そうだよね。私、大学に通うことで、いろいろと自信もついてきたし、旅行もきっと、いい経験になると思う」
「うんうん。大学のみんなと海に行くなんて、いいわねえ、青春って感じで。それで、逆に、好きになれそうな相手とかはどうなの?」
 母の問いかけに、私は考える。
 逆に、というのは、要注意人物とは反対の存在、ということだろう。
 好きになれそうな相手……。
 写真部にはおなじ新入生の男子もいるけれど、私とは学部もちがうし、いつも三人でかたまってしやべっているので、輪に入りにくい。
 なにかと会話をする機会が多いのは、星野先輩とささがわ先輩で、ふたりとも親切なひとだとは思うけれども、恋愛感情を抱くというのは想像がしにくかった。
「わかんない。そもそも、好きって気持ちが、よくわかんないし」
「焦らなくていいわよ。こういうのって結局は巡り合わせだから。だいたい、恋愛なんてこう品みたいなもので、だれもが楽しめるわけじゃないし。そのときが来れば、自然とそうなるものよ」
 母はそう言って、余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「恋愛に限らず、料理でも音楽でも洋服でも、自分の『いいな』『好きだな』『素敵だな』って感性を大切にすること。それが、いい恋愛にもつながっていくから」
 恋愛指南本を出しているだけあって、母の言葉は心に響く。
 母は恋愛の達人であり、その道において百戦錬磨らしい。
 けれど、私は思わずにはいられない。
 それならどうして、私の父だという相手と別れてしまったのだろう……。
 たくさんの愛を得ることより、ひとりを愛しつづけることのほうが、私には価値があることのように思えた。
 もちろん、母の人生を否定するつもりはないが……。
 私と母の考え方は、まったくちがう。
 母とはなんでも話せる関係だ。
 あのときも、私は自分の身に起こったことをすぐに相談することができた。被害に遭ったことを親に打ち明けられないひとも多いようで、その苦しみを思うと、母に話せてよかったとつくづく思う。
 母はだれよりも、私のことを考えてくれている。
 けれど、やっぱり、わかりあえないところも多くて、ときどき、孤独を感じるのだった。

#6-1へつづく
◎第 5 回全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年1月号


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