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連載

藤野恵美「きみの傷跡」 vol.20

キスしたときは、平気だった。でも、押し倒されたそのあとは……。藤野恵美「きみの傷跡」#10-2

藤野恵美「きみの傷跡」

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      20

 キスしたときは、平気だった。
 でも、そのあと……。
 仰向けになり、背中が床についた瞬間、電流のようなものが走り、ショートする感覚があった。切断される。神経がつながらない。凍りつく。体が動かせない。固まる。心臓が潰れそう。息ができない。落ちていく。しびれる。血流がおかしい。音が聞こえない。意識が遠くなる。
 消えたい……。
 濁流のような感情に、自分ではどうしようもなくなる。
 このまま、消えてしまいたい……。
 星野先輩の体が離れたあとも、私はしばらく動くことができなかった。
 フラッシュバックだ。
 頭では理解できている。過去の感覚を再体験しているだけで、本当は感じる必要のない恐怖だということも……。わかってはいるのに、感情が渦巻き、飲みこまれる。
「ごめん! そんなつもりでは……」
 焦った声で、星野先輩は言う。
 だいじょうぶです。
 気にしないでください。
 答えようとするのに、喉がひりついて、声が出せない。
 星野先輩を困らせていると思うと、申し訳ない気持ちになった。
 好きなのに……。
 どうして……。
 こんなふうに反応してしまうことが悔しくて、情けなくて……。
 放心状態のまま、星野先輩の部屋を出て、家に帰った。
 母は仕事に出かけており、家にはいなかった。私はひとり、リビングのソファーに腰かけて、ぼんやりとテレビを眺める。べつに見たい番組があるわけではなく、ただ静けさを消すために、テレビの音声を流しておきたかった。
 内容はまったく頭に入ってこない。テレビの向こう側で楽しそうに会話をしているひとたちを見つめながら、すっと心が体からずれて、遠く離れていく感じがした。
 自分を取り巻く世界がいろせたように見えて、現実感がなくなる……。
 この感覚、久しぶりだ。
 最近では、すっかり感じることはなくなっていたけれど……。
 もう回復したつもりだったけど、傷はえてはいなかった。それを思い知らされて、打ちのめされる。たった一度の出来事に、いまだに苦しめられているなんて……。
 ソファーの上で膝を抱えて座り、そのままうつむいて、目をきつく閉じる。まぶたが熱くなって、涙がにじんできた。
 星野先輩にメッセージを送ったほうがいいとも思うのだけれど、なにをどう伝えたらいいのか、考えがまとまらない。
 自分の気持ちをわかってほしい。でも、過去のことは知られたくない……。
 そこに、着信音が響いた。
 星野先輩からのメッセージかと思って、バッグからスマホを取り出す。
 けれど、相手は星野先輩ではなく、しずねえちゃんだった。
「今日、家に行ってもいい?」
 私はすぐに返事を打つ。
「うん、いいよー」
「わーい。カレンさんにも連絡しとくね」
 スマホを手に持ったままでいると、また着信音が響いた。
 今度こそ星野先輩かと思ったのだけど、画面に表示されたのは母からのメッセージだった。
「しずちゃん、来るんでしょう? ちょうどよかった。夕飯、食べて帰るから」
 母に返事を書いたあと、私は星野先輩へのメッセージを打つことにした。
 来るかどうかわからない連絡を待っていても、やきもきするだけだ。
 こちらから送れば、きっと、星野先輩も返事をくれるはず……。
「今日はありがとうございました。カニ丼、おいしかったです!」
 何事もなかったかのように、明るい調子でメッセージを送ってみる。
 しばらくスマホを持ったままでいたけれど、メッセージは既読にもならなかった。
 返事を待つのって、つらい……。
 星野先輩とつきあうようになって、メッセージのやりとりが多くなり、楽しいと思っていた。でも、こうやって連絡を待っている時間は、とても心に負担がかかる。
 星野先輩のことを好きになればなるほど、嫌われたくなくて、不安になって……。
 やっぱり、私にはまだ恋愛なんて無理だったのかもしれない。
 でも、たとえ、そうなのだとしても、自覚してしまった気持ちはもうどうしようもなかった。いまさら、星野先輩のことを好きだと思っていなかった自分には戻れない。胸のなかに、好きという気持ちがしっかりと存在している。それはどんどん大きくなって、手に負えないほどで……。
