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連載

藤野恵美「きみの傷跡」 vol.8

たった一度の、あんなことのせいで。男性のとなりではどうしても身体が硬くなる。 藤野恵美「きみの傷跡」#4-2

藤野恵美「きみの傷跡」

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      8

 朝のホームは混み合う。
 大学に通う生活にも慣れてきたけれど、満員電車だけは苦手なままだ。
 電車を降りたあと、改札に向かうまではとても混雑している。ひとの波に押し流されるようにして、かばんをぶつけられたり、足を蹴られたりしながら、どうにか改札を抜け、大学への道を急ぐ。
 大学の敷地に入ると、マスクを外した。
 私はどうも嗅覚が敏感すぎるらしく、ひととの距離が近いと、体臭などで気持ち悪くなってしまうのだ。だから、電車に乗るときにはマスクが欠かせない。
 それでも、女性専用車両というものがあるおかげで、必要以上に緊張しなくて済むので助かっていた。
 大学という空間は、広々としていて、気持ちがいい。電車の混雑ぶりに朝からすでに疲れ気味だったが、青空を見あげながらいしだたみの道を歩いていると、だんだんと気力が回復してきた。
 場所には不思議なエネルギーのようなものがある。特にわかりやすいのが神社で、鎮守のもりと呼ばれる森林にいると、とても心が落ちつく。
 私の場合、ひとの多いところではエネルギーを奪われてぐったりしてしまうけれど、自然の多いところにいるとそれを回復することができた。
 本来の自分でいられる場所。
 大学のなかにも、そんなスポットがいくつかあった。正門を入ってすぐの石畳の道、図書館の二階の端にある窓際の席、第一体育館の裏にある藤棚、二号館にある半円アーチの通り抜け、噴水池のそばの花壇、銀杏いちよう並木にあるベンチ……。
 お昼休みにお弁当を食べる場所を探しがてら、大学の敷地内を散策するのが、入学以来、私のひそかな楽しみだ。
 しず姉ちゃんから聞いていたとおり、大学での生活は高校生のころに比べると、とても自由で、過ごしやすかった。自分が選んだ授業の教室に行き、つぎの時間にはまたべつの教室へと移動する。
 午前中の講義を受けたあと、今日も私はひとり、大学をうろうろと歩きまわることにした。
 テニスコートの近くにある手洗い場に行き、銀色の蛇口をひねる。乾いたコンクリートの流しに、透明の水が波打ちながら流れていく。流れる水に、両手を差し入れる。今日は暑いから、冷たい水の感触が心地いい。
 水を止めて、ハンカチで手を拭くと、お弁当と水筒と教科書とカメラが入ったトートバッグを肩にかけ、また歩き出す。
 さすがに日差しがきつすぎるので、お弁当を食べるのは、木陰のベンチにしよう。そう考えて、七号館の裏手にまわったところ、知っているひとを見つけた。
 星野先輩だ。
 木陰にある石のベンチに座って、文庫本を読んでいる。
 そのひざの上に、猫がいた。
 たぶん、新歓コンパのときに見かけたのとおなじ猫だ。
 気がつくと、私はカメラを構えて、シャッターを切っていた。
 その音に気づいて、星野先輩が顔をあげる。
「あ、花宮さん」
「先輩、動かないでください」
 立ちあがろうとした星野先輩を制して、私はもう一度、シャッターを切る。
 まるまっている猫のアップ。
 目を閉じて、前脚を重ねて、しつはくるんと体に沿わせて、全身から力が抜けている。結構おでぶちゃんの猫なので、首まわりの肉がたるんで二重になっており、そこがなんともキュートで、うずうずしてしまう。
 うう、触りたい……。
 でも、でたら、嫌がるだろうな……。逃げられちゃうかも……。せっかく気持ちよくお昼寝しているのに、邪魔をしては申し訳ない……。でも、あのふわふわの毛並み。もふもふしたい……。
 そんなことを考えながら、角度を変えて、また一枚撮って、カメラを下ろす。
「ありがとうございます」
 星野先輩は文庫本を持ったまま、両手を上にあげ、ホールドアップのようなポーズを取っていた。自分の手が、猫の写真に写りこまないよう、気を遣ってくれたのだろう。
「この猫って、新歓コンパのときにも、星野先輩の膝に乗っていた子ですよね」
 私が言うと、星野先輩は困ったような表情を浮かべ、手をさげた。
「ああ。どうやら、俺のことをちょうどいいクッションだと思っているらしい」
「すごく慣れていますよね」
「重いし、暑いし、こっちとしてはいい迷惑なんだが」
「先輩は、猫、好きじゃないんですか?」
「まあ、嫌いではないが、そんなに好きというわけでも……」
「私なんて、猫、大好きなのに、なかなか近づかせてもらえなくて、撫でることもできませんよ。こんなふうに膝に乗ってもらえるなんて、うらやましい限りです」
「乗せてみる?」
 星野先輩はそう言って、自分の横のスペースに目を向けた。そこに座ることを促されているのだろう。
 私はほんの少し気後れして、逃げ出したい気分になった。
 けれど、男性の近くだということはあまり意識しないようにして、平静を保って、星野先輩のとなりに座った。
「猫、こっちのほうが寝心地よさそうだぞ」
 そんなことを言いながら、星野先輩は猫を持ちあげ、私の膝へと移動させる。
 あたたかくてずっしりとした感覚が膝の上に伝わったかと思うと、すぐに猫はそこから飛び降りて、植えこみのほうへと走って行ってしまった。
「なんで行くんだよ。俺なんかより、女子の膝の上のほうが絶対にいいと思うのに」
 猫が走り去ったほうを見ながら、星野先輩がげんな顔をして言う。
「あの、先輩、すみません、邪魔しちゃって……」
「いやいや、全然」
 ベンチに並んで座ったまま、私たちは話す。
 ここはひらけた場所だし、ふたりきりというわけでもなく、人通りもあるのだから、そんなに緊張する必要はない……。そう思うのに、どうしても身体からだが硬くなる。
 でも、これはちょうどいい機会かもしれない。
 自分がどれくらい回復しているのか。男性とほとんど接することなく生活していたころは、まったくわからなかった。
 これから一生、男性を避けて生きていくことなんてできない。
 だから、少しずつ、慣れていこうと思っている。
 いま、星野先輩のとなりに座っていて、ふたりのあいだの距離は二十センチというところだろうか。これくらい接近すると、さすがに全身が警戒モードになってしまう。でも、どうしても耐えられないとか、フラッシュバックが起きるとかいうことはない。
「これから、昼?」
 私のトートバッグに目を向けて、星野先輩が尋ねた。
「はい、お弁当を食べる場所を探していて」
「俺、もう昼は済ませたけど、よかったら、気にせず、食べて」
 私はお弁当箱を取り出して、ふたを開けた。
 星野先輩の視線の動きから、お弁当の中身をチェックされているのが伝わってくる。
 うう、嫌だなあ。すごく手抜きのお弁当だし、あんまり見られると、恥ずかしいのだけど……。
「猫に好かれるけつって、なんなんでしょう?」
 私が質問すると、星野先輩はこちらから視線を外して、さっき猫が走って行ったほうを向いた。
「笹川が言うには、俺は無関心なところがいいらしい。猫は基本的に自分の意に反して構われるのが好きじゃないから、テンション高く近づいていくと逃げるって」
「それ、まさに私のことです。猫が好きすぎて、テンションあがってしまうから、カメラを構えても、たいてい逃げられます」
「笹川も、猫の写真を撮るときには気のないそぶりをして、それとなく近づくテクニックが必要だって言ってたな」
「難しいですね。可愛いと、つい、見ちゃうし、触りたくなっちゃいますし」
「だよなあ」
 そう言って、星野先輩はまたこちらをじっと見つめてくる。
 お弁当はまだ半分くらい残っていた。
 星野先輩の視線は気にしないようにして、私はひたすら箸を動かす。
「夏の合宿、今年はどこになると思いますか?」
 無言で食べているのも気まずいので、私はそう質問してみる。
 このあいだの写真部の定例会では、いろんな案が出たものの、結局、決まらなくて、次回に持ち越しになった。