 私は軽く頭を左右に振ると、ソファーから立ちあがった。
 思い悩んでいても仕方がない。
 ご飯の支度をしよう。
 スマホを置いて、キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
 今日の夕飯は、ミネストローネとサーモンのムニエルにしようと思っていた。玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、、パプリカ、セロリをひたすら切っていく。食材を細かく刻んでいると、無心になることができた。
 鍋にオリーブオイルを入れ、ベーコンをいためて、角切りにした野菜を入れたあと、水を注ぐ。トマトピューレを加えて、ことこと煮込んでいると、インターフォンが鳴った。
 しず姉ちゃんが来たので、玄関ドアを開けて、出迎える。
「うーん、いい匂い」
 鼻をくんくんさせて、しず姉ちゃんはキッチンのほうに目を向けた。
「パスタ?」
「ミネストローネ。フリッジを入れて、スープパスタにすることもできるよ」
「じゃあ、ぜひ、それで。カレンさん、今日、遅いんだってね」
「うん、夕飯もいらないって。しず姉ちゃんが来てくれて、よかったよ。サーモンのムニエルもあるから」
「まいのところって、いつもお洒落しやれなもの、食べてるよね」
「そうかな。ふつうにみそ汁とかも作るけど」
「うちの母にも見習ってほしい。まいは大学の勉強もあるのに、料理もしっかり作ってるわけでしょう。あのひと、専業主婦なのに手抜きばっかりだし。せめて、パートにでも出ればいいのに」
 しず姉ちゃんは、最近、よく親に対する不満を漏らす。どうも、大学院に進みたいという希望を聞き入れてもらえなくて、関係がこじれているみたいだ。
 今日、うちに来たのも、その問題でめて、家を出てきたのかもしれない。
「しず姉ちゃん、おなか、空いてる?」
 鍋のふたを開け、ミネストローネの火の通り具合を確認しながら、しず姉ちゃんにく。
「サーモン、もう焼いちゃっていい?」
「うん、焼いちゃって。おなか、ぺこぺこ」
 できあがった料理をテーブルに並べると、しず姉ちゃんは待ちきれないという様子で、スプーンに手を伸ばした。
「いただきまーす。うん、おいしい! あ、そうそう、カレンさんから聞いたんだけど、彼氏、できたんだって? 今日もデートだったんでしょう?」
 ぱくぱくと食べながら、しず姉ちゃんは矢継ぎ早に質問をしてくる。
「星野先輩って、新歓で猫を膝に乗っけていたひとだっけ? どう? いい感じ?」
「うん、まあ……。でも、ちょっと、悩んでることもあって……」
「悩みって?」
「いろいろと……。わかってもらいたいけど、知られたくないっていうか。過去のこと、話したほうがいいのか、とか……」
 皿の上のサーモンに視線を落として、私は口ごもる。
「うーん、そこは難しいところだよね」
 言いたいことは伝わったようで、しず姉ちゃんは軽くうなずいた。
「でも、この先もちゃんとつきあっていくつもりなら、本当のことを打ち明けておいたほうがいいんじゃない?」
「そうかな……」
「カレンさんなら、黙っておくべきだと言うだろうけどね」
「うん、そうなんだよ。だから、しず姉ちゃんの意見を聞きたいなと思って」
 女性はミステリアスなほうがモテると、母は主張している。心のうちをすべて明かしたりせず、魅力的な部分だけを見せて、相手をきつけるのが母のやり方だ。
 母ならば、自分の不都合な過去は話さず、相手に余計な心労をかけないのが思いやりだと考えるだろうし、秘密を墓場まで持っていくことができると思う。
 でも、私は……。
「まいにとっては、隠し事がある状態で相手と親しくなるというのは、精神的な負担が大きくて、ストレスになるんじゃないかな。手軽な恋愛経験ではなく、まいは魂の結びつきみたいなものを求めているでしょう? だから、自分の心をすべてさらけ出せないことに悩むわけで」
 しず姉ちゃんの言葉によって、もやもやの向こうにあったものが、はっきりと浮かびあがってきた。
 その洞察力の鋭さに、感嘆せずにはいられない。
「そうなの、まさに、そういうこと。どうして、私の気持ち、そこまでわかるの?」
「まいとは長いつきあいだからね」
 そう言って、しず姉ちゃんは優しく微笑ほほえんだ。
「もし、過去のことを知って、それを受け入れられないような男なら、つきあう価値はないと思う。でも、まいがそんなふうに割り切れるかというと微妙だよね」
「うん……。わかってもらいたいけど、知られたくないっていうのは、つまり、どう思われるか不安で、嫌われたくないということで……」
「黙っておくか、打ち明けるか。どちらを選んでも、それなりに苦しさはあるわけで、ジレンマだね」
 しず姉ちゃんの言葉に、私はうなずく。
 相談したからといって、答えがもらえるわけじゃない。自分で結論を出すしかないということはわかっている。それでも、こうして会話をしていると、気持ちが軽くなるようだった。
「しず姉ちゃんのほうはどうなの? 彼氏さんと」
 去年のクリスマスの時期に、しず姉ちゃんはデートだと話していて、彼氏がいることを知ったのだった。
「ああ、あれ、とっくに別れた」
「えっ、どうして?」
「つきあってみて、はっきりしたのよ。自分には恋愛は必要ない、って」
 軽く肩をすくめると、しず姉ちゃんはくつたくのない口調で言った。
「恋愛に関する事柄について、食わず嫌いというか、一度も経験しないで、いらないと決めつけちゃうのもよくないかなと思ったから、いちおう、つきあってみたのね。で、結果、やっぱり、自分は他者に恋愛感情を抱くことのない人間なんだ、ということを確認できた」
「そうなの?」
 私が驚いていると、しず姉ちゃんはサーモンを口に運んでうなずく。
「でも、しず姉ちゃん、ママのエッセイとか、楽しんで読んでるよね……?」
 しず姉ちゃんと母はよく恋愛の話題で盛りあがっていたので、そんなふうに考えていたなんて思いもしなかった。
「カレンさんの本は、すごく面白いよ。あれって、心理学の研究書みたいなものだし。カレンさんが書いているとおりにしたら、まさに入れ食いというか、ほいほい男が釣れて、すさまじいなと思った」
 実のところ、私はあまり母の著作の熱心な読者ではない。自分のもっとも身近な人間の内面が赤裸々に描かれているものを読むのは気恥ずかしいという思いもあるし、恋愛の駆け引きを楽しむようなところに共感できないという理由もあった。
「カレンさんとは、本質的なところが似てるんだよね」
 食事の手を止めて、しず姉ちゃんは話す。
「男に依存しない、という点でおなじなんだと思う。カレンさんは恋愛以外のところで自分をしっかりと持っているでしょう。だからこそ、恋愛を結婚のための手段でなく、娯楽として楽しむことができる」
「ママはよく恋愛はこうひんだって言っているもんね」
「そうそう、嗜好品だから、好きなひとは楽しめばいいと思うけど、興味のない人間もいるわけで。女子はみんなスイーツ好きと決めつけられても迷惑みたいな感じ。デートするのも時間の無駄としか思えなくて。将来、結婚するつもりもないし、自分の人生に恋愛って邪魔なんだよね」
 しず姉ちゃんはきっぱりとそう言い切ると、また食事をつづけた。
「なんとなく、わかるような気もする。しず姉ちゃんらしいというか」
 私が言うと、しず姉ちゃんはうれしそうに笑った。
「でしょう。イッツ・マイ・ライフなわけよ。なのに、うちの親ときたら、多様な生き方を認めてくれないんだよね。院に進んだら、就職も厳しくなるし、結婚できなくなって、出産のタイミングも逃すとか、偏った意見を押しつけてきて。そんなの微塵も望んでいないのに。いつの時代の話だっていうの、まったく」
 しず姉ちゃんはうんざりとしたような声で話す。
 そのとき、着信音が響いて、私はスマホへと目を向けた。
 星野先輩からかもしれない……と思ったけれど、いまは食事中だし会話を遮ってスマホをチェックするわけにもいかないので、手を伸ばすことはしない。
 すると、しず姉ちゃんが苦笑を浮かべて、スマホを指差した。
「気になるなら、見てもいいよ」
 しず姉ちゃんには、なんでもお見通しみたいだ。
「ごめんね。ちょっとだけ」
 そう断って、スマホを手に取り、メッセージを確認する。
 今度こそ、星野先輩からだった。
「こちらこそ、ありがとう。次回のデートだが、映画を観に行くということでいいだろうか?」
 そのメッセージを読むだけで、胸がきゅっと締めつけられた。
 またデートできると思うと、うれしい。
 星野先輩に早く会いたい……。
 でも、苦しくて……。
 たぶん、こういう感覚がしず姉ちゃんにはないということなのだろう。
 音楽を聴いて、心を揺さぶられ、鳥肌が立つひともいれば、そんな反応をしないひともいる。それとおなじようなちがいなのかもしれない。
 黙っておくか、打ち明けるか……。
 私の心はに乱れ、ぐるぐる悩んで、答えを出せそうになかった。

#11-1へつづく
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「カドブンノベル」2020年6月号

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