「どうだろうな。沖縄の離島って案は捨てがたいが、予算のことを考えると難しいだろうし、あたりが妥当なところかもな」
「どちらにしろ、海になる可能性が高そうですよね……」
「海は嫌なのか?」
 私の声の響きから否定的なニュアンスを感じ取ったのか、星野先輩はそう問いかける。
「あんまり、海には入りたくなくて……」
 泳げないわけじゃないけれど、水着になりたくないのだ。露出の多いすがたで男性の視線を感じてしまうことには、耐えられそうにない。
「みなさんが海で泳いでいるあいだ、ほかのところで写真を撮ったりしていてもいいですよね?」
「ああ、自由参加なんだし、好きにしていいから。椿先輩とかも日焼けを気にして、海にはほとんど入ってなかったし。せっかく海に行くのに、泳がないのは、もったいない気もするけど」
 本当は、私だって海に入りたい。
 泳ぐのは好きだ。
 でも、まだ、そこまでは……。
 急に強い感情がこみあげてきて、涙がこぼれそうになった。悲しさと、怒り。れいな海に行っても、泳げないのだと思うと、どうしようもなく悲しかった。そして、それが高校時代の理不尽な出来事のせいだと考えて、猛烈に腹が立つ。悔しい。たった一度の、あんなことのせいで、いまだに私は行動を制限されているなんて、悔しくてたまらない。
 まさか、この会話の流れでここまで感情を動かされるとは思わなかったから、自分でも驚く。
「花宮さん? どうかした?」
 お弁当を食べる手を止めて、固まってしまった私に、星野先輩は心配そうな声で言った。
「いえ、合宿、楽しみだなと思って」
 その言葉は、うそじゃない。
 合宿のことは楽しみで、自分がそれを楽しみだと思えることが、うれしい。けれど、楽しみだと思うのとおなじくらい、警戒をしなければならないのでストレスも感じてしまう。
「その前にテストがあるわけだが……。テスト対策はどう? ノートとか過去問とか必要なら言って」
「ありがとうございます。論述が大変だと聞くので、いまからドキドキしています」
 私は最後に残しておいたプチトマトを食べて、お弁当箱をトートバッグに仕舞った。それから、水筒を取り出して、お茶を飲む。
 星野先輩もペットボトルに口をつけたあと、こちらをのぞきこんだ。
「花宮さんは真面目に授業も出ているみたいだし、そんなに心配しなくてもいいと思うが。でも、不安なら、教えられそうなところは教えるから」
 星野先輩は親切だ。
 でも、甘えるわけにはいかない。私はもう子供じゃないから、男性の優しさの裏側にどのような思惑があるのかを想像できる。
 あのとき……。
 男性がどんなふうにひようへんするのかということを知っていれば、私は被害に遭わずに済んだかもしれない。少なくとも、相手を簡単に信じて、ついていくことはなかっただろう。
 でも、無知だった。
 そこに付け込まれた……。
 いつ、牙をくか、わからない。
 そんな男性という生き物が、いま、となりにいるのだと思うと、鳥肌が立った。
 そろそろ、限界かもしれない。
 私はトートバッグを肩にかけ、ベンチから立ちあがる。
「もう行きますね。次の授業の準備とかしなくちゃいけないので」
「ああ、また」
 星野先輩はひらひらと手を振って、私を見送る。
 ベンチから離れて、まっすぐ歩いているあいだも、背中に視線を感じた。
 角を曲がったところで、私はふうっと息を吐く。
 疲れた……。
 ずっと気を張っていたので、ものすごくエネルギーを消耗してしまった。
 けれども、やり遂げたという充実感もあった。
 大学生活がスタートしてから、私はいろんなことをうまくやれていた。たくさんの学生がいる教室で授業を受けることができているし、部活に入って男性の先輩とも親しくなり、ふつうの女の子みたいに振る舞えている。少なくとも、はたにはおかしなところはなかったはずだ。
 でも、本当は、わかっている。
 まだまだ、元どおりには程遠い。
 だって、水着になることもできないんだから……。

#5-1へつづく
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